第一話 人もをし


 思えば、あれも梔子の頃だった。

 生まれる前に決められた許婚に不満を漏らしたことは無いけれど、あの人のことは正直あまり好きではない。
 五つ歳の離れた彼にはじめて会ったのは、六つになったばかりの時だ。兄弟姉妹がいないものだから、年の離れた兄ができるようで無邪気に喜んでいたのを覚えている。お前のお婿さんになる人だと言われても、当然実感なんて湧かなかった。ただ、何をして遊んでもらおう、お飯事はお好きかしら、なんて呑気なことばかり考えていた。

 座敷に座るその人は、まだ十を過ぎたばかりなのに酷く大人びて見えた。意志の強そうな涼やかな目元に、潤いのある端正な顔。母が申し上げる無意味な言葉達を、少し不機嫌そうに聞いていた。
 大人達が何を言っていたのかは覚えていない。ただ、彼の目だけが不思議と気になった。しきりに頭を下げていた母の後ろで、私はじっとその深い色を湛えた瞳ばかりを見詰めていた。
 程なくして、私たちは違う部屋に移された。普段は使っていない、庭に面したちいさな部屋だ。そこでも彼は相変わらず眉根を寄せて、外ばかりを眺めていた。
 今になってみれば分かるが、親達の都合による婚姻など陰鬱になる他なかったのだろう。幼くて愚かな私はそんなことは気付かずに、にこにこと笑いながら、お庭であそびましょう、と濃紺の袖を引っ張ったのだ。この事を思い出す度、私はいつも頭が痛くなる。どうして、あんなに浅慮だったのだろう。子どもだから仕方無いのかもしれないけど。

「お兄様、一緒にあそびましょう」
「……おう」

 それから後のことは、あまり思い出したくない。というより、正直ほとんど覚えていない。とにかく、庭へ出た彼に着いていった私は、いきなりその許婚に張り倒されたのだ。その時頭を強く打ってしまったようで、次に目を覚ますと布団の上。記憶が曖昧で何が何だか見当も付かなくて、目を覚ましても夢でも見ていたのかと思ったほどだ。
 理由なんて分からなかった。それでも、幼心にあの人をきっと怒らせてしまったのだというのは気が付いていた。目障りに思われたのだろう。もう会いたくない、そう思ってはいたけれど、結局言い出す事はできなかった。聞き入れてもらえないのは、分かっていたから。

 何故なら、そのことを聞いた母は縁談を断るどころか、ご子息に不快な思いをさせ申し訳ない、年頃になるまでに必ずや婿殿に見合うよう躾けておきますゆえ、などと曰ったらしい。後から聞いた話だったが、これでは私の立場などまるで無い。それを聞いて情けなく嘆く気持ちがなかったわけでは無いが、仕方の無い事ではあった。
 かつては百万石とも謳われた我が磐永家も、今ではただの没落貴族。大名との縁談にも取り付けず、当主である父も早くに世を去った。忍とはいえ最強と誉れ高い彼の一族に娘が嫁ぐことは、傾きかけた家を助く唯一の術だったのだ。

 うちは一族の頭領、うちはマダラ。今日から、許婚である彼の家に住むことになっている。

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