花と旅する男

たたんたたん、たたんたたん。
一定の感覚でリズムを刻む列車の音が、囁くように心地よい。目を閉じて枕木を越える音を聞いていると、何処までも遠い彼方に行けるような、そんな途方もない広がりを感じる。
夏の夜は特に良い。しんと眠りに沈んだ深い湖の底から響いてくるような、透明な静けさも伝えてくれる。

がたん。
不意に響いた硬質の音に目蓋を持ち上げる。何の音だろうか。

「落としましたよ」

いつの間にか、前の座席には若い男が座っていた。彼は手に持った何かを此方に差し出している。眠い目を細めながら、その白い指に支えられた古びた本に視線を定めた。

「あら有難う。わざわざ、ごめんなさいね」
「いえ、此方こそ起こしてしまいましたか」
「とんでもないわ、寝過ぎてしまっていたくらいだもの」

軽く微笑みながら、そう答える。手渡された本を受け取りながらも、私は内心首を傾げていた。この夜行列車は、見るまでもなく車内は空いている。二つ斜め前の席に幼い少女が。遠い座席には老爺が一人項垂れている。この辺りから見えるだけでも、それだけしか人はいない。他の車両も似たようなものだろう。どうせなら、他の乗客のように一人で気兼ねなく掛けられる席に座ればいいものを。

たたんたたん、たたんたたん。
古い硝子の嵌め込まれた窓から外を見遣る。暗い夜の向こうには、艶やかな漆黒が広がっている。――海だ。海岸に沿って線路が敷かれているのだろう、夜に紛れた水平線以外何も見えなかった。丁寧にインクを塗り込めたような眺めは単調であり変化が無い。面白味のない景色に見るべきところも見当たらず、結局は前に座っている男に視線を戻した。男は他の客のように眠りに沈もうとするでもなく、ただ黙って此方を眺めている。態々此処を選んだ事といい、退屈でもしているのだろうか。

「眠れないのかしら」
「ええ、無性に目が冴えていて」
「そういう夜は誰にでもあるわ。どうかしら、お暇なら年寄りの話し相手になってくださらない?」
「喜んで」

たたんたたん、たたんたたん。
郷愁を誘う軽やかな音に、その青年の声は不思議なほどに馴染んでいた。穏やかで、深海に揺蕩うように落ち着いた声だ。青年の顔はまだ若い、恐らくは二十歳を越えたかどうか位であろう。私などからすれば少年とも見える程だが、随分と老成している。歳の割りにひそやかな声は、彼の歩んできた余りに過酷な生を想像させた。

「貴方はどちらまで行かれるの?」
「特に目的地は、ただ人を待っていて」
「あら、その花束はその人に?」
「ええ」

その青年は、両手では抱えきれない程のとても大きな花束を抱えていた。やわらかく返事をしながら、優しげな目つきで色鮮やかな花々を眺めている。花を携えたその姿は、気取ったところなど一切無かった。それは、青年が淡く半透明な美しさを持っていたからだろう。よくよく見てみれば、色の白い綺麗な顔をしている。しなやかな睫毛は伸びやかに影を落とし、眸の奥には澄んだ一点のきらめきが宿っている。指先で溶けてしまう様な、酷くひそやかな美しさである。

