やわらかな皹
人差し指の先に小さなささくれが出来ていた。爪切りで切ってしまえばよいのだが腰を上げるのは億劫だった。それでも気にはなるので掻くように撫で付ける。乾いた表皮はかさかさと固い。甲高い音が響くように、短く、そして鋭く痛みが奔る。止せばいいとは分かっているのに、つい気になってしまうのだから厄介だ。
平生であれば指先まで神経を集中させて意識することなどそう無いが、一寸にも満たないような傷が出来るだけで指そのものの輪郭が鮮やかに浮き上がり、ほんの少し触れるだけで大袈裟に違和を訴える。当たり前の状態では透明で、何かしらの瑕疵があって初めて指という存在そのものを見留めたような心地である。つくづくと自分の手を眺めていると、艶やかな蜘蛛の足みたく細長い指に絡め取られた。するり、と低い温度が纏わりつく。
「さかむけですか」
「ええ、また飽きもせずに」
「水仕事の後に軟膏を塗らないからでしょう。面倒でもちゃんとなさい、あかぎれになってからでは治すのにも難儀する」
「これでも毎回塗っているんですよ、でも全然駄目なんです。親不孝だからかしら」
机になおざりに置かれた薬壺に手を伸ばしながら、お道化た様に私はそう続ける。冗談半分、本音半分だった。――否、軽率さで隠そうとした後ろめたさが本質である、時折無視できない小さな皹のようなそれが不意に疼くのだから。
彼は私の言葉には答えず、掌に納まっていた素っ気ない薬壺を取り上げ弄ぶようにくるくると器用に回す。筋張ってはいるが、それが却って燻した艶を感じさせるような端正な手だ。そのしなやかな指が結ぶ印で骨まで灰燼に帰す劫火が織られ、その掌が操る得物で首を掻き切るとは思えないほどに静謐で美しい。温度を感じさせない蝋細工に似た指先は透徹した硝子や整然とした金属の無表情な光沢がよく映える。今も磁器の冷ややかな白が誂えたかのように彩りを添えていた。
思慮深い薬草の匂いが幽かに薫る。掬った軟膏を私の指に塗り込む様子はどこか酷く愉快そうだ。咄嗟に、手入れ不足の野放図が俄かに恥ずかしくなり、私は逃げるように目を伏せた。今まで気にもならなかったのに、白々と乾燥した爪や皮が今更のように倦み疲れていて見苦しい。
「あまり見ないでください」
「どうしてです」
「だって、――」
貴方の指が綺麗だから、そう答えようとした。だが、どの名称で言えばいいのか。目の前の男をどう呼べばよいのか、僅かに逡巡する。
ひとつ、まばたきの音がした。
長く伸ばされた前髪が揺れる。僅かに首を傾けたことにより、隠れていた片の目が曖昧に覗く。切れ長の目は続きを促すように私を見ていた。
「指が綺麗だと思ったんです」
「おや、誰のです?」
「誰、って……」
聞かずとも分かるだろうに、態となのだろうか。問われた言葉に私は思わず肩を竦めた。だが、確かにただ指が綺麗だと出し抜けに言ったところで男の、それも数多の戦を潜り抜けた古傷だらけの手を表すには不似合いなのもまた確かだった。知らず知らずのうちに刷り込まれた劣等感が頭を跨げていたのかもしれない。白い木蓮のような美しい手が目蓋の奥底に過り、思わず苦笑う。
「姉さんの手」
また、まばたきの音が響いた。爪と肉の谷間を撫でていた手が止まる。ちょうど裂け目の真上に指が重ねられ、従順に痛みを覚える。敏感になった罅割れから痛みがじくじくと浸食し、後を追うようになまぬるい体温が沁みていく。
「そう、棺の中で見た手もとても綺麗だった。ちっとも似ていないでしょう」
「……さあ、どうでしょう」
「きっと比べられると思って、だから恥ずかしいのです。ねえ――」
タジマ義兄様。呼び慣れている筈のそれが、姉亡き今となっては指の皹のように小さな違和を訴える。――姉の夫、義理の兄。他人と言うには余りに近く、さりとて直接的な縁で結ばれた訳ではない曖昧で不明瞭な間柄だ。介在する姉がいた頃は己の立ち位置も明快だったが、枠組みが取り除かれた今となっては何も分からない。変わらずに義兄と呼べばいいのか、皆のように頭領と敬って一族の唯一人として埋没すればいいのか、開き直って名前で呼べばいいのか。どれも適当だが、どれも不適切だと思い惑った。
