アイスと珈琲
もう諦めよう、そんな物分かりのいい事は何度思ったことだろう。
――どうかどうかお願いします、もう無理なんです。だから、どうか。少しでも哀れと思ってくれるなら、いっそ諦めさせてください。
そんなことも思いはしたが、言えた事など終ぞ無い。始めから終わりまで、我儘なんて言えるはずもない恋だった。
恋仲である千手扉間は、徹底して公私混同を嫌う公明正大な方である。
例え想いが通じ合った仲でも、私に割いてくれる時間が増えることなど全くなかった。多忙なのだから当たり前だろう。覚悟はしていた、昔からあの方は理性の塊のような人だから。感情に流されて、無駄と思えるような判断をする筈がないのである。
だけど、やっぱり少しも期待しなかったと言えば嘘になる。ほんの少しだけ、私を見てくれたっていいじゃない。いくら物わかりのいい人間であっても、長年の恋が実ればそのくらいは思うだろう。
それなのに、余り多くない口を開けば初代様の事ばかり。姿が見えないと思えば、愛弟子と仲良く笑い合っていらっしゃる。お昼時に食事を誘おうと思っても、決まって他の誰かと食べに行ってしまわれて。夜だって、遅くまで仕事か、珍しく早く上がった時は教え子達か他の部下の人と飲みに行かれて。
もしかしたら、酔った勢いで会いに来てくれはしないだろうか。しないんだよね。そんな甘く愚かな期待は一度でも叶った事はなかった。あの方は直情的な事を決してなさらないのだから、次の朝は決まってひんやりと冷たい床でひとり目を覚ます。
そういう朝は流石に堪えた。しんしんと指先から悲しみが染みてきて、体中が凍えるような寂しさでいっぱいになる。慰み者にもなれないのかな、それでも好きだと思えるだけ光栄だよね。幸運だよ、それ以上望むのは傲慢だから。
最初の内はそうなんとか納得していたが、私ではなく他の誰かに向けられている木漏れ日のようなやわらかな眼差しを見て、嗚呼もう無理だな、と悟ったのだ。
醜い嫉妬を抑えられるほど、私は器用でも賢い人間でもなかった。ただの愚かな女だった、それだけのこと。
矢張り、そもそもが分不相応だったのだろう。生きる世界が違う、その言葉に尽きる。彼はどうしたって手が届かないほど崇高で尊くて、私などが焦がれていいような方ではなかったのだ。
一時は実ったと思っていた恋心だったが、それが受け入れられていたのかは考えれば怪しいものだ。決して不実を詰りたい訳ではないが、――そんなことを出来る立場でもない――あれは矢張り同情だったのではないだろうかと少し思う。
それに、私は彼にとってあまり好ましい人間ではないのだろう。多分にあの方は手を焼かれるのが好きな方だ。初代様であれ、一番目を掛けておられる愛弟子であれ。恐ればかりが先走り、どうにも出来ず縮こまってしまうような人間は面倒で仕方ないのだ、きっと。
それなら、どうして一時でも受け入れてもらえたか。どうしようもなく進退窮まる追い詰められた顔でもしていたか。長年の部下に情でも沸いたか。持て余すくらいならいっそ嫌ってくれたら、と今は思う。どこまでも優しくて、どこまでも残酷だ。
好きじゃないなら、ちゃんと振ってくれればよかったのに。口が裂けても言えないような八つ当たり。そもそも惚れてしまった私が悪い。耐えられないなら、矢張り言うべきではなかった。それだけの事だろう。
明日は休み。かといって別に誰と飲みに行く用事も何もなく、暇と寂しさを持て余した私は慣れない晩酌をしてみようと思い至った。その晩は月が一等綺麗な夜で、冴え冴えと冷えた月影があの人の髪みたいだなあ、なんて埒も無い事を思ったりなんかして。手酌で真白い月を飲む。初めのうちは何となく楽しかったのだが、矢張り慣れない事はすべきではない。甘い酒でもすっかり酔ってしまって、最早前後不覚の状態だった。
