やさしい拘束

密度の濃い夜だった。しっとりと咲き誇る桜はとうに闇に消え、淡い芳香がそこはかとなく香る。幾千もの桜花が溶けている闇は、みっしりと蜜のように濃い。空には大きな満月だけが煌々と輝いている。静かな夜だ。

「マダラ様、あまり体を冷やされては毒ですよ」

やわらかな衣擦れの音が零れ、薄衣が肩へと掛けられる。花も綻ぶ頃となったが、春の夜風はまだ肌寒い。酒が入っているせいか気がつかなかったが、確かに体は冷えていた。手元へ視線を落とす。いつの間にか、手にしていた銚子は空になってしまっている。柄にも無く、少し酔いが廻っているらしい。

「すまない、起こしたか」
「はい、誰かさんが障子を開けたままにされていましたから」
「そう拗ねるな、なまえ」

不満気に唇を尖らせているなまえの頬に手を重ね、なめらかな額に口付ける。冷えた指先がほんのりと温まるのを感じた。

「随分と冷えてらっしゃるわ、白湯でもお持ちしましょうか?」
「いや、構わん」

そう言うが早いか、細い手首を引き腕の中に閉じ込める。代わりに温めてくれるか、と耳元で囁くと、なまえは困ったように眉根を寄せた。濡れたように艶やかな黒髪に手を差し入れ、逃げようとする紅唇に噛み付く。先ほどの余韻がまだ身体から抜け切っていなかったのか、触れた唇は恥らうように熱を孕んでいる。思いがけず頬が緩んだ。

「マダラ様、今日はもう……」
「分かっている、ただの冗談だ」

此処は夜風が当たる、と付け加えあっさりと体を離す。情欲のままに組み敷いてもよかったが、戯れにこれ以上無理をさせるのも気が引けた。近頃は半ば気絶させるほど手荒く抱いてしまうことも多い。随分と負担を強いているだろう。

「オレも少ししたら休む、先に戻っておけ」
「いえ、それが……。何だか目が冴えてしまって」
「なんだ、眠れなかったのか」
「はい」

春の夜の夢は浅くて困りますね、そう言って笑うなまえの目元には月明かりでも分かる隈が浮かんでいた。寂しげで窶れた目元である。思わず言葉が詰まる。彼女にかけるべき言葉も見当たらずに、指先で弄んでいた杯の清酒を干した。深い溜息が零れ出る。

「……足らんな」
「飲み過ぎはお体に障りますわ、程ほどになさらないと」
「大した量でもない、お前も付き合え」

酒瓶から直に猪口へと酒を注ぎ、唇に含む。なまえは何か言いたげな表情をしていたが、全てを飲み込むように頭を振った。細い衣擦れの音を響かせて静々と奥へと下がる。暫くして、硝子杯と肴を用意して戻ってきた彼女は寄り添うように隣へと腰を掛けた。肩口にそっと頭を預けられる。芳醇な大吟醸の香りとは違った、まろやかな甘い香が鼻先を掠った。

「いい月ですね」
「嗚呼」

暫しの静寂が降りた。なまえは形のいい柳眉を心持下げながら、薄紫色の硝子杯を細い指先で支えている。ゆらり、と気だるげに杯の中の清酒が揺らいだ。

「マダラ様、」

さらり、と濡れたように艶やかな黒髪が揺れる。漆黒の絹糸が垂れたうなじは、痛々しいほど儚げに白い。蕩けるように艶めいた赤い唇が、凛然と固く噤まれる。
透き通るように澄んでいて、底知れぬほどに深い瞳。潤いの在る水晶は、ずっと彼方の闇を見つめている。儚げな影を落とす長いながい睫毛に縁取られたその眼は、珠を溶いたように美しい。その深層から湧き出るように透明な雫が一滴、音も無く零れ落ちた。

「どうしても、行かれるのですか」
「なまえ」
「どうして……」

ほっそりと折れそうな指の隙間から、はらはらと涙が流れ落ちる。月明かりに零れる露の珠は、怯えるように輝いている。押し殺した嗚咽。掻き抱くように抱き締めれば、なまえは一層肩を震わせた。抱き寄せる腕に力が籠る。閉じ込めた細い肩は、すっかりと冷えている。

