ホワイトアウト

それは、炎天が見せた蜃気楼のような。悪趣味な白昼夢に魘されているかのようだった。

背中を流れる汗がじっとりと背筋を這う。まるで肥えた芋虫が皮膚の上を這いずるような不快感。ただただ煩わしい。冷水でも浴びれば幾分かはマシかもしれないが、何をするにしても億劫だった。
頭の芯がじくじくと疼いていた。吐き気がする。
いつもの通り、軽い熱中症である。元来あまり汗をかかない体質ゆえに熱の放散が苦手らしく、身体に熱が篭ってしまうのだ。梅雨入りの頃から、やれ頭痛がするだの眩暈がするだのはイズナにとって何ら珍しい事ではない。小さい頃は逐一心配していた兄も、この頃では流石に慣れたらしい。それでも、またか、という気配など欠片も滲ませることはなく、気遣わしげに眉を寄せていたのだから相変わらずに人が良い。幾分か腹の底では斜に構えたところのあるイズナと違い、兄のマダラは言葉が足りずに誤解されやすいだけで性根は優し過ぎるきらいがあるほど繊細である。今日も一人ではまだ心細かろうに、俺だけで大丈夫だ、と半ば無理矢理イズナを追い返したのである。
とはいえ、自分に出来ることなど知れている。まだ子どもなのだから。
ひとつ、イズナは溜息を吐く。汗と共に脳髄に染み込んだ読経が流れ落ちていった。
今日は父の葬儀である。

数年前に肺を悪くした父が数日前に他界した。治る見込みは無いときっぱりと告げられ、本人もイズナ達家族も十分すぎるほど了解はしていたので、兄もイズナも今更泣きはしなかった。それでも、いざ死化粧をした父を見つめていると、矢張り遣る瀬無いような酷く儚い心地がした。
単純に不安だったのかもしれない。いくら遺産があるとはいえ、信頼に足る大人がいないというのは心許なかった。今年で十二になるイズナはまだ成人には程遠い。兄は今年で成人を迎えるが、それでも蝿のように寄ってくる親戚連中を上手くいなし、由緒あるうちはの家督を継ぐには若過ぎるだろう。素性の知れない湧いて出たような遠縁ではなく、父が以前から懇意にしていた昔馴染みと、兄弟にとっても気心知れたヒカクが後見を務めてくれることにはなっているが、先々の事を考えると不安は拭えなかった。

なまじ、遺された物が多いのだ。財産、黴臭い骨董、家名、連綿と繋がれてきた血、時代錯誤な因習。うちはの名を関して受け継がれてきたそれらは上げればきりが無い程に際限なく溢れ返り、家屋に凝る薄影のように黙然と渦を巻く。嫡子である兄ですらすべて把握し切れているのかすら怪しい。
この家もどうなるのか、二人で住むには余りにも広い。
いっそ売りに出して便の良いマンションでも買えばいいのではないか、イズナは以前そう言ったこともあったが、真面目に取り合ってはもらえなかった。先祖伝来の家を手放すなど言語道断であるからか、あまりにイズナが幼かったからか。

イズナは余りこの家が好きではない。単純に、古いが故に勝手が悪いからである。風通しを重視してつくられた古色蒼然の日本家屋は遠い昔ならばいざ知らず、最高気温が三十五度を平気で上回る盆地の酷暑を快適に過ごすには最早荷が重い。エアコンの儚い冷気など平気な顔でどこかしらに逃げていく。いくら設定温度を下げようが蒸し暑いのには変わりなく、北に面した縁側の隅に寝転がるのが結局は一番涼しいというのがイズナの至った答えだった。
ちりん、と。硬質の音が軒先から座敷を抜ける。一陣の風が通り過ぎていった。吹き付けたそれは湿度を孕んだ熱風であり、ちっとも涼しくはない。
茹だるような夏の日だ。
戯れに取り上げた水差しの水が、粗末な万華鏡のような乱反射の光を気怠くまき散らす。注いだ水は生ぬるくなってしまっていた。カルキの臭い。常温の真水を呑んだとき特有の、なんとも形容しがたい不味さが口腔を満たす。一口すら飲み下すのが大儀だった。
ちりん、とまた風鈴が鳴る。ガラスの江戸風鈴よりは涼しげで好ましいと思っていたが、先程まで聞いていた鈴の音を彷彿させ、なんとなく嫌な気分になった。
酷く静かである。まばたきの音すら耳につくほどの静寂だった。風鈴が揺らぐくらいしか物音の気配が無い。朝方は鼓膜を裂くようにさんざめいていた蝉達も今は鳴りを潜め、あれ程姦しかったのが嘘のように静まり返っている。水を打ったような静けさとはこのことか、とイズナは不意に思う。思えば、真夏の一日で最も生き物の気配が途絶える瞬間かもしれない。夏の夜は騒がしい。ざわざわと蠢く生き物の気配が濃厚だが、反して白昼のひとときは全ての生き物が死に絶えたかのように密やかだった。
晩夏は一年で最も死の気配が濃い。葬式に最も似つかわしい日だったのだろう、そう思うと少しだけ不謹慎だが無性に愉快だった。

