余白の標本

朝起きたら、周りの音が騒々しくなっていた。その所為で私の声が聞こえなくなってしまったらしい。
寄りによって住む場所も環境も様変わりした直後だったこともあり、もっと不便なことが増えるかと思っていたが、案外そういう訳でもないと気付くのは早かった。雄弁は銀、沈黙は金、とも言う。余計な事を話し過ぎ、取り返しのつかない事態を引き起こしてしまうような軽々しい声は喉の奥に隠しておいて、ただ静寂に耳を澄ませていると時にはあらゆることが上手くいくものだ。
周りの人間もその辺りの事情を察し、半ば見放すように遠巻きに触れずにいてくれていたことも救いだったのだろう。単純に皆忙し過ぎて構っていられなかったという事情もあるのだろうが。

軽率な声が何処かへ彷徨っている頃、ちょうど空いた隙間に収まるように彼は現れた。
驚きのさざなみすら立てないさり気なさで、気付けば彼はそこにいた。そこ、というような曖昧な表現でしか表せない、視界のほんの片隅。意識と無意識の境界、認識できる世界の狭間にひっそりと立ち、その境を思慮深く見定めているようでもあった。
彼が立っていた場所を明確に表現出来ないのと同じように、『彼』としかその人のことを形容する言葉を私は持っていなかった。よく顔を見ようとすれば、すぐさま視界の谷底にするりと入り込んでしまう。それは目蓋に広がる闇の輪郭を捉えようとする、途方も無い感覚に似ている。顔の造りも背格好も何故か曖昧で、全体の印象として透写紙で透かして見ているように秘密めいていた。その声も同様に淡い。何度も話をしていたのだから確かに聞いていた筈なのに、どんな声だったか思い出そうとすればするほど輪郭は解れ、全く見当違いの誰かを思い出しているという具合になってしまうのだ。
これほど曖昧なままでいたのは、矢張り名前すら教えてもらえなかったからではないだろうか、と私は今でもそう考えている。ただ、聞いたところで答えは確固として決まっていて、呆れたように笑いながら、下らない事に頭を使うんじゃない、と諫めるのだ。

「名前なんて必要無い、そんなものは所詮分類する上での項目でしかないだろ。今の俺はお前にしか見えていないんだから、お前が分かっているならそれでいいんだよ」

分かるような、分からないような理屈だ。詭弁と言ってもいいのかもしれない。私が知りたい事は名前すら教えてくれないというのに、そのしなやかな唇は随分と饒舌で、聞いてもいない事は滔々と話し続ける。光の軌道が真直に線を描くような、そんな迷いのない確かさを持っていた。だからなのだろうか、彼の声が紡がれる度に静寂が際立つような心地だった。

相変わらず、普段の日常ではざわめきが鼓膜を刺すばかりで何も聞こえない。自分の声だけでなく、周りの声もよく聞き取れなくなっていた。声が言葉として形を成さないのだ。だが、彼が話しかける一時だけは喧騒の渦から掬い上げられ、言葉の連なりに耳を澄ますことが出来た。
彼は気紛れなお喋りだったが、余分に話し過ぎるという事はなく、埋めてもいい沈黙の量をきちんと弁えていた。大抵は私の事情に構わずに話し続けるので、多少なりとも煩わしく感じそうなものなのだが、そういう感情を覚えたことはなかったように思う。彼が与えてくれたのは空白を補う程良い饒舌と、鈍重な絶望に心が圧し潰されないようにその身を呈して懸命に守ってくれる慎ましい余白だった。

彼との出会いはほんの些細なものだった。何故なら、能弁な彼はその言葉と反してとても恥ずかしがり屋だったから。手を伸ばすと伸ばしただけ遠くに逃げてしまう、内気な蜃気楼のようだった。
その日は吹き下ろしの北風が特に強かったこともあり、最初は目に塵でも入ったのか、と私は思ったのだ。それが大層気に入らなかったらしく、いかにも心外だというような声で大袈裟に落胆してみせた。

「選りに選って塵だなんて、随分な言い草じゃないか」
「……誰?」
「塵じゃ無いことは確かだね」

至極真っ当な質問だったと思うのだが、彼は呆れたように溜息を吐いてしまう。確かに埃や砂に間違えられたのなら気分も悪いだろう。一欠片の後ろめたさを覚えていたので、それ以上は深く問わなかった。ただ、何故そんなところに居るのかは、矢張り気にかかる。

