空白に祈る

「あんなこと、言うから」

口に出した独り言は心底拗ねているようで、あまりにも大人げない響きである。さわさわと背筋が浮き上がるような居心地の悪さが後方に去来する。流石に居た堪れなくなってしまった。
思わず振り返った。誰が聞いている訳でもないのだから別段構わないのだが、私は注意深く伺うように視線を泳がせる。叱られた子どもでもあるまいに。
――勿論、誰もいない。いる筈がない。それでも誰かがいるような気持ちになるのは、もしかすると自分の願望の発露なのだろうか。よしんば願う誰かがいたとするならば、きっと呆れて笑われてしまうだろうけれど。

困り果てた表情で姿見の中に映る姿は途方に暮れた幼児のようで、笑い飛ばしてほしい程に滑稽だった。手に持った着慣れない礼服を身に当て、しばし虚像の自分と睨み合う。まんじりともせず射竦めること、実にまばたき数回分。そして、半ば八つ当たりのようにくしゃくしゃと丸めてしまう。とはいえ粗末に扱えば後々厄介なのは分かり切っているので、言い訳がましく皺を伸ばす。果たして、これで何度目だろう。紛うことなき拗ねた幼子のそれである。
先に行ってる、と言い残して義兄が出掛けたのはもう数刻も前になる。いい加減腹を括らなければ、と背筋を伸ばすが、流石にそれは些か大仰なのでは、と私は図らずも失笑した。
なにも、面白くはないのに。こんな身空と成り果てても下らない事で笑えるのだと思うと、それもまた酷く虚しい。
ようやく観念して、私はのろのろと勿体振って袖を通す。前を合わせ、帯で留めて襟を抜く。立ち襟の装束ばかりなので着慣れないのは否めないが、着付けが出来ないわけではない。――少々不格好ではあるが。だが、例え行儀良く着こなしたからと言って然して変わるものでもないだろう。こういうものは心根の問題である。

鏡の中には、居心地悪そうに眉を顰めた女が立っている。当たり前だ、そもそも着たくもないお仕着せなのだから。仏頂面にもなろうというものだ。
薄氷のように頬が強張る。均衡が崩れた表情。どっち付かずの泣き笑いのようだ。きっと、不細工だと笑われてしまうだろう、そんな他愛もない事をまた思う。

「やっぱり、似合わない……かな」

うちはの喪服は白である。けぶる朝霧のような練絹の真白だ。もしくは、唇を寄せれば溶けてしまいそうな透き通る淡雪の白。我が一族の代名詞とも謂われる藍染の忍装束が黒衣に見えることから差別化の意図もあるのかもしれないが、死者が纏う死に装束と相違ない色を敢えて纏い、死出の旅路に往く故人の不安に寄り添うという意図もあるらしい。愛情深いと呼ばれる血族ならではともいえる考え方である。
我々にとって、黒が日常であるケの色ならば、白は非日常のハレの色だ。穢れのない、純白の祈りの色。白を纏う時は決まって祈る時である。己の黄泉路が安らかであることを祈る。愛しい誰かの冥福を祈る。とこしえに誓いが続くことをただ願う。
無論、葬送に用いられるだけでなく、婚礼の時に着られる衣装も同じく白である。幸せを掌でほろほろと丸めたような綿帽子。何物にも染まらない無垢の打掛。恨めしいほどに美しい花嫁衣装。

白がまるで似合わない、そう言われたのだ。どこからか引っ張り出してきたらしい御母堂の形見である白無垢を無理矢理被せてきたと思えば、選りに選っての第一声がそれである。集落一の悪童ぶりは健在か、と私は何とも呆れてしまった。
だが、底に凝る甘い朱色を透かしたように僅かに赤らんだ頬を見て、なんとも言えない淡い気持ちになったのだ。似合わないと揶揄われたのは業腹だが、仮に似合うと褒められたところで恥ずかしくて居た堪れなかっただろうから。
似合ってはいないが、別に嫌いな訳ではない、と。数日経った頃に思い出したように弁明された。馬子にも衣装、と続けて相変わらずの憎まれ口を叩かれたが、それがまた堪らなく愛おしかった。もう何年も前の話である。

似合わないと言われた白を彼の前で着るのなら、せめて唯一で。願うなら、ただ一度きりでいい。漠然と思ったそれは現実から目を背けた愚かな戯言であり、子ども染みた祈りだった。何があるか分からない戦乱の世であるが、死装束も喪服も晒したくない。目にするのも嫌だった。幾度となく飲み下したところで、皆が当たり前と言うその覚悟を私は持てなかったのだ。
この微温湯のような幸福な日々がただ変わらずに続いてほしい。往く先も還る後も何も無く、ただ切り取られた瞬間だけの浅い夢に酔っていたかった。

結局、白装束は見送る喪服になってしまった。一生の内でそう何度も着ないものだから、一枚の礼服として使い回されるという事情である。稀に聞く話ではあったが、まさか自分がそうなるとは思わなかった。
まさか、そう、本当にまさかだった。イズナが死ぬなんて思ってもなかったから。

もうじき葬儀が始まるだろう。まだ正式な夫婦であった訳ではないから、喪主は義兄だ。正しくは義兄となる予定だった人。思えば、結果として私はイズナにとって何の俗柄にもなれなかった。予定されていた祝言は永遠に訪れず、ただの空白が居座るだけである。

見慣れぬ純白の練絹を見ていると、頭の芯が揺らぐ心地がする。外から差し込んだ陽光が表面でさらさらと反射し、網膜の奥深くで弾けている。眩暈がした。思わず固く目を瞑り、厳粛にこうべを垂れるように私は俯く。

白は祈りの色だ。だからこそ、祈らなければいけない。冥福を、死後安らかであることを。穏やかに祖先の神々の御許へと至り、我々生者を見守っていてくれるように。
あの人の隣であることを誓い、共に幸福であるように祈る筈だったこの喉で。鼓膜に染み入るのは祝う祝詞ではなく、偲ぶ祭詞。私の隣ではなく、遠いどこかの黄泉路に在れと言う。
馬鹿げている、何が冥福か。何が穏やかであるように、だ。一族きっての不倶戴天を掲げる急先鋒、厳酷苛烈であったイズナには滑稽なほどに似合わない。うちはを守護する荒ぶる神となろうとも、ただ穏やかであれとは余りに乱暴である。そんな祈りなど私は口が裂けても捧げたくはない。

何もかも茶番に思えた。口先だけで祈る言葉も、似合わないと言われた白をこんな形で晒すことも。イズナがいない世界、その全て。

「行くの、やめよう」

拗ねたように私は呟き、破れかぶれに仰臥する。後から誰かに何か言われたなら、何か適当な理由で誤魔化そう。そう、似合わない喪服を着てイズナに笑われるのが嫌だから、そんな戯言がいいだろう。きっとそれが私を置いていったあの人への、ありったけの嫌味と最大限の慰めになると思うから。
目を閉じる。真白と真逆である目蓋の闇に蹲る。――りぃん、と。遠い彼方で野辺送りの鐘が鳴っていた。


(2021/05/07)


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