磨き上げられた位牌のような板張りの床に寝転びながら、イズナは見るとはなしに天井を染め上げる薄闇を辿る。四隅はもやもやとして朦朧と濁り、目を凝らしても仔細は見えない。時代の澱が降り積もったかのような深い翳りである。軒が深く作られた家屋は昼間であってもほんのりと暗い。今日は盛夏の日差しが甚だしく強いものだから、明暗の差は彼岸と此岸のように明らかだった。
縁側の外へと目玉を動かす。網膜を刺すような鮮やかな天蓋。眩々した。
現実感に乏しいほどの晴天である。空が余りに青く、眩しいものだから。他のもの達がモノクロームに色褪せて見えるのだろうか。熱さに眩んだ視界はちかちかと明滅する。ゆっくりと色彩が失せていく。
強い日差しを縁取る木下闇。入道雲。喪服の黒。父の顔。鯨幕。誰とも知れない白黒の遺影。
するり、と。半透明に白いものが視界の端で揺らいだ。蜃気楼だろうか、もしくは先祖の誰かか。――見間違いだろう。

「その制服、脱いだ方が楽じゃない?」
「……、は?」

涼しげな金属質の高音。ほっそりとした踝と、真っ白な脛が見えた。
イズナは弾かれた様に起き上がる。

「お前、なに?」
「タジマさんの知り合い」

誰、と問わずに咄嗟に何、と聞いたのはその姿が余りに現実感が乏しかったからだろう。生白い足が生える白いスカート。ぼんやりと光っているかのように靄々と奥深く白い肌。肌と同じだけ白い真珠の首飾り。艶やかな長い黒髪。虹彩。印画紙に焼き付いたのような黒白の中で、弧を描く唇だけがしっとりと赤い。
夏の幻のように白い、見覚えのない女だった。

「……告別式なら近くの集会所だけど」
「うん、知ってる」

女はそう答え、覗き込むようにイズナの横へと腰を下ろす。かがんだ拍子に一房の髪が零れ落ちる。ふわ、と空気が揺らぐ。制汗剤と甘い汗、線香の臭いがした。

「さっき行ってきたの。エアコン壊れてたでしょ、暑くて参っちゃった」
「あっそ」
「そうだ、これ飲む? 飲み掛けだけど、まだ冷たいよ」

自販機でよく見かける真っ赤な炭酸飲料の缶を差し出される。意外と俗な好みだ、と至極どうでもいいことをイズナは思う。黙って受け取った缶は程よく冷たく、心地良い。喉奥で弾ける泡もまだ強さが残っている。一息で飲み干せば、愉快そうに女は目を細めた。

「それにしても、少しは警戒しないの?」
「いや、怪し過ぎて夢かなんかだと思ってる」
「人を幻覚扱い? 可愛い顔して酷いこと言うね」

言った通り、イズナはこの不可解な状況を白昼夢か何かだと思っていた。理解することが億劫なのだ。ああ、夢でも見ているのだろう、そう片付けてしまう方が据わりが良いような現実味に乏しい突拍子の無さである。大体弔問客だと名乗っているが、喪服すら着ていないのだから怪しいものだ。吐くならもう少しマシな虚言を考えればいいものを。真面目に取り合うだけ馬鹿馬鹿しいのだ。
胃に滑り落ちた甘ったるい炭酸がゆっくりと身体を冷やしていく。そのお陰で茹だる頭も少しは冴えてきた。

「じゃあ、何の用。大体人の家に勝手に入り込んで、通報でもされたいの?」
「うーん、……。強いて言うなら、退屈だと思って」

僅かに小首を傾げた後、女は滔々と続ける。軒先に吊り下げた鉄器の風鈴のような声である。
目を伏せた整った目鼻立ちは、イズナが知る誰かに似ていた。掴もうとすると、ゆらゆらと逃げ水のように遠のいてしまう。それが誰なのかが一向に思い出せない。

「小さい頃にね、一度だけお葬式に出たの。顔もよく知らない、母方のおばあちゃん。大人しくしてなさいって言われたけど、母さんも忙しそうだったし大人達ばっかりで話し相手もいないし、遊ぶものなんて何もないでしょ。結局抜け出して近くの神社で虫取りしてた」

