爪先で世界を歩く

幼い頃から身体が弱かったなまえには、ちいさな病室だけが世界のすべてだった。数歩歩くと端から端へとすぐに行き着いてしまう、白い箱庭の中で生きていた。

「イタチ、今日はどんな世界を見せてくれるの?」

遠い夏の日に家族で海水浴に行った海の写真を見せたときに、もっと外の世界が見たいと言った。焼け付くような憧憬や羨望はその瞳には浮かんではいなかったが、煌くような好奇心を湛え無邪気に笑っていた。
それからは、オレが白くちいさな世界から外を覗く窓になった。

「前にペルセウス座流星群があっただろう、今日はその写真を持ってきた」
「流れ星を? 素敵、あんなものも撮れるのね」
「ああ、なかなか上手く撮れているぞ」

もう何年も土の上を歩いたことがない彼女に、果たして同情を覚えたのかはわからない。なまえの世界はあの真っ白な部屋で終わっていて、ぽっかりと宙に浮いている。その先を思い描くことはあっても、実際に外の空気を吸いどこまでも歩いていくことは、オレも想像できなかったし、何より彼女自身思ってもいないようだった。
聡い人であったから、駄々をこねる姿も見たことが無い。諦めか絶望か、きちんと自分の及ぶ世界を弁えていた彼女は、静かにその一室で生き続けていた。

「イタチが届けてくれる世界は、とても綺麗ね」
「そうか」
「うん、いつもありがとう」

オレが渡した写真達を、決まってなまえは一枚いちまい丁寧にアルバムへと仕舞う。革張りの大きなアルバムは、今彼女の手に納まっているもので13冊目だ。それらは病室に備え付けられている頑丈な戸棚の奥にひっそりと並べられ、時折取り出されては飽きることなく眺められた。何の変哲もない写真でも、彼女にとっては宝物なのだろう。何年も前のものは随分と色褪せかけていたが、なまえがあまりに愛しげに見つめるものだから、何か特別な魔法でも掛けられたかのようにいつまでも瑞々しく輝いているように見えた。

「私にとってね、イタチがくれる写真は世界の欠片なの」

華奢な指先できっちりと写真をアルバムに閉じ込めると、なまえは淡く微笑んだ。サイドテーブルにアルバムを置き、少し身を乗り出して引き出しの中にある写真立てを取り出す。何処までも続く青い海が映った一枚は、一番最初に彼女に渡したあの写真だった。

「この間、海の水は塩辛いと聞いたの。ねえ、それって本当?」
「ああ、本当だ」
「不思議ね、信じられないわ」
「そうだな……。今度海へ行く機会があれば海水を持って帰ってこよう」
「ありがとう。でも、いいの」

なまえが首を振ると、やわらかな髪がきらきらと煌く。長く続く投薬生活のせいで、彼女の髪は透き通るような亜麻色をしていた。

「代わりにね、どんな味か教えて」
「オレがか?」
「そう、イタチの言葉で聞いてみたいの」

写真を見る以外に、彼女は言葉で世界を知ることも愛していた。どんな些細な言葉も逃さないようにじっと耳を傾け、とても丁寧に世界の輪郭をなぞる。オレが愛した少女は、オレの世界を誰よりも愛する人だった。

「海の味か……。そうだな、舌が痺れるようでくすぐられているような、そんな感覚がする。食塩とはまた違う味だ」
「ただの塩は少し尖っているもの、きっと海は優しいのね」
「ああ、そうかもしれない。それと、何故か少し悲しい気分になるんだ」
「どうして?」
「沢山の命が溶けている、涙の味に似ているからかもしれないな」

オレが少し微笑むと、なまえは満足気に目を閉じた。その薄い目蓋には、彼女の海が浮かんでいるのだろう。オレがなまえに届けた、彼女だけの世界で一番美しい海だ。

「イタチ、ひとつだけお願いがあるの」
「なんだ?」
「私、あなたの海が見てみたいわ」

彼女が目を開ける。その色素の薄い瞳には妬け付くような嫉妬も焦燥も滲んではいなかった。ただ深海のように深い深い静謐な色に染まっていた。幻のように儚い色だ。思わず目を背ける。視界の端に、消えてしまいそうな白が映っていた。袖から覗く真っ白な手首は、痛々しいほどに痩せ細っていた。

「私が死んだら、沢山泣いてほしいの。沢山、たくさん泣いて私のために海を作って」
「……随分と詩人めいたことを言う」
「ふふ、少しロマンチックでしょう? ね、お願いイタチ」

くすくすと無邪気に笑い声を上げると、なまえは驚くほど幼く見える。目頭が熱くなった。滲む視界を悟られぬよう目を伏せたが、少し話し疲れたのか、眠た気に瞬きを繰り返す彼女が気付く素振りはなかった。写真立てを抱き締めながらなまえは独り言のように呟いている。

「一度でいいから、イタチと世界を歩いてみたかったな」
「それなら、来世でいくらでもすればいいさ」
「そうね……、それがいいわ」



それから程なくして、彼女は亡くなった。真っ白な病室で静かに息を引き取ったなまえは、眠っているように美しかった。陶器のような頬は絶えず打ち付ける涙に濡れ、どこまでも静謐に輝いていた。

彼女の棺には、花の代わりに生前愛した数千枚の写真が手向けられた。色鮮やかな世界の破片に埋もれるように、オレは一足のトゥシューズを贈った。何処までも続く白い砂浜を軽やかに歩く、彼女のやわらかい爪先に寄り添うために。


(2012/11/10)


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