Gray Scale

空港のロビーは空いている。私は休憩所の椅子に座り、沢山の靴が通り過ぎていく様をじっと眺めていた。殺風景な灰色の床に靴の影がよく映えている。
――少し、疲れているようだ。ざわざわと人々が騒ぐノイズが遠鳴りのように聞こえてくる。同じ空気が循環しているにも関わらず、一つの大きな空白の部屋を挟んでいるかのように色褪せて聞こえるのは何故だろう。
意味も無く、壁一面の硝子を見遣る。鉄の塊が大空へと翔び立つ瞬間だった。

住み慣れた田舎を離れ、都会に出たのは2年前の春先だ。誰も彼もが過去を捨て、真っ新な道を求める都会は故郷の地より生きやすいと思っていた。誰も私を知らない。私も誰も知らない。それはなんて、心地良いのだろう。そう思っていた、そう、思ってしまっていた。
結局、夢ばかり描いた都会暮らしは山に馴染んだ性根に合わず、私はあっという間に精神を病んだ。これ程までに人間は脆いものだったのか。薄暗い埃だらけの部屋に蹲り、無機質な光の洪水は息苦しくて堪らなかった。息苦しいなんてものではない。とうに溺れてしまった私は水死体のようにぷかりぷかりと漂うだけで、呼吸すら出来なかった。

思えば、生き辛い一生を生きてきた。上手く泳ごうと喘ぐ内に、肺は水浸しになり、動かぬ足は溺死していった。なんて取るに足らないつまらない人間なのだろう、と。謙遜でもなく自棄でもなく、そう認めざるを得なかった。それは、とうに摩耗した諦観の成れの果て。

――特別な人間なのだと思っていた。私は他とは違うのだと、信じていた。

どさり、と重い何かが無造作に置かれる音に顔を上げる。つい今し方まで空白だった休憩室の椅子に、男が一人座っていた。足元には大きな革鞄が置かれている。重い音は男がトランクを置いた音だったようだ。仕立ての良い上等なスーツを着た、若い男。僅かに俯いたその顔を認めた時、喉が引き攣るように息を呑んだ。

マダラ、

出会った事もないその男の名を叫びそうになった。眩暈がする。知らない筈のその名前を私は知っていた。遠い昔、気が遠くなるほどの遠い昔。もう死んでしまった人達が生きていた昔のこと。
私には自分が経験した事以外の記憶が紛れ込んでいる。その長さは丁度物心付いた頃のほろほろとした記憶から始まり、擦り切れた老年の淡い記憶で終わっている。80年と、そして3ヶ月。誰かが生き、そして死んだ記憶だった。その死者の記憶の中に、彼は居る。ある日を境にぷつりと途切れているが、幼い頃からずっとその姿を追っていた。少し大人になった頃には隣で笑う横顔が美しかった。目蓋の奥は狂おしい程に優しさに満ちていた。
恐らく、彼は『彼女』にとって愛する人だったのだと思う。無色彩の記憶の中で、その眸だけは特別に瑞々しく美しかったから。

前世の記憶、というものなのだろう。当たり前のように居座る死者の記憶をごく自然の事と幼い頃は考えて、その度に生き辛い苦労をした。誰にも打ち明けずに胸にしまっておけばいいものを、ふとした瞬間に唇から零れ落ち、取り返しのつかない彼方に転がっていた。そして、私は孤立した。実の親さえ気味悪がっていたものだ。
孤独だった。だからこそ、私は特別なのだと信じていた。そうでもしなければ、息苦しくて堪らなかったから。会った事のない愛おしい人、目が眩む程に鮮やかな記憶。それだけが私の支えになっていた。そして同時に、やさしく首を絞める沈黙の枷でもあった。死んだ人の名も無き一生に、私は生まれ落ちた瞬間から縛られ続けている。寧ろ跪き、自ら服従するかのように。そうやって縛り続けている。

