常夏を詰めたラムネ瓶
遠くに行こう、と突拍子も無く言い出したイズナに連れられ、行く当てもなく単線の電車に乗り込んだ。あと少しで夏休み。まだ講義はあったが、少しくらいサボったって別にいいだろう。きっと教える側ももう夏休み気分であるし、こんな天気の良い日に屋内にいる方が貴重な若さを無駄にしている気がする。どちらが言ったわけではないが、多分どちらも思っている共通の認識だった。蝉が鳴き、影が青く感じるほどに眩しい空に入道雲が浮かぶ頃から浮足立っていた。暑さは人一倍苦手な癖に、二人して鮮やかな夏が好きなのだ。
特に目的地もやりたいこともあった訳じゃない。逃避行のように切羽詰まってもいなければ薄暗いものではないけれど、結果的にそんなふうになっていた。古ぼけたボックス席に向かい合って座り、緑と青が濃くなっていく車窓を眺める。銀枠に切り取られた風景は映画の一幕のようだった。節電のためなのか車内の電気は落とされているので余計に外が眩しく見える。どうという訳でもないのに二人でいるだけで無性に楽しい。
景色に飽きたら、枕木を越える音を聞きながらうたた寝をする。そうしているうちに、今では中々見かけなくなった骨董のような木造の駅舎を構える無人駅に列車は停まった。降りてみよう、と言ったのは同時。
「あっつ」
「何もないね」
「どうする、外出て散歩でもしてみる?」
「えー、暑いからいいよ」
「何のために降りたんだか」
「イズナだって別に乗り気じゃないでしょ」
「まあね」
「でもなんかいい感じ、写真撮ろ写真」
写真を撮るといっても手持ちのスマホで撮るだけなので大したものじゃない。これは主に私が率先して楽しんでいて、イズナは風のようにからりとただ笑っていた。顔の良い被写体にやれこんなポーズを取れ、角度はこう、と好き勝手に注文を付けた結果満たされたカメラロールは中々壮観である。かっこいいね、と私が思わず褒めれば、知ってるとイズナは返す。満更でも無さそうな横顔。自分の顔の良さを自覚した上で隠さないのは、卑屈になるより素直で好きだ。
申し訳程度に据えられたホームの長椅子に並んで座る。気紛れに吹き抜ける夏風が髪を拐う。日差しは刺すように厳しいが、市街地よりも湿度が低い分日陰で風が吹けば幾分か心地良い。風と共に運ばれてくるのは、草いきれを孕んだ青い匂い。
「夏の匂いだね」
「まあ言いたいことは分かるよ」
「プールの塩素とかもさ、夏の匂いだなって思ったりしない?」
「随分また懐かしいの上げたね。どうかな、蚊取り線香とかもそうだと思うけど」
白い喉を惜しげもなく晒し、イズナは自販機で買った空色の清涼飲料水を一気に飲み干す。ころり、と転がるビー玉の音。古ぼけた立ち姿だったが、単なる缶ジュースだけではなく瓶のラムネが置いてあるなんて随分気が利いている。
「……ねえ、あのさ」
「なに?」
「んー、夏だね」
「なんだそれ」
曖昧に笑い、吹き抜ける風につられて視線を転じる。青と白、そして一面の緑。視界を構成するのは眩しいまでの三色だけ。遠くに連なる山々には背の高い入道雲の影が落ちていた。盛夏を少し過ぎた、晩夏の頃である。彼方から響くのは盛りを過ぎたクマゼミのまばらな声とツクツクボウシ。急にご機嫌なリズムになったと思えば、余韻のように後を引くあの珍妙な鳴き声を聞く度に、今年も夏が終わるのだと切ない気持ちになる。彼岸はまだ遠い。暑さは依然として厳しいままだけど、あの空の青さは秋のものだ。夏の終わりはどこか寂しい。一年で一番美しく、最も儚い季節だと私は思う。
――暑いのは嫌い。だけど、永遠に夏が終わらないでいてほしい。ずっとこのままでいれたらいいのに。
埒も無い戯言を飲み込むようにラムネを飲み干す。しゅわしゅわと消える泡と共に言えない言葉は弾けていく。出そうで出ない硝子玉がころころと光を反射する。いっその事こんな風に閉じ込めていられたら、そう思うのは少し乱暴なのかな。
「夏が懐かしく感じるのは、いつの記憶なんだろう」
思わず呟いた言葉に我に返る。隣に座るイズナの方は見ず、誤魔化すように私は笑った。
「だって不思議だと思わない? こんな景色ちっとも見慣れてないのにすごく懐かしく思えるんだから」
