仏さまの仰る通り
聞けば、五十六億と七千万年先のことらしい。まるで冗談のように膨大な年月である。
「見当も付かねえな」
「そもそもこの国の歴史よりずうっと長いからの。仮に俺達が百年生きたとしてもだ、何度生まれて死ぬのかも分からんな」
「大体その頃には人間がいるかどうかすら怪しいだろ」
「そうさなあ……」
間延びした調子で柱間は答えると、視線を中空に転じ目蓋をとろりと弛緩させた。忘我のような腑抜けた表情である。口調と同じように間延びして見えるが何かを考え込んでいるらしく、その目付きは渺渺と遠い。
別段急かすでもなく、マダラは見るとはなしに畳縁を眺めていた。半端に長い沈黙が流れたところでさほど気にならなかったのは、五億六千と七千万という途方もない悠久を想像した名残だろう。この部屋全ての畳の目を数えたところで件の数にはきっとまだ足りない。あまりの膨大さに思考は蕩けかけ、脳髄の輪郭がぼわぼわと肥大したように未だ覚束ないままだった。
漸く何事かに思い至ったのか、柱間がぱちりと瞬きを繰り返す。屈託の無い、見慣れた表情。黒いという括りではお互いに同じだが、深い夜空を煮詰めたようなマダラの虹彩とは異なり柱間のそれは陽光の粒でも閉じ込めたようにきらきらと明るい。生まれもっての色合いなのか浮かべる表情からなのか、いずれにしてもうちはではあまり見られない眼である。
他族はおろか同族でさえ、図抜けた瞳力に恐れをなしてマダラとは極力目を合わせない。弟亡き今となっては、六道仙人の再来なるかとまで噂されるこの男くらいなものである。漠然とした居心地の悪さを感じ、マダラは僅かに目蓋を伏せたまま畳に目を滑らせていた。
「なんだったか、随分昔に扉間が言っていたが人が滅びた後にはイカが俺達人間のようにのさばるらしいぞ」
「イカ?」
鸚鵡返しに問い掛けた声がくるりと裏返った。余りに突拍子が無い。
「イカって、あの十本脚のあれか? 下らねえ、それこそ天地がひっくり返るどころか陸地が海にでもなるってのか」
「いや、俺も詳しくは知らんというか与太の部類だとは思うがの、一説によればというくらいぞ。ただな、海が陸になったのならその逆もまた然りだろうし、五十億年もあれば歩けるようにもなっても可笑しくはないだろ」
「……聞いてて気持ちのいいもんじゃないな」
マダラは顔を顰めつつ小さく吐き捨てる。想像したくもなかったのだが、ぬらぬらとした表皮を滑らせつつ、うぞうぞと十の足を蠢かしながら地上を闊歩する化け物をつい幻視してしまったからである。地虫の類があまり好かないマダラとしては想像上でさえ御免被る話だ。ただただ気味が悪い。すっかり死に絶えた後と言うのが皮肉にも幸いといえる。
「なら、その弥勒菩薩ってのはイカを救うかもしれんってことか」
「無くはないだろうな」
「冗談じゃねえ、流石に嘘だろ?」
「いやなに、仏性つまりは仏になり得る性質はあまねく全ての生き物が有してはおってな、なにも人間だけが特別なわけではない。
聞き慣れない言葉だった。よく噛まずに言えるな、と愚にもつかないことをマダラは思う。
「だから、人ではないからといって救わんわけではないだろう」
「そうだな……」
五十と六億、そして七千万ほどではなかったが、それは言葉と言うより鼓膜を撫でていくだけの海鳴りや遠鳴りのような音に近い。自然、相槌も上の空のようになってしまう。天上の彼方と同じくらいに途方も無い話なのだ。
そんな気持ちが顔に出ていたらしく、なんとかの耳に念仏ぞ、と柱間は笑った。相変わらず一言余計で失礼な男である。
「イカはとりあえず置いておくが、そもそもどうせならもっと近しい話でいいとは思わないか。そんな未来で救われると言っても途方も無くて想像がつかないだろ。有難がる事も出来ねえよ」
