透明だった珊瑚礁

明け方近くに夢を見る。夜でもなく朝でもない、狭間の時。身体はまだ眠っていても、意識は緩やかに醒めている。漂うように心地よい微睡みで、いつも同じ夢を見るのだ。
何処までも続く珊瑚礁に浮かぶ、小さなちいさな島の夢。
目に刺さるほど真っ白な砂の上に、青々とした南国の木々が生えている。見た事もない色鮮やかな花の群れ。蝶が飛び交い、極彩色の鳥達が陽気な歌を唄っている。周りを囲む浅瀬の海は、信じられない位に美しい。硝子玉のように澄み切り、海底には珊瑚礁が広がっている。赤や桃色の枝の間を、宝石の様な熱帯魚がゆらゆらと泳いでいる。その眩しい藍の中で、ぽつりと揺らぐ白のドレープ。

「なまえ?」

踝までの海で遊んでいた少女が振り返る。真っ白な薄衣を纏う姿は、自分が知るよりまだ幼い。そうだ、あの頃のなまえだ。
とろみのある上質な絹で仕立てられたワンピースは、波風にあおられ揺蕩うように翻る。そよぐ裾からは、素直に伸びたしなやかな膝が覗いていた。網膜を啄ばむ真っ白な影。幼い彼女が爪先を水面に潜らせる度、半透明の海月の様に白が漂った。ぱしゃり。水滴が跳ねる軽やかな音。

「オビトくん」

透き通るような繊細な声で、少女が言った。長い睫毛の下の黒い虹彩は、深く深く澄んでいる。その首を小さく傾げると、しなやかな黒髪が血色の程よく透けた頬に零れ落ちる。

「私、あの子にはなれなかったよ」

そういって少女は透明な笑みを浮かべた。ほんの少し困ったように眉を下げ、眩しそうに目を細める。形のよい唇の端を少し持ち上げて、ふっくらと瑞々しい目元には淡い笑みが滲んでいる。その繊細な表情は、確かに笑っているようでもあったし、寂しさに耐えている憂い顔にも見えた。
何事かを言いかけて、俺は多分手を伸ばした。燦々と降り注ぐ陽光が波の上で弾けている。さらり、とスカートが花のように翻る。
嗚呼、光が眩しくていけない。
鮮やかな日の光に透けてしまいそうな笑顔が、ゆっくりと解けていく。

「ごめんね、オビトくん」


不意に目を覚ました。薄く開けた目蓋から除く世界はまだ薄暗い。窓の外に広がる空はひっそりと眠りについているかのように淡く滲んでいる。それでも、もう明け方が近いのだろう。遠くのどこかで鳥が鳴いていた。頭の芯は未だ痺れていたが、一度目が覚めると中々眠気は戻ってこない。仕方無しに起き上がり、グラスに注いだ生ぬるい水を飲み干した。

「オビト?」

眠た気な声が後ろから掛けられる。問い掛けているというよりは、独り言のような呟きの遠慮を孕んでいた。ささやきに似た衣擦れの音。なまえが寝返りを打ったのだろう。

「もう行く?」
「いや、目が醒めただけだ」

何とはなしに振り返る。障子をすり抜けた弱々しい暁の光は、畳の上に幾重にも折り重なり静かに淀んでいた。月の光が細い帯のように射し込み、やわらかく線を描いている。沈黙した闇に横たわるなまえの姿は、深い湖の底に身を浸しているかのように密やかだった。
起きかけたはいいが、未だ覚醒はしていないのだろう。なまえは枕に頭を預けたまま、硝子のような目付きで中空を見つめている。うつらうつらと微睡んでいると、その顔はいつもよりも酷く幼げに見えた。

「夢、見てたの」

そういいながら寝返りを打つ。滑らかな髪が無造作に散らばった。

「海に沈んでいく夢。絵の具を零したみたいに真っ青な海に、ぽつんと浮かんでるの。嗚呼、案外あったかいな、とか思ってて」

未だ寝惚けているのだろうか、平生よりもずっと饒舌な彼女を無言で見返す。一瞬泣いてでもいるのかと思ったが、細く華奢な肩は安らかだ。なまえは背を向けながら、誰に言うとでもなくただ胸に溜まった海水を吐き出すように話し続けていた。

「そのうちね、静かにゆっくりゆっくり沈んでいくの。まるで眠っているみたいに。きっと深海はあたたかで、なんだか安心したわ。恐くはなくって、じっと身を委ねてた」
「それで?」
「それだけ。ああ、でも――」

一瞬息を詰まらせたように声を留め、小さく溜め息を吐き出した。白い腕が仄暗い闇を泳ぎ、そっとその顔を覆い隠す。長い指の隙間から声が零れた。

「リンが、」
「……」
「海の底で、あの子が笑っていたの」

その声は穏やかだった。悲しげでもなかった。苦しげでもなかった。かといって喜びも感じられず、ただただ鏡のように澄んだ湖の底を思わせる静けさだった。
その言葉は祈りに似ている。厳粛に項垂れ、ただ沈黙に身を浸す敬虔さを秘めていた。唇でしっとりと温めるように紡がれた言葉は、まるでリンに手向けられた哀歌のようだった。

「もうすぐだね、オビトくん」

本当は分かっていたのだ、そう呟くなまえが泣いていた事に。泪も流さず、嗚咽も溢さず、それでも彼女は泣いていた。

俺は黙ったまま、なまえの髪にそっと指を潜らせる。さらさらと癖の無いやわらかな髪は、掬った傍から指先から逃げていった。月の光を受けて渦を巻く、濁りの無い水の流れのようだった。

「もうすぐ、会えるね」
「嗚呼」
「リン、笑ってくれるかなあ」

夢見心地で答えた彼女は目を閉じている。夜明けにはまだ早い。もう暫くは眠るのだろう。
――願はくは、その夢が安らかであることを。
らしからぬ事を思う己を声もなく嘲笑った。


明け方近くに夢を見る。珊瑚礁に浮かぶ小さなちいさな南国の島で、幼いなまえが笑っている。何の憂いも無く、ただただ幸せそうに。
叶うのならば、その島で生きたい。見果てぬ夢も焼け付いた過去も、そこでは何もかもがまっさらだ。
俺となまえの二人、他にはもう何もいらない。瓶詰めの底のような閉じた楽園。


(2013/10/27)


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