風になびく青々とした田園風景。眩む白光。彼方で霞む稜線。土の匂い。大都会と言うほどでもないが市街地の真ん中で生まれ育った私達には全く馴染みのないはずのそれらが、何故か無性に恋しく思えるのだ。夏が切なく感じるのはもはや戻れない遠い日への郷愁なのか。それは有りもしない子供時代の幻影か、あるいは。
ひかえめな蝉時雨が聞こえている。イズナは何も答えない。いつもなら真っ先に揶揄うのに、余りにも突拍子のない内容に呆れ果てているのだろうか。そう思うと少し恥ずかしい。また変な事言ってるって呆れてるでしょ、おどけた様に私は言いながら視線を向けた。
「……イズナ?」
呆れているのでもなく、揶揄っているようでもなく。イズナは心持ち眉を下げ、困ったように笑っていた。眩しげに目を細めているようにも見える儚げな表情。硝子瓶に閉じ込められたラムネ玉をただ眺めているだけのような。届かない何かを懐かしんでいるようにも見える。柔和な見た目に反して、強面のマダラさんよりずっと男気があるイズナには珍しい笑みだった。初めて見た、その筈なのに。
――ああ、でも確かあの時も。眼を譲るなんて止めてって私が困らせたから、
ふ、と伸ばされたイズナの白い指先が頬に触れる。あの時よりずっとあたたかい生きている体温。いつの間にか流れていた涙を拭い取られ、私自身が酷く驚いた。
「あ、れ……。なんでだろ、ゴミでも入ったのかな」
「……さあね」
泣いているから困らせちゃったのかな、そんな顔させたかった訳じゃないのに。優しくあやす様に、イズナは相変わらず困ったように微笑んでいる。イズナは聡いから、きっと何も言わなくても私が言いたいことなんて全部分かってしまっているんだろう。だからこうして非日常の逃避行に付き合ってくれた。
夏が終われば、次の春が近くなる。大学の最終学年である私達は来年めでたく卒業予定だ。私はこのまま地元に、イズナは都心の一等地へ。向こうで聞こえるのはミンミンゼミらしいね、そんな他愛もないはずの会話も先ほど思い付いたが言えなかった。言えばきっと堪らなく苦しくなるだろうから。
きっとこれが最後の夏。なんとなくだが私はそう確信している。別段仲が悪い訳じゃない。それなりに長い付き合いでもあるが、イズナとこれから先もずっと一緒にいられるなんて思っていない。思えなかった。それは私と彼だと釣り合わないのではないか、というような気後れ以前の話で、何故か自然とそう納得してしまうからだ。秋が暮れ、冬になればイズナは遠くへいってしまう。夏の郷愁のように確かな理由は分からないけれど。
踏切の音が蝉をかき消す。戻りの電車がホームに滑り込んでくる。田舎の時刻表は笑ってしまう位に余白ばかりで、これを逃すと次は数時間先である。
夏の照り返しが眩暈を覚えるほどに途方も無く眩しい。くすんだ列車すら光り輝いているように見えた。何もかもが美しいだけの、幻のような白昼夢だ。
乗らなきゃ、とは分かっていた。それでも乗りたくない。まだここに、この夏にいたい。
とはいえ、実際にそんなことを言えばイズナも困るだろう。別に何を言うでもなく二人同時に自然と立ち上がる。案外楽しかったね、でもいい加減暑い、なんて下らない事を話しながら、きっとこの何でもないひと時が狂おしくなるだろう遥かな先を思い描く。
並んで立つイズナが、不意に思い出したように言った。
「来年の夏休みはハワイでも行こうか」
「……へ?」
「なに、その間抜けな顔」
「え、だって……」
先に列車に乗り込んだイズナが振り返る。ドアが閉まるアナウンスがホームに響く。あ、と上げかけた声と共に手が引かれ、たたらを踏んだ拍子に薄い胸板に鼻をぶつける。少しだけ視界が滲んだ。一緒に潰れたような変なうめき声も出たので、張り詰めていた肩の力が不意に抜ける。一人で悩んでいたのが馬鹿らしくなったのだ。
「お盆だと、高いし」
「……そのくらい俺が出すけど」
「え、ええっでも悪いよ。せめて沖縄にしない?」
「別にいいよ、お前が好きな方で」
「でも折角ならハワイに行ってみたいかも。ねえ、ちょっと調べてみようよ」
「いいけど、集中しすぎて酔ったりするなよ」
「だいじょうぶ」
ボックス席にわざわざ並んで座るなんて浮かれてる。LCCのエコノミー席もこんな手狭さだろうか。もっと酷いかも。そう笑いながら、私は繋いだままの手に少しだけ力を込めた。
(2021/07/26)
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