「ごめんなさい、分かっているんです……。分かってるのに」
「それ以上は、何も言うな」

噛み締め血が滲んだやわらかな唇を舌先でなぞる。熟れた水蜜桃のように赤らんだ唇がか細く震えた。そっと唇を離す。吐息に混じった弱々しい声が淡い闇に零れた。

「私を、殺してください」

濡れた睫毛の下の艶やかな瞳が此方を見上げている。滑らかな表面には天上の月が映っていた。黒々とした、美しい虹彩だ。この目が自分のいない世界を映すのだと思うと、焼け付く嫉妬で狂いそうになる。いっそ、刳り貫いて奪ってしまえば楽だろうか。頭の片隅で揺らぐようにそう考えた。所詮は、詮無き戯言だ。

「笑えん冗談だな」
「冗談などではありません、本気でございます」
「なまえ」
「……貴方の傍にいれないのなら、生きていたって仕方ないわ」

言葉を遮るように唇を押し当て、吐息を奪う。かたり、と硝子杯が転がった。刹那肩を強張らせたなまえの頬を撫でると、縋るように首に手を回しくぐもった嗚咽を漏らした。――酷い男だ、と我ながら思う。愛しい女一人さえ、愛することも愛させてやることさえ出来ぬのだから。

「死んでくれるのか、オレの為に」

誘われるように呟き、その白い首筋を撫で上げる。はらはらと揺れる黒髪から覗き見た女の横顔は、酷く安らかだった。

「ええ、せめて貴方の手で殺されたいのです」
「そうか……」

愚かな女だな、お前も、と。込み上げる激情を紛らわす為に華奢な耳朶にそう囁けば、なまえはいささか困ったように微笑んだ。瞳を擽る陽光の眩しさに目を細めるかのような微笑みは、彼女の癖のようなもの。そうして笑うと、一層儚げに脆く見える。余りに危うげで繊細に笑うものだから、その微笑みを浮かべる彼女は少し苦手だった。それでも、同時に何よりも愛おしかった。

透き通るような笑みから目線を逸らし、白々とした頸へと手をかけた。不思議と言葉は出てこなかった。まろやかな体温が、冷えた指先から伝わる。細い頸へとかけた手に力を込め、ゆっくりと隙間を殺していった。痛々しい程に白い首筋に、色付くかのようにほっそりとした静脈が浮かび上がる。

「マダラ、様……」

吐息に蕩けた掠れた声が、戦慄く唇から零れ落ちる。夢見心地のように恍惚と目を細めながらも、その瞳は絶えず涙を流していた。

ふと、胸の奥が苦しくなった。この娘が、気の毒になった。この手に踊らされ、ただ愛することだけを望んでいた彼女が。

「なまえ」

涙に濡れそぼった双眸が此方を見上げる。その澄んだ瞳が、来し方とは全く異なった景色を映したのだとしても、それはきっと美しく映るのだろう。胸の内がざわりと粟立った。嫉妬と切望がせめぎ合う。容易いことだ、このか細く頼りない頸を手折ってしまえば済む事である。余計な事などは、考えずともよいというのに。

「オレの事は、全て忘れろ」

その艶やかな瞳孔を見据え、一言呟いた。大きく見開かれた目が移ろうように光を失っていく。記憶の崩れ落ちてゆく音が、聞こえる気がした。それでいい。二度と思い出さずともよい来し方だ。

「お前だけは、生きてくれ」

所詮は何もかもが欺瞞なのだと分かっていた。本当は忘れられたくなどないものを、漸く囁けたのは醜い嘘だった。
何という事は無い。ただ殺せなかった、それだけの事だ。

涙に濡れた目蓋に、一滴の雫が零れ落ちる。彼女の涙と混ざり合い音も無く流れ落ちる様を、いつ迄も見つめていた。


(2012/11/22)


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