たたんたたん、たたんたたん。
音に合わせて車内が揺れる度、とりどりの芳香が控えめに鼻を擽る。思いがけず微笑んでしまうような、控えめで優しい香りだ。

「久々に会うんです、だから渡してやりたくて」
「素敵ね、きっと喜ぶわ」

夜行列車には一つだけ荷物を持ち込む事が許される。何でもいい、ただ決まって一つだけだ。選ぶ物は人それぞれ違っている。例えば、安らかに眠る少女は青い目のクマのぬいぐるみを。ハンチングを目深に被った老人は、夕焼けの色に似た綺麗な香水瓶を。たった一つの思い出の品を胸に抱え、人々は列車に乗り込むのだ。それぞれ選んだ物は違っていても、そうっと自らの胸で温めるように大事そうに運ぶ姿は誰もが同じだった。
膝に置いた古びた本に目を落とす。私が選んだのは、一冊の本だった。革張りの表紙はぼろぼろに擦り切れ、頁は黄色く乾いている。何十年も肌身離さず持っていたからか随分とみすぼらしいが、私にとっては何よりも大切な思い出の品だ。遠い日に彼が貸してくれてそのままになってしまい、ついぞ返す事が出来なかった。題名も消えかけた背表紙を撫でれば、その感覚は指先にしっくりと馴染む。何度読み返したかも分からない程だが、こうやってただ背表紙を撫でる事も癖となっていた。

たたんたたん、たたんたたん。
相変わらず列車の音は途切れずに続いている。

「花が好きな人だったのね」
「いや、それがおかしな話なんですが……。好きだったかは分からないんです。ただ、花がとても似合う人だった」
「そうなの」

果たして彼よりも花が似合う人などいるのだろうか。私は少し心配になった。目の前の青年が、花のために誂えられたかのような人だったからだ。彼が言う花の似合う人とは、どれほど澄んだ瞳を持つ人なのだろう。

たたんたたん、たたんたたん。
たたんたたん、たたんたたん。

「あら、」
「どうしました?」
「見て、外が」

湾曲した硝子から見える外は、いつの間にか紺碧の海の上を走っていた。先ほどまでは雲に隠れていた月も顔を覗かせ、静かな月光が水面を照らしている。透き通った水の下には、揺らぐように真っ白な花達が咲いているのが見えた。列車から零れる光が、凪いだ波の上をさっと駆けて行く。それでも青褪めた花々は沈黙していた。

「夢みたい」
「そうですね」
「こんな、穏やかな場所だなんて」

たたんたたん、たたんたたん。
夜行列車は滑るように進んでいく。遠い水平線の彼方が滲むように赤らんでいるのが見えた。深い紺色に淡いピンクや紫の細いリボンが揺蕩い、ほのかに海を染めている。もう夜明けが近いのだろうか。
見上げれば、真っ白な月はまだ天上で輝いている。きらきらと小さな星達が空から零れ落ち、波の合間に消えていくのが見えた。その眺めは、狂おしいほどに、ただ美しい。

ふわり、と甘い眠気が目蓋を覆い、私はそっと目を細める。きっと次に目が覚める頃には海は終わっているのだろう。そんな予感を胸に、溜息を付いた。微睡むように目を閉じ、深く背もたれに沈みこむ。前に座っている青年が優しく微笑んだ気がした。

たたんたたん、たたんたたん。
たたんたたん、たたんたたん。
目を閉じて枕木を越える音を聞いていると、何処までも何処までも行けるような気がする。たった二人きりで、何処までも。

「皺くちゃのお婆さんで、さぞがっかりしたでしょう」

いいや、とあの頃と少しも変わらない声で青年が答える。緩やかに目蓋を持ち上げると、その顔は泣きたくなるほど穏やかな笑みを浮かべていた。掌で消えてしまいそうな、何処までも透き通った微笑み。懐かしい、ちっとも変わっていない。
いつまで経っても美しいまま、彼は生きていた。瑞々しいまでに生きていた。

「六十年、だったか」
「……もう、そんなになるのね」
「ずっと待っていた」

手渡された、両手で抱えきれない程の花束に顔を埋める。海水に溺れたように息苦しくなった。零れ落ちる涙を惜しみ、私は大きく息を吸い込む。肺を満たすとりどりの花の香りに頭が眩々した。ゆっくりと顔を上げる。

「遅くなってごめんね、イタチ」
「構わないさ、お前が生きた証なんだから」

たたんたたん、たた。
不意に列車の音が止む。漸く何処かの駅に止まったらしい。
古ぼけた車窓から見える看板には、『あの世』とだけ書かれてあった。


(2013/06/04)


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