「それまでに救ってくださる仏もちゃんとおられるんぞ、地蔵菩薩、所謂お地蔵様だ。ほら、よく道端にあるだろう、見たことないか?」
「そりゃあるが、あれはそんな大層なものなのか」
「俺も初め聞いた時は驚いたぞ。菩薩といえば如来に次いで尊格も高いからな、本尊として立派なお堂に鎮座ましましていたとして可笑しくはないんだが……。とてもそうは見えんだろ」
「良くて道祖神だな」
「違いない」
苔生した素朴な石仏など特段探すまでもなく其処此処に転がっている。信心深いマダラは粗末にする事を避けてはいたが、特段有難い存在だとは思っていなかった。所詮は何気無い風景の一部であり、余りに卑近だ。これもまた冗談のような話である。
仏というのは高位であっても、それほど近くにあって衆生に歩み寄り、生きとし生けるもの全てを救おうとしているらしい。どこぞの誰かのようだとは言わないが、呆れるほどにお人好しである。
――我等の神とは大違いだ。
少しだけ眩々した。膨大な年月と同じように縁遠く途方も無い。
「何もお地蔵様だけじゃない、ここにおわしますものは皆――」
柱間は口を噤み、そのままゆったりと周囲を見渡す。マダラもつられて視線を巡らせた。
薬壺を携えた荘厳な如来、千の手を持つ優しげな菩薩、三面六臂の恐ろしげな明王、白象に乗る厳格な天部。甘やかな襞を描く薄衣、絢爛な
極楽浄土はかくもあらん、と柱間は嘯くが、静かにこちらを窺う視線が多過ぎるせいで繊細なマダラの神経は幾分かささくれる。漫ろである。首元をちりちりと炙られているような心地がする。伸びた影が揺れる火灯りに同調し、ぞろりと身じろぎしているかのようだ。薄暗い庵の中では茫とかかる薄影に輪郭は蕩け、模糊としてどこか現実感に乏しい。熱に魘されて幻視する夢のようだともマダラは思った。流石に数が多過ぎる所為もあるのだろう。
「しかし、よくこれほど作ったな」
「家にも並べているからミトにいい加減叱られての」
「当たり前だろ。ものがものだから粗略に扱う訳にもいかねえんだ、数があると難儀だろうが。大体、ちゃんと祀らんと祟られるんじゃないのか」
「むう……。まあ仏像自体が祟るという話もあるにはあるが、仏は神と違って祟ったりはせんのだが」
は、と思わず驚嘆を溢す。暫し、ぼかりと開けた唇がそのまま固まった。
「そうなのか? そこの明王像なんていかにもそれらしいが」
「いや、あれは単に怒っているのではなく人々を導き救うための怒り……、言うなれば父親が叱っているという方が近いな」
拳は相当堪えるがの、と冗談めかして柱間は笑う。亡き父はどちらかと言えば理詰めで責めることの多かったのだからマダラには応とも否とも答えられない。――あれはあれで相当に恐ろしくはあったが。
マダラが座している隠宅は里外れに編まれた柱間の草庵であり、中にはさながら大伽藍のように柱間手製の仏達が所狭しと並べられている。ただ、柱間にとってこれらの仏像は作ることそれ自体が目的であり、拝むのは二の次らしい。魂を入れていないのならば仏を象っているといえども所詮はただの木片ではあろうが、作るだけ作って顧みもしないのは如何なものか。そんなマダラの気持ちなど構うことなく今この瞬間も新しい木仏、もとい仏の顔をしただけの木片が着々と象られていく。
「だがなあ、仏像はいいものぞ」
「そりゃ悪くはねえだろうが……。良し悪しというか、有難いもんだろ」
「なんというんだろうな、モノそれ自体が有難い訳ではない、尊い仏の形を模しているといったところで所詮は木屑に過ぎんのだから肝心なのは拝む方の気持ちぞ。有難いと信心するなら、その辺の石ころでもそれは有難いものにもなるだろう。鰯の頭も信心から、と昔から言うしな」
些か乱暴ではないか、とマダラは思ったが柱間が言わんとしてることは大いに分かった。イカが仏になるというのは俄かには理解しかねたが、そもそもマダラに馴染みのある宗教観は単なる石ころが
