心中
そっと持ち上げた睫毛の隙間からは、仄暗い水面が見えた。頼り無く身体が揺れている儚い感覚。足元には水の気配。どうやら、酷くちいさな小船に乗っているらしい。船首に古びたランタンが掲げられており、揺らぐ水面を蝋燭の火が照らしている。その所為か、辺りもほんのりと明るくあたたかい。深い闇の中に目を凝らして気が付いたが、此処は洞窟の中なのだろう。無骨に隆起した岩肌がそこかしこから迫っている。
いつからこんな所に。いくら記憶を辿れど、ぷつりと途中で途切れたように覚えが無い。それでも不思議と怖くはなかった。
静かだった。眠っている間にそっと鼓膜を取り上げられてしまったのかと錯覚するほどに一切の音がしない。いつの間に私の耳は逃げてしまったのだろう。僅かに不安になり、揺蕩う水に手を伸ばした。指先から何かが逃げていく感覚。あ、と唇が開いた。掌に乾いた木の棒が握られていたことに気が付き、慌てて握りなおす。ぱしゃり。おや、と思い、両の手に握られている櫂を繰れば、戸惑い無く船が進む。ぱしゃり、と軽く水面を叩く音がやけに響いて聞こえた。痛いほどの静寂に慣れた耳に、それは思いの外すんなりと染み込んだ。あたたかく、温度を持ってさえいるようだ。ゆっくりと腕を動かせば、規則正しいリズムで水が跳ねる。
「綺麗……」
船から覗き込んだ地底湖は、水底が見えるほど澄み切っていた。水深は決して浅くない。透明度がとても高いのだろう。蝋燭の灯りが迷い無く降りていき、幽かに湖の底を照らしている。
その湖を邪魔するものは何も無かった。白い腹を閃かせて泳ぐ魚もいなければ、黙然と蹲る水草さえ生えていない。淡く青褪めた水がひっそりと湛えられているだけだ。水晶のようだった。それが、現実感に乏しく美しい。
「ねえ、ヴィーナスの花籠って知ってる?」
そこで、初めて同じ船に乗るもう一人に声をかけた。彼は目を閉じたまま答えない。それでも構わずに私は続ける。
「カイロウドウケツのことよ。深海の生き物でね、真っ白な塔のような形の。骨格は髪の毛ほど細い硝子で編まれていて、生きているって思えないくらい綺麗なの。きっと、体温が無いからだわ」
そう貴方みたいに、そんな言葉を飲み込んだ。ぴったりと閉ざしたままでいる彼の目蓋は、陽に晒されたことのない深海の生き物のようにひんやりと青白い。彼も温度を持っていないから、こんなにも濁りの無い白なのだろう。
ふと視線を逸らした。よく目を凝らせば、深い湖の底に白い筒のようなものが滲んでいるのが分かる。丁寧に織られた繊細なレースのような姿が目蓋に浮かぶ。本来ならば光の届かない深海にしか生きられない彼等がこんな浅瀬にいるわけが無いが、その想像はするりと胸の奥に収まった。あれはカイロウドウケツだ。きっと、この洞窟は海へと続いているのだろう。
ゆっくりと櫂を動かし続けている。湖は存外広く、中心はまだ先のようだ。
彼はまだ眠っている。私はただ話し続ける。
「カイロウドウケツの中にはね、二匹の海老が住んでいるの。ドウケツエビって名前で、生まれたばかりの頃にカイロウドウケツの中に入るんですって。その中でひっそりと成長していくの」
洞穴内は酷く温度が低いはずだが、寒くは無かった。ちょうど良い、体温と馴染む闇に包まれている。足元に湛えられた水はいよいよ蒼い。
「不思議なことにね、彼等は一生をその中で終えるのよ。生まれたばかりの頃は網目より小さいけど、大きくなってしまって出られなくなるのね。ねえ、ドウケツエビはそれを知っていたのかしら」
その二匹が暮らす中は、檻の様なのだろうか。狭く暗い骨格の中で、身を潜めるようにして。
「出たいとは、思わないのかしら」
堅牢な硝子に閉じ込められて、怖くはないのだろうか。残酷なまでに、静かな場所に囚われていることは。墓場のように安らかで、羊水のように遠い場所だ。
彼等はとても静かに、一途に生きている。ひっそりと二人だけの世界の中で、切り離されたその中で暮らすのだ。生きているのか、死んでいるのかさえ曖昧な、酷く密やかな日々。眠るような生き方だ。
それでも、と私は思わずにいられない。きっとそれは、得がたく幸せなのだろう。
「そんな風に生きられたらって、思うわ」
溜息を吐くように呟いた。いつの間にか湖の中心に来ていたようだ。櫂を握る手を緩める。掌から逃げていく二本の櫂は音も無く沈んでいく。そっと折り重なるようにして。
岸は遠い。ランタンの蝋燭も終わりが近づいていた。静寂に包まれた、私達だけの世界だ。
「ごめんね、サソリ」
そんな言葉が零れ落ちた。彼は眠りについたままでいる。長い長い夢を見ているのだろう。私の謝罪は届いただろうか。ただ冷たい岩肌に反響して、洞窟の奥へと吸い込まれて消えてしまっただけだろうか。
人の身体を捨て、人形となったサソリは目を覚まさない。
「これからは、貴方と一緒にいられるのね」
その身体はあまりに痩せていた。少年のまま時が止まった体躯は、か細いと言ってもいい程だ。抱き締めば、両腕の中にすっぽりと納まった。白い骨格の塔の中で眠りにつく、ちいさなドウケツエビのように。そこにある事を疑いもせず、従順なまでに沈黙していた。
やわらかく閉じた目蓋の向こうでは、白い洞穴の壁が淡く光っている。小船から身を投げ出し、私達は吸い込まれるように湖の深くへと沈んでいった。羊水のようだった。あたたかく、泣きたくなるほどに静かな地の底へと落ちていく。
「馬鹿だな、お前も」
細かな泡の声に紛れて聞こえた声は穏やかだ。寄り添う彼はいつの間にか微笑んでいる。そっと持ち上げた睫毛の隙間からは、遠い水面が見えた。胸が苦しい。溺れたこの肺を満たす、酸素が酷く恋しい。正しかったのか、間違っていたのかと問われれば分からない。ああ、でも。
「貴方だって」
(2017/09/20)
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