文豪ストレイドッグス一話目

 死んだら人はどうなるのか。何処かで聴いたことのある話を思い出す。あの世には十人の王様がいて、死者は順番に審判にかけられる。そうして天国か地獄か、魂の行き先が決まるらしい。
 その話が本当であれば、この白い壁に囲まれた殺風景な一室があの世で、泉希の目の前にいるおかっぱ頭の男性があの世の王様の一人で、白い髪の男の子が死者である。男の子の年齢は、大体泉希と同じくらいだろうか。お互い短い人生だったね…。なんて、勝手な想像を膨らませながら、変な親近感を覚えていた。

 享年14歳。呑んだくれの両親の元に生まれ、人生の半分以上は使い走りの生活で浪費し、人攫いに遭ったのが切っ掛けで"あの人"に出逢い、貧民街で境遇を同じくする子供たちと一緒に生活を始めた。最期は無法者の拳銃によって、他の子供たちと同様に撃たれて御仕舞いだ。
 そんな呆気なく閉じた生涯であっても、無意味だったとは思わなかった。泉希は"あの人"に命を救われて、"あの人"に生きる意味を与えてもらった。その命を"あの人"を護る為に使えたのだ。後悔はない。泉希にとって、それだけで充分だった。
 だから、死んだ後にどうなろうと構わなかった。あの世の話を思い出したのも、そう言えばそんな話もあったなぁ、と、何となく浮かんだだけの事だった。

 ぼんやりとしていた泉希の耳に、パァン、という乾いた音が響く。死んだ身でも感覚器官は問題なく働くらしい。嫌でも聴き慣れてしまった音に思わず目を瞑ってしまった。
 そっと瞼を開ける。どうやら、男性が男の子の頬を叩いたようだ。勢い良く腕を振り上げたのだろう。男の子は体勢を崩し倒れ込んでいた。頬は真っ赤に腫れてきている。
 泉希も経験した事があるから分かる。あれはかなり痛い。下手に受ければ口の中が切れるのだ。他人事に思えず恐る恐る男の子の様子を窺う。男の子はその痛みに耐えるように唇を噛み、呻き声すら出さなかった。
 泉希は目を瞬かせる。もしかしなくとも、この子、叩かれることに慣れているのではなかろうか。ちらりとおかっぱ頭の男性に目を向ける。男性は極めて冷淡とした顔付きで、静かな目を少年に向けていた。周囲に緊張感が漂っている。泉希は自然と息を潜ませていた。

 男性は「今晩の食事は抜きだ」とだけ言うと、振り返る事なく部屋を出て行く。その背中を見送った数秒後、ほっと息を吐いた。何というか、温度の感じられない人だった。今迄出会ったことのない類の大人だなぁ、と感想を抱いていると、視界の端で人影が動いた事に気付く。
 先程よりも腫れ上がった頬に手を当てながら、白い男の子がゆっくりと立ち上がる。痛々しい姿にかつての自分の姿が重なり、泉希は顔を顰める。だから、つい声を掛けてしまった。

「大丈夫?」

 男の子からの返答は無い。聴こえなかったのだろうかと小首を傾げる。ふらりと歩き出した男の子にもう一度声を掛けた。

「ねぇ、君──」

 しかし、男の子は何の反応も示す事なく、すっと泉希の前を通り過ぎて行った。

 部屋にたった一人残され、暫し呆然とその場に立ち尽くす。話し掛けても返事が無かったり反応が薄かったりするのは"あの人"で慣れていたが、それの比ではない位の無反応だった。
 まるで、其処には何も無いとでも言うような──。
 そこまで考えてはっとする。今思えば、おかっぱ頭の男性も、泉希の事を一切気にする素振りが無かった。この部屋には隠れられそうな場所もなく、泉希が視界に入らないことは無い筈なのにも関わらず。
 死んだら人はどうなるのか。再びそれが脳裏を過る頃には、与太噺は現実味を帯びてきていた。
 死んだ事に後悔がないのは本心だった。未練も特に無いと思っていた。それでも、漠然と理解出来てしまった。

 どうやら、幽霊になってしまったらしい。




 なってしまったものは仕方がない。思いの外あっさりと現状を受け入れた泉希は、取り敢えず部屋を出て建物内を散策することにした。因みに、幽霊ならすり抜けられるのでは? と実践してみたところ、見事に成功している。幽霊って便利だ。
 部屋の外に取り付けられた札を見る限り、今まで居たのは『院長室』であったようで、この建物が何かの施設なのだと推測出来た。
 先程の男の子とのやり取りからも、余り良い施設には思えない。その予想は凡そ当たっていた。