「それとは別に、人の手で作られたものだからこその作り手の意思、全てに祈りが込められているのが俺は特に好きでな」
「祈り?」
「嗚呼、一挙手一投足どんな細部であっても意味があるんぞ」
「へえ」
マダラは僅かに身を乗り出す。常より人好きのする柱間が饒舌な事は珍しくもなんともないが、基本は相手に合わせる他愛のない会話が多いだけで蘊蓄を滔々と話すようなことは珍しい。そういった意味では思慮深い性質なのだと思う。その物珍しさに加え、鰯の頭を有難がるような信心深いマダラにとっては単純に興味深くもあった。
「例えばこの弥勒菩薩だがな、気楽そうに一休みしてる姿に一見思えん事はないだろ」
「まあな」
柱間の言う座像は片脚を下ろしてもう一方の足を下ろした足の膝の上に乗せ、その膝に肘をついて頬杖している姿である。稀にマダラも似たような姿で寛ぐ覚えがあるし、ちょうど最前までその体勢だった。確かに気は抜けている。その像の表情にも凡そ緊張感は無い。
「この姿勢は
「いちいち一言多いんだよ。そうは言うがな柱間、その弥勒菩薩とやらが本当にそんな事考えてるってどうして分かるんだ。随分と眠たそうな平和な顔じゃねえか」
古拙の微笑というのだったか、含むような淡い笑みがその形の良い唇には滲んでいる。和やかな陽光がたっぷりと降り注ぐ中、花が音も無くほころぶ刹那のように。その表情はただただ静謐でひそやかだった。仮に薄暗い部屋の中ではなく、日の当たる縁側に置いたならばふくふくと微睡んでいるようでさぞや似合うだろう。半眼でどこを見ているのか分からないその顔付きは深遠な思索の表情のようでもありながら、たらふく食べて満足げに微笑んでいるようでもあった。
マダラは意図して意地悪く問い掛けたのだが、対する柱間は鷹揚に笑う。そんなものは分かる訳が無い、とあっさり言い切った。
「仏どころか所詮他人の気持ちなんぞは人には分からんものだろう、分かり合いたいとは思うけれども、そう切に願うけれど無理なものは無理なんぞ。この偶像で大事なのはな、そう読み解ける――謂わば約束事が作られ、そうあるように願って作った者がいるという事なんじゃないか」
「お前にしては回りくどいな、何が言いたい?」
「さっき言っただろう、祈りだと。仏や神が本当におわしますのかなんぞは分からん、だが仏像は確かにある。見て触ることも出来る。作った人間がちゃんといるからこそ此処に或るんぞ。誰かを救いたい、どうか救われてほしい、そう一心に願いながら作られたんだろう。そういう誰かが事実生きていて、直向きな想いが目に見える形であると思うと、俺は言いようも無く有難く感じる。心強いと言ってもいいかもな」
「……下らん。人に人が救えるものか」
「救えんな、救えるのは神仏か自分自身ぞ。だからこそ凡夫は祈る。意味が無いかもしれんと分かりながらも、ただ祈ることしか出来ないからだ。祈って祈って祈り尽して、藁にもすがる想いで慈悲深い仏の姿に祈りを込めたんだろう」
話しながらも柱間は木片をひたすらに削り続けている。まるで何かに追い立てられるかのように。
かこり、かこ、と。一度口を噤めば、規則正しい鑿の音が四隅の暗がりへと溶けていく。申し訳程度の窓が一つあるだけの室内は、燭台を灯していてもなお酷く仄暗い。日暮れまでにはまだ早い時分だが、青褪めた宵の|帳《とばり》が幾重にも折り重なっているかのようだ。しかし、今は何時なのだったかマダラは段々と分からなくなっていた。遥かな未来の仏もおわしますのだ、きっと外界とは時の流れが異なるのだろう。白昼夢に半身を浸しているかのように時が揺蕩っている。
柱間が何を思って木仏を彫るのかマダラは知らない、分かるはずもない。一度問うてみたのだが明確な答えは返ってこなかった。ともすれば、柱間自身も分かっていないのかもしれない。ただ、何事かを求めてやまない漠然とした焦燥が自ずから鑿を振るわせるのであれば、その気持ちだけはマダラにも少しだけ分かる気がした。