そもそもの話だが、私はあまり酒が好きではない。弱い上に別に美味しくないし、大体なんでも無駄に高い。なんだって皆こんなもの喜んで飲むのだろう、八つ当たりのように不満ばかりが頭を過ぎる。
それでも、もしかしたらを期待して。万が一を期待して、美味しいお酒の一つでも揃えておこうと前から買い込んであったのだ。私が飲める甘い果実酒と、あの方好みの辛口の強い酒。先生はお酒がお好きだ。明日は同じく休みだと聞いたから、久々にゆっくりお話し出来たらな、なんて。ちっとも学習しない私はそんな事を期待していた。
本当に、馬鹿だ。結局声をかける前に用事があると帰ってしまわれたのだから。珍しく、とても嬉しそうだった。
甘い酒の次に開けたあの人が好むその味は、やっぱり全然美味しくない。
貴方が他の誰かに向けるその笑顔を、少しだけでも私に分けてくれたら。
あの子はいいな、あんなふうに一緒に笑い合えて。
あの人はいいな、いつだって気にかけてもらえて。
いいな、いいなあ。羨ましいな。私だって、大好きなのに。誰よりも好きなのに。愛してるって、言ってもらえたのに。
欲張りなのかな、我儘なのかな。でも、ずっと我慢しているのにな。
酔えば嫌な事など忘れられる、そう思って苦手な酒も飲んでみた。そうしたら、却って要らない事ばかり思い浮かんで。いい加減諦めなきゃと何度も思ってるのに、未練がましく恋い慕って。惨めに言い訳して、先延ばしばかりで誤魔化して。本当は何度も言おうと思っているのだ。言葉はいつも喉のすぐそこまで出かけている。
だけど、仕事中にそんな下らない事を言うの? でも、仕事以外では会えないのに? そもそも付き合ってるつもりなんて無かったら?
そう思うと、怖くて何も言えなくなった。何も思っていないような顔で、どうしようもない焦燥だけを抱えた毎日を過ごしている。
昔は、思いを告げる日より前は、もう少し二人で過ごす時間もあったのにな。ただ側にいられるだけで幸せだったあの頃は、よく執務の合間に何でもない話をしてくださった。二人きりで甘味処へ息抜きに行くことも、晩酌に付き合わせて頂くこともあったのだ。最近ではすっかり無くなってしまったけれど。
私、やっぱり邪魔なのかな。面倒に思われたのかな。浮かれていたから駄目だったのかな。
でも、いいって言ってくれたのに。愛してるって、確かに言ってくれたのに。
じわじわと涙が溢れてきた。じりじりと頭が蕩けていく。何杯満たしたかも分からない杯はすっかり空になり、瓶の底には少しだけまだ酒が残っていた。このくらいで止めておいた方がいいのは頭のぼやけ具合でなんとなく分かる。
でも、取っておいてもどうせ飲まないのだから。飲んでくれないのだから、それなら一気に飲んでしまった方が余程いい。美味しくもないけど、残していても仕様がないから。
さようなら、美味しく飲んでもらえなかった可哀そうな未練。ぐっ、と勢いそのまま飲み干すと、直接脳を叩かれたかのように、ぐわり、と世界が揺れた。身体が液体のように重怠く、崩れるままにだらしなく床へ倒れ込む。吐き気は無いが、くらくらと暑い。
頭の芯は微睡むようにほつれていて、多分いつの間にか眠ってしまっていた。水籠った夢の中で、ずっと会いたくて堪らなかった人が私を見ていた。
せんせい。
――その呼び方は止せと言っただろう。
不思議だ、ちゃんと会話になっている。普段はどれだけ願っても夢に出てきてくれさえしないのに。酔いの所為だろうか、それならば酒も悪くない。癖になってしまいそうだ。
夢と分かっていても嬉しくなったので、くしゃくしゃと私は微笑んだ。だって、こうやって名前を呼ぶことも全然できなかったんだから。そんな私を彼は愛おしそうに目を細めて見返している。
とびらまさま、とびらまさま。
――どうした、気分が悪いのか。
すき。
――お前、相当酔っとるだろう。仕方のない奴よ。
すきです、とびらまさま。だいすき。
――なんだ、酔うと随分甘えるな。
とびらまさまはわたしのこと、すき?