斜め前に座る男を、視界の端でそっと見詰める。マダラは分厚い書類か何かの紙の束を繰りながら、時折タブレットで何かを確認するような素振りをしていた。記憶にないそれらの小道具は、今の彼にしっくりと心地よく馴染む。――嗚呼、いきて、いる。何もかもが違っていても、記憶通りの姿だった。私が愛した、うちはマダラその人だ。記憶の中で来る日も来る日も戦いに明け暮れていた彼は、今は何をしているのだろう。飛行機には出張か何かで乗るのだろうか。きっと仕事においても優秀なのだろう、大企業の幹部にでもなっているのかもしれない。そんな男の姿を目蓋の裏でじっと眺めている。

――幸せだろうか。その日々は穏やかであるだろうか。共に過ごした日を、覚えてはいるのだろうか。

下げた目線に、左手の薬指に輝く銀色が目に映った。ああ、と吐息のような嗚咽のような声が漏れそうになるのを必死に堪えた。空いてしまった途方も無い距離を受け入れることは出来ても、よそよそしい硬質な輝は胸を破った。今まで無駄に日々を重ねてきた支え。その指輪は私と交わすのだと、そう無意味に信じていたから。滑稽な悲劇にもなりはしない。なんて事はない、ただの透明な夢物語。
私が追い求め、沢山のものを失っても求めたものも、この世界では何の価値も無かったのだ。

――幸せであるだろうか。あの世界では掴めなかった静寂を、彼は手にすることが出来ただろうか。

私とは、きっと真逆の人生を歩んでいる。そう確信する。悲痛な程に正直な現実に悲しみすら抱かなかった。いっそ清々しいほどだ。決して交わる事のない平行線を引いたように、真っ直ぐとそれは続いている。彼は伸びやかにそこを駆けるだろう。私はその姿を想像する。無闇に気負うのではなく怯えるのでもなく、ただ淡々と振り返らずに歩んでいく。美しく伸びた首筋はなだらかに、地を蹴る脹ら脛はしなやかに緊張している。マダラの虹彩はただ只管、途方も無い遥かな先を静かに見据えている。その目に私が映ることは、決して無い。

どうか幸せであってほしい。
悲しむ事などないといい。
あの頃のように、もう苦しんではいないだろうか。
嗚呼その目に映る世界が、今度こそ美しく安らかであってほしい。

あわあわと湧き上がるそんな思いを抱えながら、私はずっと革靴の爪先を見つめていた。声を掛けたくて、堪らなかった。会いたかった。探していた。会いたくて、堪らなく会いたかった。それでも、この沈黙を崩さず、見詰めることが私に出来るただ一つの祈りだった。ゆっくりとまばたきを繰り返す。誰に届かなくてもいい、誰に知ってもらえなくてもいい。それが私の精一杯の愛だった。

感情の無いアナウンスが無機質な壁に反射する。転がっていたトランクが浮き、白い照明に作られた黒い影が灰色の床に背を伸ばした。――嗚呼行ってしまう。一定のリズムを保つ革靴の足音が遠のいていく。一瞬だった。すぐさま、その音は海鳴りのようなざわめきに紛れていった。
いかないで。そう叫んだ言葉は喉の奥へ滑り落ち、ただ唇からは吐息だけが零れ落ちる。飲み込んだ叫び声は、胎内の深い闇に紛れて何事も無かったかのように溶けていった。

腕時計をもう一度確認する。さほど時間は過ぎていない。30分にも満たない、たったそれだけの短い時間。私が乗る飛行機の時刻は、多分まだまだ先だ。電光掲示板に書かれた発着時間は酷く遠い。
少し、眠ろう。目を閉じれば倦怠感が体中に巡っていき、項垂れるように脱力した。目蓋の黒が綻びなく、何処までも広がっていく。その底知れない闇に私はゆるやかに落ちていく。
そういえば、いつになったら飛行機は来るのだろう。もう随分と待っている。


――久しぶりだな、元気だったか。
――そこそこ。貴方は?
――まあ悪くはなかった。
――そう、それはよかった。

――それじゃあ、さようなら。お元気で。
――嗚呼、また来世で。


記憶の中で話す幻影の囁き声に、私は固く耳を閉ざす。泣く事も出来ず、ただ一人灰色の椅子に佇んだままでいた。


(2014/11/02)


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