勿論、先程柱間が言った通りに他人の思いなど真実分かるはずもない。共感など畢竟ただの思い込みであり錯覚である。人と人は恣意的にしか分かり合えず、胃の腑を裂いて見せたところで本懐など結局のところは伝わらない。木の葉という新しい居場所に移り住んで以来、近頃はそんな事さえもよく思う。
――それでも、あの頃は随分と祈ったけれども。もう祈り疲れてしまった。
揺らぐような眩暈が襲い、マダラは思わず薄い目蓋を抑えた。日頃の疲れが眼窩に鈍く留まっている。
「よし、今日はこのくらいにしておくかの」
「そういやこの後区画整備の会議なんじゃないのか。さっさと行けよ、また扉間か桃華辺りにどやされても知らねえぞ」
「なんぞ他人事みたいに、マダラも出るんだろうが」
「……いや、今日はヒカクに任せた」
今日は、というより正しくは、今日も、なのだろうが。
何か言いたげな視線を感じる。だが、柱間はそれ以上は何も問わない。マダラも敢えて何も言うつもりもなかった。帰り支度を整え始めた柱間から視線を外し、今しがたまで拵えていた木仏を眺めていた。
俯いた顔にひっそりと影を落とす深い慈悲。そして、潤いのある憂い。その面差しは誰かに似ている。誰だっただろう、きっと堪らなく優しい誰かだ。――遠い昔に死んだ母の幻影だろうか。その答えは多分喉奥のすぐそこまで出かかっているのに、掴もうとすると記憶の淵に逃げてしまう。
無性に、気になった。
「……なあ、少し残っていいか」
「それは構わんが、どうしたんぞ?」
「別にどうって訳でもない、静かで落ち着くと思ってな」
「気に入ったなら何よりだ。中々いい場所だろう、俺も半分は瞑想しに来てるようなものぞ」
「昼寝の間違いじゃなくてか」
「それなら執務室の椅子が一番気持ち良くての」
軽口を受け流し、柱間はからからと笑う。笑い声の余韻がまだ中空に漂っている最中、ふ、と一瞬で笑顔が消えた。
「――あのな、マダラ」
「……なんだ」
打って変わって真剣な表情である。この男の喜怒哀楽の激しさは時たまマダラを不安にさせる。
「完成したらこの像を貰い受けてくれんか」
「――は?」
「ほれ、見ての通り小ぶりだしそんな場所も取らんぞ」
「いいって。大体そういう問題じゃないだろ」
「まあまあ、そう遠慮せんと」
「遠慮じゃねえ」
頬がひくりと引き攣った。いらない、間に合っている、とマダラは頑なに首を振ったが、なかなかどうして柱間も強情である。押し問答のようなやり取りが平行線をのろのろ辿る。両者まんじりとも譲らず長引きかねない膠着だったが、時間だけは滞りなく縷々として流れ続けている。会合があるのだ。じゃあそういうことでの、と何がそういう事なのか察したくない一言を残して柱間が庵を去った後、マダラは憮然と溜息を吐いた。結局うやむやなままである、諾々と押し切られそうな予感がして釈然としない。だというのに、渦中の仏は知らん顔で曰く衆生を救済することばかりを考えているようだった。全く悠長なこと甚だしい。五十六億と七千万年先の大勢より、願わくば御身の所為で困窮しているただ今の一人を取りあえず救ってほしいものである。
八つ当たりのような心地でマダラは件の木仏を睨め付ける。改まってつくづくと眺めたところで相変わらずの澄まし顔だ。
柱間は器用なのだろう、素人目にもよく出来ている。大したものだと感心はするが、それでもありがた迷惑というものだ。一度受け取ってしまえば処分することも儘ならない。別段信心深い者でなくともこういった類の物を排棄するのは普通気がひける、それだというのに信心深い己が持て余せば罪悪に駆られることが目に見えているからだ。それならば最初から自ら避けている方が利口だろう。