義兄さん。そう呼ぶしかないうちは良かったのだ、弁えていた。定められた境界を越えようとも思わなかったし、そこから指を咥えて羨むだけが精々だと分かっていたのだから。負け戦と承知の上で賭けに興じるほど私も酔狂ではないし、そこまでの情も熱も無かった。
なんてことはない、私は幼い頃から義兄が好きだったのだ。だが、だからといって姉憎さに何かしらを企んだ訳では決してない。亡姉が夭折したことはいわば必然である。元々身体も弱く、幼い頃から長生きは出来ないだろうと言われていた人だった。
姉さん、優しくて綺麗な自慢の姉さん。大好きだった私の姉さん。
親を早くに失った私には姉が全てだった。歳は離れていたが、同じ腹から産まれて同じような顔のよく似た姉妹。ただ一つ違う事は、姉は生まれた時から次期頭領の妻だった。産まれた順番が違っていただけなのに、私には決して回ってくることのない唯一の座が与えられていた。
姉さんさえいなければ、そう妬んだのは確かだ。だが、繰り返すようだが胸を掻き毟る程の灼け付く焦燥や重鈍な怨嗟に駆られていた訳ではない。嫉妬を覚えるには私は少し遅く生まれ過ぎたのだから。例えるなら、そう、ささくれのように小さな瑕疵。無視は出来ないが努めて気にしなければどうという事もないほどの小さな痛みだった。
「その呼び方、いい加減辞めてくれませんかね」
「どうして?」
「何か途方も無い過ちを犯しているようで」
義兄の、正しくは夫の整った眉が僅かに歪む。続く言葉は無かったが、何を意図し、誰に気兼ねしているのかなど分かりきっていた。生真面目な人なのだ。私はうっそりと笑い、重ねられた手にただ指を絡める。
若くして妻を失った頭領の後妻となったのは、他でもない先妻の妹である私だった。耄碌した長老達も馬鹿なことを考えるものだと鼻白んだが、渡りに船とは正にこの事。
大好きだった姉を奪った男と、初恋の人と愛し合った憎い姉。
どちらも大好きで、二人とも堪らなく大嫌いだ。夫が先妻への義理と罪悪感で苦悩を滲ませるたび、私はどうしようもなく愛おしく思えた。哀れで、憎らしくて。それを自覚する度、拙くあどけない憧れが粘ついた嫉妬を纏った執着へと変わっていく。無邪気に恋慕っていた男が今や可愛らしくて堪らない。
「でもね、タジマ義兄様。本当はこういうのお好きでしょ?」
「……おや、存外言いますね」
「きっと同じ穴の狢、ううん差し詰め狐かしら」
一片の後ろめたさも無い恋慕より、罪悪感が滲む情愛の方が捨て難い。上っ面をただ真綿のように見目良く包むよりかは、鈍い棘みたく深い奥まで刺さってしまうからなのかもしれない、そんな下らない事を茫漠と思う。
姉にとってうちはタジマという男は賢く思慮深い、理想的な伴侶だったのだろう。だが、この男の本質は恐らくそんな行儀の良いものではない筈だ。もっともっと、清らかな呵責で抉られた裂け目から本当の彼を見てみたい。姉には決して見れなかっただろう骨身まで。
義兄様。今は何の意味も無くなったその名で飽かずに呼ぶ度、瘡蓋になり切れない小さな傷跡を爪先で抉っているような感覚に囚われる。
「お互い、良い趣味をしているようですね」
「ええ、姉さんに感謝しなきゃ」
思わず眦が撓む。不謹慎を咎めたのか、それとも図星を刺されたからなのか、いずれかは分からないが軽率に笑う私を咎めるように、がり、と白い歯が罅に重なる新しい瑕疵を刻む。優しく撫で慈しまれるよりかは、決して薄れない傷を付けてほしい。奔るのは痛みか、それとも。
「っ、ふふ、薬を塗ったばかりですよ、苦くないですか?」
「さあ、どうでしょう。気になるなら、確かめてみるといい」
義兄の膚はいつも何かが燃え落ちる匂いがする。触れた唇からは鼻腔の奥に絡み付くように、彼の香りによく似合う苦い薬草の味がした。
(2021/10/26)
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