――好きだとも。愛している。
ふふ、うれしい。だいすき。
言えなかった言葉を沢山言って、聞けなかった言葉を夢に託して。
あたたかい手が優しく頭を撫でている。嗚呼そっくりだな。もう随分と前だけど、あの日に触れた大好きな温度と、本当にそっくりだった。夢の中でもこんなに愛しいなんて。それが、嬉しくて、堪らなく悲しくて。私の事なんて、もう夢でしか見てもらえないのに。
冷静に考えれば不毛でしかないのだが、夢の中の私はそんな利口なことを考えることなどとても出来ない。ずっと甘えたかった、ずっと我慢していた。もっともっと、我儘になりたかった。
ね、ぎゅってしてください。
――可愛い事を言う、普段からこのくらい素直に甘えれば良いものを。
キスしてください。とびらまさま、キスして。
――嗚呼。
ん、……すき、もっと、してください。
――あまり煽ってくれるな、流石に歯止めが効かんぞ。
自分で勝手に作り出した幻覚に溺れるなんてどうかしている。それでも、唇に触れる熱がどうしようもなく心地よくて。抱き締めてくれる腕がどうしようもなく優しくて。ふわふわと指触りの良い髪を梳り、甘えるように頬を摺り寄せる。大きく息を吸い込んだら、大好きな香りで肺がいっぱいになった。
目覚めたくない、ずっとこの夢に浸っていたいなあ。本当は、本当は。
すきです、とびらまさま。あいしてます。だからね、おねがい、
――なんだ?
あきらめさせて。もう、おわりにしましょう。
「は?」
聞いたこともない間抜けな声がしたので、私の想像力も大したものだと感心した。どんな顔してるんだろう、胸板に預けていた頭を動かし、好奇心で視線を上げる。がば、と肩を掴まれ顔を顰めた。――夢って、痛覚あったっけ。
「いっ、」
「どういうことだ」
鼓膜にはっきりと響いた声に一瞬固まる。目を見開く。血の気が引く。引き攣るような声にならない悲鳴が漏れ、距離を取ろうと思わず後ずさった。滑稽なほど震える手を夢と寸分違わない温度が掴んでいた。
「え、うそ……とびらま、さま……? ほんもの?」
「――おい」
「ちがうんです、これは……、えっと、寝ぼけて」
呂律の回り切らない舌で、必死に言葉を探す。酔いはすっかり覚め、冷え冷えとした寒気ばかりが肺を満たしていた。なんとかしなきゃ、何か言わなきゃ。
「ごめんなさい、こんなつもりじゃなくて、……わたし、そう、間違えて」
「間違えただと? 貴様、俺を誰かと間違えてあんな風に甘えたのか」
「まって、ちがいますちがいます、そうじゃなくて、……」
刺すような声に慌てて言い被せる。情けなくて、みっともなくて。ちゃんと、もっときちんと伝えるつもりだったのに。こんな、こんなつもりじゃなくて、もっと。
「ごめんなさい、嫌でしたよね。ごめんなさい、忘れてください本当にごめんなさい」
此方を睨む赤い目が揺らいだ。涙の薄膜が弾け、ほろほろと頬を濡らす。止め処なく流れる落ちる涙と同じだけ、次々と言葉が溢れ出た。
「ごめんなさい我慢できなくて。でも、私、もう苦しいです。大好きなんです、先生の事。諦めなきゃって分かってるのに、それでもやっぱり好きで、だから嬉しくて。ごめんなさい、無理だって分かってたのに。言わなきゃよかった、貴方は優しいから、それにつけ込むようなことになって。ごめんなさい、もう無理です。辛い、分かっていても辛いんです」
この先は言いたくない、本当は言いたくない。物分かりの悪い女でいたい。嫌われたって、疎まれたって。本当は貴方の側にいたい。許されるなら。それが許されるのなら。私一人が我慢すればいい事なのに、それが出来ないから。もっともっと、と欲深くなってしまうから。それなら、――。
「どうか諦めさせてください、お願いします」
嗚呼、言ってしまった。