マダラは良くいえば信心深く、悪くいうならば迷信深い。願掛けを当たり前のように行い、縁起物も割合好きである。だが所詮は五彩鮮やかな節句の飾りだの、鰯の頭だの小豆飯だの、招き猫や疱瘡除けの赤物などの牧歌的で素朴なものだ。霊験あらたかな、と大層な枕詞が付くような、それ自体が信仰の対象となりうるものは荷が重い。縁起が良いという範疇を超えている。
人工物である人型の像を尊ぶというのは、実のところマダラにとってはあまり馴染みがないことだった。八百万の神は其処此処におわしますが、宿る依代は磐座や神木である。人が手を加えていない自然そのままの姿、もしくは人工のものであっても鏡くらいが精々で、神そのものだという姿を目にする事は慣れていないのだ。尊いものは見てはならない、古の考え方がそのまま根付いているからなのかもしれない。仏がどんな姿をしているのかさえ、つい先日まで詳しく知らなかった。それでも、もっともらしく成程然もありなん思えるのは細工が見事だからなのだろうか。なかなかどうして厳かである。
磨いていない白木の肌は陰影が深く、染み入るように滲む薄闇とよく馴染んでいた。鮮やかな鑿の軌跡が年月を経た慎み深い皺のようでどこか生々しい。体温さえ感じられるような頬のまろみ、動き出しそうなしなやかな指先。思わずそっと触れてしまいたくなる目蓋の曲線、まるで生きているかのようだ。
確かに良いものである。こんなに美しく清らかなものが救おうと歩み寄ってくれるのであれば、それは確かに結構なことだろう。だが、
「……遅過ぎるなあ」
もっと、早くに。もしも、あの時。助けてくれと縋れたなら、果たして何かが変わったのだろうか。
今更救いの手を差し伸べられたところで取り返しがつかない。もう遅い、何もかも遅過ぎるのだ。
祈って祈って、命さえ捧げてもいいと祈り尽くして。
――それでもあの子は、弟は、
死んでしまった。もういない。この命よりも、この世の何より大切だった一人きりの弟。
イズナを、助けられなかった。必ず助けると誓ったのに。
神は人を救わない。いくら地に|額《ぬか》づき祈っても、凍れる夜に擦り切れるほど百度を踏んでも、イズナを省みてはくれなかった。泥沼で溺れるマダラを掬おうともしてくれなかった。神はちっぽけな懊悩などに見向きもしないのだ。
うちはで信仰されている氏神は一族の繁栄を守護するものではあるが、そもそも個人の救済を目的とはしていない。神は敬い崇められ、祀られるだけのものであって、衆生をいかに救おうなどと悩んで歩み寄ることなど決してないのである。よしんば何かしらの福徳が得られたのだとして、それは深い慈しみからではなく単なる刹那の気紛れに過ぎないのだろう。
神道には教義も経典も無く、救済という概念がそもそも存在しない。土臭い民俗信仰がそれらしい顔で澄ましているだけで、千手で信仰されている理路整然とした教えとは根本的に全く違うのだ。
仮に守るべき教義があったのならば、そこから逸脱していたのだと自らの行いを改める事も出来るだろう。自らの行いを悔い改め、進むべき道を示してくれるかもしれない。宗教とは迷い惑った弱い人間がどう生きるべきかを教え諭し、導くものなのだから。
だが、マダラの知る神は違っていた。見向きもしない。仮に神像があるのなら、後ろ姿かそっぽを向かせている姿が自然だと思えるくらいに顧みない。人のためにいるのではなく、人の意思など関係無く当たり前のようにいる、だから怒らせないように畏れて祀られるだけの存在。気に食わなければ祟るのみだ。有難くもなんともない。
――仏が慈悲を与えるならば、神が与えるものは一体何なのか。
――仏が人を救うものならば、神は人を祟るだけのものなのか。