「そこで何してるの?」
「余白を作っているのさ」
「余白?」

余白、とはあまり馴染みの無い言葉だ。空白や隙間ではないのだろうか。同じようなものだと彼は笑っていたが、なんでも余白はそれらよりも大切なものらしい。それらの言葉を頭の中一度バラバラに崩し、なぞり書きながら少し考える。確かに空白や隙間はどこか余所余所しく聳え立つような空気がある。それに比べると余白というのは、恥じ入るように慎ましやかで、それでも与えられた使命を全うしているのだという誇り高さがあるのだろうか。

「何かが埋まっていないと言うのは良い事なの? あまりそうは思えないけど、足りなかったり欠けていることって大抵は寂しいでしょ」
「そうでもない、時にはそれが必要なこともある」

今のお前が声を無くしているようにね、と彼は続ける。少し驚いた。

「あなたが私の声を持っているの?」
「そう」

事も無さげにそう答え、彼は腰から下げた忍具入れを軽く叩く。そんなところに迷い込んでいたのか、と驚くと同時に、ぞんざいな扱いに私は少し眉を顰めた。せめて、もう少し綺麗な入れ物、――例えば上等な砂糖菓子が入っていた空箱だとか、そんなものに仕舞われていたら良かったのに。兵糧丸や煙玉と一緒くたに入れられているとはあんまりだ。

「返してよ」
「無くても別に不自由してないだろ?」
「……それでも、そんなところに入れられるのは流石に嫌」
「ああ、忍具入れに放り込んでいるから怒ってるのか。心配しなくても、今はお前のものしか入ってないよ」
「それにしては随分と重そうだけど。本当にそれだけ?」
「それは仕方ない。沢山だったからね」
「大変じゃないの?」
「お前に心配されるほど、俺もやわじゃない」

軽やかに笑っているが、どうにも心配になるほど彼は線が細かった。ささやかと言ってもいい。大丈夫なのか、と思わず念押しすると、一丁前に心配するんじゃない、とまた呆れられてしまった。

私達は他愛もないお喋りをよく楽しんだ。他の人とは話す声を無くした私も、彼とだけは流暢に会話を交わすことが許される。他では沈黙を守っている所為か、おしゃべりな彼以上に私も饒舌だったように思う。怯えたように縮こまっていた言葉達は伸びやかに溌剌と溢れ出す。余りに取り留めなく話したり、遠慮無く質問ばかりするものだから時には苦笑いされてしまうこともあった。だが、大抵彼は根気良く付き合ってくれる。他にする事もないのだから暇潰しに丁度いいという事だった。
顔もわからない彼が、きっと私にとって何か大切な人だったのだろう、と思い至るにはさほど時間がかからなかった。ただ、私はどうもそのあたりの事を忘れてしまっているらしい。零れ落ちてしまった彼の記憶が私の中での大きな空洞となり、そこに声や記憶が吸い込まれているようだった。一度そのことを謝ったのだが、いつものように何も気にしていないような曖昧な素振りではぐらかされてしまう。

「忘れられると言うのは辛くないの」
「どうだろうね、仮に忘れられたとしても無くなってしまう訳じゃないから。仕舞っているだけだろう? 軽々しく見せびらかすより、大切に隠してる方がいい事もある。それに、お前が潰れてしまう方が忍びないかな」
「私は自分の心を守るために、あなたを忘れたのかな」
「そうだよ、それは必要な余白だ」
「余白……」
「まだ時間が必要なんだよ。焦らなくていい」

諭すような声でそう結ぶ。そういう時、いつもより彼が遠く感じる。だが、私と彼の間に空いている空間は厳粛に保たれ、必要以上
狭まることも遠ざかることも無い。手を伸ばしても届かない距離を隔てた、私の斜め後方辺りに彼は佇んでいる。もしかすると睫毛が触れてしまうような距離なのかもしれないが、伸ばした指先は決して届かない。いっそのこと触れられればいいのに、と思ってしまう日も正直あったが、そうすると彼が言うように私は圧し潰されてしまう気がした。抱えているだけで潰れてしまう程の記憶なのだから、きっと私は途方も無く彼の事が大切、もしくは愛していたのだろう。そんな人の記憶を隠してしまうというのは、随分と自分勝手で薄情なようにも思える。
だが、だからこその余白なのだろう。触れられなくとも声は届く絶妙なこの距離が、今は適切な位置なのかもしれない。