ずっと言えずに胸につかえていた言葉は案外呆気無く零れ落ち、それはまるで止まらない涙のようで。この溢れ出してしまった感情も、せめて涙のように透明であれば綺麗だと褒めてもらえたかもしれないのに、と。透明なままに消えていければ潔く美しかったのだろうか。私はどこか他人事のように自分のことを見詰めている。
向き合う先生は何も言わない。きっと、いつでも冷静な先生でも言葉も無くしてしまうほど呆れていらっしゃるんだろう。当たり前だ、付き合ってくださいと頭を下げた側から別れを切り出すなんて勝手が過ぎる。視線は下げているから表情は見えなかったが、とてもではないが顔を上げる勇気は無かった。
「――おい、」
無表情な、何の感情も読み取れない声に肩が竦んだ。一層私は項垂れる。
「諦めさせると言ったが、お前はどうされたい? どうすれば諦めるのか、ちゃんと言ってみろ」
「えっ、と……」
「漠然とし過ぎていて分かる訳が無いだろう、それが人にものを頼む態度か」
「っ、申し訳ありません」
上司と部下。その関係の方が私にとっては馴染みが深く、胸にしっくりと納まってしまう。嗚呼、やっぱりそこから外れるべきじゃなかった。染み付いた癖で咄嗟に意識がそちらに移って、まるで執務室で応えるような調子で謝っていた。
せめて出来た部下として。間違わないように、私は慎重に言葉を続ける。
「弁えろと、そう仰ってくれたら。嫌いだと言って下さったら、それで」
「それがお前の望みか」
「……どうして、そんなこと聞くんですか」
一度移った意識も、酔った頭では面白い程簡単に揺れ動く。わざわざ意地悪く問う言葉に、頭の芯が熱くなった。
「未練がましく言い寄ればいいんですか。物わかりの悪い事を言って、諦めの悪い馬鹿な女だ、惨めだって面白おかしく笑いたいんですか。そうすれば満足ですか。――酷いです、分かってらっしゃるくせに。私の事弄んでそんなに楽しいですか、どうしてそんなこと聞くんですか。嫌いなら、そう仰ってくれたらいいのに。扉間様なんて、――せんせいなんて、っ」
嫌い、とその言葉が言えないから苦しいのに。いらない言葉ばかりはふつふつと湧いて零れ落ちるのに、その一言だけはどうしても胸につかえたままでいて。
どうしてそんな目で見るのだろう、どうして優しく触れるのだろう。どうして、何も続けられないように口を塞いでしまうの。諦めさせてほしいと願ったのは他でもない私だった。だから、今やっと言えると思ったのに。
酷い、本当に酷い人だ。惚れさせ上手なのに、諦めさせるのが下手だなんて全く陰険だと思う。
嫌い、先生なんて大嫌い。
塞がれた唇から唾液ごと攫うように言葉が飲まれてしまう。止めてほしい、どうか吐き出して。美味しくない、苦いだけの未練だから。飲んでもらえないって、もう受け取ってもらえないって、そうやって諦めたのに。
諦めようと、したのに。
「勝手な女よ、俺が最前何と言ったか全て忘れおって」
「あ、……」
「その上諦めさせろだと? 酷いのはどちらだろうな、なあなまえ」
「せん、せい」
潤んだ目蓋を軽く吸うように啄まれ、大袈裟なほどに肩が跳ねてしまう。頭を撫で付けていた大きな手が首に触れ、背骨をなぞって腰へと回される。
嫌、すごく自分が嫌だ。馬鹿みたい。我儘なんて言える立場でもないのに子供みたいに愚図って、みっともなく欲しがって。せんせい、と吐息の合間に呟く声が自分でも恥ずかしくなるほど甘ったるい。だからその呼び方で言うな、とまた釘を刺されてしまったので、名前を呼ぶと一層甘えているようになってしまった。溶けそう、なんて月並みで頭の悪い言葉が思い浮かんだが、決して大袈裟じゃないくらいに頭の芯も身体も熱い。
「さて、どうされたい?」
分かってらっしゃるくせに、本当に意地が悪い。
物わかりの良い女でいたいのに。後で嫌だって言っても知りませんから。
「……扉間様の、好きにされたいです」
「心得た」
(2021/09/19)
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