助けてくれと縋り付いたところでお門違いもいいところだろう。それでも、そんな神に祈るしかなかった。縋るしかなかったから。最早同族からも疎まれていたマダラには悲哀を吐露する相手も心痛を宥めてくれる誰かもいなかった。いるかどうかも分からない、尊くもない神の背中に平身低頭ひざまずき、只管許しを乞うように祈念し続けるしかなかったのだ。
何故助けてくれなかった。何故救ってくれなかった。
――何故、なぜ、どうして。
マダラは神を恨みさえした、憎みさえした。神などいない、そう言い切れたならどれだけ気が楽だったろう。根本に沁み付いた信心深さが、誰からも見放されて寄る辺の無い寂寥が、諦めてしまうことを執念深く邪魔をする。だから、
――イズナは一族のために死んだんだ
ずくり、と心臓が跳ねる。
眼球が刺すように痛い。肺腑が灼ける、脳髄が肥大する。膨張した血管を煮滾る血潮がどくどくと巡り回る。
嗚呼、幻聴が酷く五月蝿い。
――惜しくはあったが、生きている限り戦は終わらなかったろう
――もう、疲れたんです。死人のために生きてる人間が犠牲になるなんて馬鹿げてる
――うちはの為と大義名分を掲げたところで、単なる戦狂いだったんだよ
――やっと、死んでくれた
イズナが願う安寧と一族の者が求める平和には齟齬があった。イズナが思う平和とは、すなわち仇を根絶やしにした後に得られる精神の平穏だった。生きている者の為というよりかは、誉高きうちはの誇りや果たされなかった死者の無念の為と言ってもいい。イズナが一族を想っていたことは紛れもない事実ではあったが、このまま戦を続けたところで待っている終焉は気高い破滅であったのだろう。
氏神は一族という共同体そのものを守り繁栄させるべきもの、ならばその神に祈りを捧げた結果齎された結末は一族の行く末を守らんがため、と考えることも可能である。仮にその通りであれば、うちは一族を守っていくためにイズナは神に殺されたのではないか、そう思い至った時にマダラは神を呪いたくなった。
そんなものに、そんな人でなしに愚かにも祈りを捧げ続けたのだ。イズナを助けてくれ、と。この苦海から掬い上げてくれ、と。決して応えることなどなかったのに。
全部、無駄だったのに。
柱間から仏の教えを聞いた時、マダラは素直に心惹かれた。反面、酷く恨めしくもなった。何故、もっと早くに。何故あの時に知らなかったのだろう、と。イズナを喪ったあの時、マダラの世界は壊れてしまったのだ。マダラの幸福は弟そのものの、希望はイズナが生きる未来のことだった。
心の底から愛していた弟を奪われた絶望の淵で藻搔き苦しむ己を救わんとする仏がいたのなら、なりふり構わず縋り付きたかった。常闇の苦しみにおいて一筋の|縁《よすが》のがあれば、一体どれほど有難かっただろう。何もかも喪って、何もかもから見放されたというのに、今更遅過ぎたのである。
それでも、結局は同じだったのだろう。助けてくれと泣き喚くことすら出来ず、聞こえる筈のない死者の幻聴に怯え、差し伸べられる手すら何も見ないように蹲って。真っ直ぐに差し出された手を取ることも出来たのに、結局羨むように悔やんでいるだけの臆病者だ。
――嗚呼、嗚呼。
この像を見ていると無性に胸奥が騒ぐ。押し寄せる濁流のような、雪解の奔流のような激しいこの感情をどう表せば適当なのか分からない。
全てを許すような悟りの眼差し。思惟に耽る菩薩の表情は悲しいほどに優しい。思わず抱き縋って、何もかも受け止めてほしくなる。
なんと、なんと尊い表情なのだろう。
誰かに似ている、――誰だったかな。顔も忘れ果てた母だろうか、厳しくも優しかった父だろうか。最期まで愚かな兄の為に生きてしまった可愛い弟の笑顔だろうか。
心臓がざわざわと漣立つ。
悲しい訳でもないのに眼窩が熱を孕んでいる。
ぐうっ、と弥勒菩薩が近付いた気がした。否、引き寄せられたのか。