「時々ね、思うの。このまま声をあなたに預けられたらって」
「どうして?」
「だって、きっと居なくなっちゃうんでしょ」

私がそんな他愛も無い我儘を言うと、彼は僅かに間を置いた後、普段よりも一層丁寧に、静けさの綻びを縫うように言葉を続けた。
語調は変わらない。いつものように諭しているようにも聞こえる。だが、呆れているというより、少し申し訳なさそうだった。

「そうすると、また新しい何かを隠すことになるだろ。何でもかんでも隠してしまえばいい訳じゃない、それは考えなしの馬鹿のやる事だ」
「流石に面倒見切れない?」
「見てやりたいと言いたいところだけど、生憎とね」

私はまばたきを繰り返す。また目に塵でも入ったのか、と揶揄う声が鼓膜の奥で響いている。網膜に映り込んだ彼の影がちらちらと揺めき、目の前の風景と二重写しのように重なって見えた。彼の細い肩に睫毛の影が降りる。余りにか細いものだから、涙の波間に滲んで、ほろほろと溶けてしまいそうだった。うっかり涙が溢れてしまうとその雫と共に流れ落ちていく気がして、私は咄嗟に上を向く。眼窩には一匙の小さな湖ができていた。

「もう枯れるほど泣いたと思ってたんだけど」
「だから目に塵が入ったんだろ。ああ、擦るなよ」
「擦らないよ。昔から思ってたけど、案外心配性だよね」
「なにその、案外って」
「だって、末っ子なのに」
「兄さん兄さんって俺の後ろについて回ってたお前に言われたくはないな」
「……もうとっくに追い抜いちゃった」

その背中はいつも前にいてくれていたのに、空白を飛び越すようにとっくに置き去りにしてしまったのだ。だから今は斜め後ろから響く彼の声に耳を澄ませている。私達の間には相変わらず触れ合うことの出来ない距離が厳粛に息を潜めていた。だが、触れ合えなくてもそこにいてくれるだけでいい、と今はそう思えた。

「何かしっくりくる言葉があればいいんだけど、何も思い付かないの」
「必要無いよ、言葉で表せる事なんてそう多くない」
「余白の方が大事なのね。なんだか余白って沈黙と似てる気がする」
「へえ、お前にしてはいい事言うじゃないか」

劇的な物語に憧れていた訳ではないけれど、何となく永遠に一緒にいられたらいいとは思っていた。時勢を思えば無根拠で無責任な夢だったが、思い描く最果てはどこまでも自由で伸びやかだったから。
結局は幸せとは言えない結末になってしまった。だが、かつてそこにいたという輪郭すら愛おしく思えるほどに愛した人がいたのは、きっと幸いなことなのだろう。

もういなくなってしまった一人分の空間を抱き締める。何もないそこからは沢山の記憶が溢れてどこまでも私を満たしている。優し過ぎることはないが、しなやかに受け止めてくれる人だった。いつだって静かに寄り添ってくれるような、そんな慎ましやかな愛だった。

ありがとう、もう大丈夫だよ。と声に出さず私は呟く。少し安心したような笑顔を目蓋の裏で思い描いていた。でも、それは単なる空想であり何の根拠も無い妄想でしかない。名乗らない彼は、最後のひと時まで名も無き誰かでしかなかったのだから。

「またね、おやすみなさい」
「嗚呼、おやすみ」

それきり、彼は二度と現れなかった。

心的外傷による失声症を患っていた私が、ある日突然何事もなかったかのように話し出したものだから周りの人間には随分と仰天され、そして呆気ない程にすんなりと日常の喧騒へと戻る事になった。騒がしくもあったがそれらは不快な騒めきではなく、私の声が隠れてしまう事もきっともうないだろう。
それは、恋人だったうちはイズナの三周忌を迎えた朝のことだった。


(2021/03/26)


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