するり、と白い指先がイズナの首筋を伝う汗を拭い取る。ひやりとした。磁器のような白に似合いの低い体温。思えば、暑いと言っていながら女の額には汗ひとつ滲んでいない。
ふと、女の胸は脂肪であるから存外冷たいのだと聞いたことを思い出す。確かにその温度は、やわく力を加えれば容易に潰れてしまいそうな感覚に反して陶器のようにつるりと冷たい。
その冷たさは、まるで棺の中に横たわる父のようだった。
細い指が未だにきっちりと着込んでいたイズナの制服の、一番上のボタンを外す。網膜に痛いほどの真珠色が焼き付くようだ。

「ねえイズナ君。おねえさんと一緒に遊ばない?」


蜩が鳴いている。不意に響いた声でイズナは目を覚ました。いつの間にか気を失っていたらしい。
つられて外を見遣れば、真上で燦燦と照っていた太陽は西へと傾き、毒々しいまでに美しい赤へと染め上げていた。随分と長く眠ってしまっていたようだ。
なにか、悪い夢を見ていた気がする。

「ああ、ここにいたのか。探したぞ」
「兄さん」

少し慌てたような口振りだった。見れば手には来客用の盆が携えられている。――弔問帰りの客か、誰か来ているのだろうか。

「なあ、なまえは知らないか? うちで待ってるように言ったんだが」
「……誰?」
「お前、会ってないのか。俺より少し上くらいの、人形みたいな女」
「あ、」

はくり、と開いた口が塞がらない。夢ではなかったのか。

「あの人、兄さんの知り合いだったの?」
「いや、どっちかっていうと父さんの。もう帰ったのか?」
「知らない。気が付いたらいなくなってた」
「お前、追っ払ったんじゃねえだろうな」
「してないよ」

肩を竦めてイズナは笑う。昔から家族以外には素っ気のないところがあることを度々指摘されるが、兄が言わんとしていることはそれだろう。だが、真実違うのだ。言うなれば勝手に満足して帰ったというのが正しい。
無論、イズナに仔細を言う気は無かったが。あの女――なまえとやらもそうだったのだろう。妙な据わりの悪さだが、まあ損な思いをした訳ではないのだから。けしからん嗜好を持った変態だったというだけだ。無理矢理手籠めにされたのならばいざ知らず、イズナは別段騒ぎ立てる気にもならなかった。犬に噛まれたというほどでもない。
肺に香りの強い花弁を詰め込んだように、鼻腔の奥に甘い移り香が染み付いていた。網膜では生あたたかい白がちらちらと瞬いている。
少しだけ何かを狂わされたような。酩酊したような後ろめたさが却って心地良いのは、もしかすると後々厄介になるかもしれない。有体に言ってしまえば、その罪悪感が病みつきになりそうだったのだ。

「兄さん、どうかしたの」
「いや、なに……」

イズナの葛藤とはまた違い、兄もまた何かしら思うところがあるらしい。幾分か落ち着きなく視線を泳がせたうち、マダラは深く溜息を吐いた。
持っていた盆を傍らに置き、胡坐を掻きながら乳白色のガラス器を弄ぶ。新緑のような冷茶が鈍く光りながら揺蕩っていた。

「なまえがいる前で言った方がいいと思ってたが、まあ仕方無いな」
「なに、随分と勿体ぶるね」

ちりん、と思い出したように風鈴が鳴る。
予感がした。血を流したような夕陽と蜩の声と相まって、無性に心が乱される。

「あの人な、俺達の腹違いの姉なんだよ。要は隠し子だ」
「……は?」
「一応母さんと結婚する前だぞ、相手の家柄とかで揉めたらしい。まあそういうのが遺言に書いてあったんだよ。遺産の相続とか色々決めておきたくてな、金は要らねえって言ってたけどそうもいかないだろ。式の最中に話すのも周りの目もあるから、終わってからと改めて話そうと思ってたんだが」
「…………」
「どうした、顔色悪いぞ」
「いや、」

無性に、喉が渇く。不自然に開いてしまった間を誤魔化す為に、イズナは置かれていた冷茶を一気に飲み干す。三つのガラス茶器。三つに切られた水菓子。口の中に残っていた甘ったるい炭酸水の味が胃の中でぐるぐると渦を巻く。噎せ返るような、熱い匂い。
酷く、眩暈がした。

「違うか、要らないじゃなくて欲しいのは違うから、だったか。……まさか、権利書とか盗られてねえだろうな」
「多分、それは大丈夫。あれはそういうのじゃない」

先程より一層渇いた心地がするのは、気の所為ではないだろう。
咄嗟に口元を拭う。今しがたイズナが口を付けたグラスには、べとりと赤い口紅が滲んでいた。


(2021/07/07)


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