何か大きな手で視線ごと手繰り寄せられたかのように目が離せない。精神が直接触られているような心地がする、だが決して不快なものではない。あたたかな掌にやわく包み込まれ、全てを委ねたくなる安心感。安らかだ。
やっと、許されたのか――。
「自分一人だけ、楽になるのか」
――裏切り者め。
唇から漏れるのは弟の言葉。決して色褪せない呪詛。青褪めた吐息が首筋に掛かる予感がする。陶器のように冷ややかな指先がいとおしむようにマダラの精神を締め付ける。
眼球が、イズナの形見がじくじくと責め苛む。
そんなことをすればイズナは怒るだろう。否、きっと怒っているに違いない。
千手に降伏して、誇り高いうちはに泥を塗り、膝を付かせた張本人が晴らせぬ無念を忘れて幸せになるのか、と。
幸せになっていい筈なんてない。
うずくまって頭を抱える。慟哭するように、平伏すように、自らを守るように。
神代以来とも恐れられたうちはの軍神はとっくの昔に死んだのだ。今や千手に跪き、うすら寒い形ばかりの平和へ服従するしかない敗北者。負け犬である。こんな体たらくでは、救えなかった弟にも、一族を頼むと託した父にも、死なせてしまった同胞達にも合わせる顔などありはしない。謝る事すら許されない。
うちはを今後も守っていくのであれば、矢張り里を抜けるしか他にないのだ。このままでは、
――誇りを捨てるな。強くあれ、強くあらねばならない。
分かっている。そんなことは、誰よりマダラ自身が分かっているのに。
苦しい、くるしい。もう疲れた。楽になりたい。
どうか、どうか助けてくれ。救ってくれ。往くも戻るも出来ない泥濘の苦しみから、どうか掬い上げてくれ。
伏したまま仰ぐように頭を上げる。ちょうど件の像を見上げるかたちになった。思わずマダラは目を細める。
眩しい。
ああ、どうしてこの仏は、こんなにも優しいのだろう。こんなにも狂おしいのだろう。
似ているからだ。
あいつに、
柱間に瓜二つではないか。
魅入られた様に弱弱しく手を伸ばす。母を求める乳飲み子のように、それはどうしようもなく当たり前の衝動だった。
こうして柱間に縋り付いて助けを乞えば、きっと楽になれるのだろう。何もかもから見放されたマダラを柱間だけは捨てなかった。見放してくれればいっそ楽なのに、どうしても捨ててくれなかった。
矜持さえ失くし、飼い慣らされ牙を抜かれた猫のように。人を辞め、獣になれば楽なのだろう。幸せになるには人間を辞めてしまえばいい。今更マダラに誇り高さを求めるものなど誰もいないだろう。全てを忘れ、争うよりも恭順した方が皆喜ぶはずだ。
――もう、いいか。
許されたかった。弱くあることを、どうか許してほしい。
指先が木の肌に触れる。抗えない。全てを委ねるように寄り縋る。悲しい訳でもないのに、無性に慟哭したくなった。
あたたかい。きっと、込められた祈りが、心があたたかいのだ。
その時。
寄せた頬に何かが当たった。
ことり、と。何かが床に転がる音。
「あ、」
指が――。
我に返り、マダラは弾かれたように身を離す。見れば右の薬指が欠けている。一切衆生を救わんと思索に沈み、頬に添えられていた方の手である。先程当たった時に折れたのだ。落ちた指を拾い上げ、呆然と見詰める。
――嗚呼、取り返しがつかないことを。
先程まで保たれていた美しい均整は崩れ去り、露わな断面が酷く痛々しい。あるべき場所に収まっている状態ではあれほど優美だったのに、ひとたび損なわれた木片は怯えて蹲る小動物のようだった。
いつもと同じだ。結局何もかもが台無しになってしまう。
握り締める手が震えていた。なす術もなく慈悲深い仏を仰ぐが、矢張り涼しい顔で眼前の苦悩には目もくれず、五十と六億、そして七千万年先の遥かな未来に思いを馳せたままだった。
(2021/12/16)
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