日暮れ前の広い境内は、崩れかけた民宿の廃墟や、まんじゅうを売る仲店の横も、岩壁のあいだからきらめく海原が望める石段の踊り場も、どこもかしこもが不思議に澄んだ厳かなパワーで満ちていた。空がばら色に染まりはじめて、前を歩く彼らの足取りが、少し速くなる。
残夏のぬるく重たい空気が、足元で停滞している。倦んでわだかまるそれを、蹴るようにして歩いた。
いくつかの社殿の脇を通り過ぎ、急勾配の石段をひたすらに上ったり、下ったりなどしていると、急に開けた視界の端から端へ、燦然とかがやく海原が広がった。水面は空のばら色を受けて深いすみれ色をしており、波間はダイアモンドを敷き詰めたかのように白くきらめいていた。夢のような光景であった。
彼らは岬の海食崖に立つ人影を見つけると、それぞれ思い思いの言葉を発しながら、そのふもとへと急いだ。はじめに俺たちに気がついたのは、海にいちばん近いところに立つ女生徒だった。
恋人を見つめるようなまなざしで、うっとりと海原を見ていた彼女は、振り返り、こちらを一瞥するとやわくほほえんで、ゆっくりとくちびるを動かした。声はほとんど聞こえなかったが、その動きから「ゆきむらくん」と言ったのがわかった。
沈む夕陽が、名残惜しそうに輝いている。岬の下で重なる畳岩のような海食台が、夕映えで鏡のようにきらめく。
光の輪郭はこちらを振り返る彼女にあわせて一度ほどけ、カメラレンズのピントが合うように、またぴたりと彼女を囲った。
「ゆきむらくん」と呼ばれたその人は、緩やかなウェーブのかかった髪の毛を強い潮風に靡かせながら、不安定な岩場を少し下り、後に続く彼女を見守るように、また振り返る。「ゆきむらくん」と、今度はきちんと声が聞こえた。頭がくらくらするほど、甘い響きだった。
「ゆきむらくん」が、俺の知る幸村精市であると理解するまで、少しの時間がかかった。それは、彼女の甘い表情や声色やそれに応える彼のまなざしが、俺の脳裏に焼きついて離れない全国大会決勝戦での天上人たる印象と、まるでマッチしなかったからだ。
彼女のいちばん側には幸村精市。そこからやや下ったところに真田弦一郎。そのわきに立つのが柳蓮二。三強と謳われる彼らの頂点に君臨するかのように、彼女は黄金色の光を背負い、いちばん高いところでほほえんでいる。
「彼女は……」
思わずこぼれた呟きを拾ったのは、俺のそばに立つ仁王先輩であった。
「王者立海を束ねる我らが神の子の、女神さまじゃよ」
突風が吹いてバランスを崩す彼女の指先を、幸村精市がごくなめらかな手つきで掴む。
「荷物をよこして」
彼は空いているほうの手で彼女の学生かばんを受け取り肩にかけると、繋いだ手をほどき、今度は彼女へ向けてちいさく腕を広げた。
「おいで」
彼女を見つめる強いまなざしを見たとき、俺の脳内ではじめて、記憶のなかの彼と目の前の彼とのイメージがぴたりと重なった。強い視線。勝気とも驕りとも違う、洗練された迷いなき意思の軌道。
「神の子の女神」
ぼうっと立ち尽くし、彼が彼女を抱きとめるさまを見つめながら、俺は思わず呟いた。神の子の女神。
「うっかり惚れないように、気をつけんしゃい」
彼女たちが石段の通路まで下りてきたとき、夕日は水平線に沈みきり、空の海に近いところだけが緋色の霞のような夕焼けの名残で淡く色づいていた。
彼女の圧倒的な存在感は霧散し、そこにはただ、清らなかんじのする、ひとりの少女が佇むのみだった。代わりに感じたのは、三強の面々の放つ、あたり一体の空気がしびれるほどの洗練されたエナジーである。
「きみが入部希望の編入生だね」
幸村精市が言う。その声は凛として涼やかで、風の音とも波の音とも混じらない、独立した音として俺の耳にクリアに届いた。彼女は両手を胸元に添え、彼の横で穏やかにほほえんでいる。
テニス部の試合を見に行ったのは、編入したてで環境に馴染めずにいたころ、クラスメイトの誘いを受けたからだ。それ以外の理由はなにもなかったのだが、しかし、彼らの勇姿は俺の脳裏に強く焼きついて離れなかった。
五十人ほどいる部員のなかで、俺はなにものにもなれないかもしれない。しかし、神話を見てみたいと思ったのだ。この目で。近くで。その温度を、肌で感じながら。
◇
テニスコートの近く、部室棟わきの生垣に、日陰躑躅の花が咲いた。ゴールドの真珠のような淡い黄白色の花がとてもうつくしく、一目で気に入ったため、近ごろは毎朝足を運んでいる。制服のかわいいところと花の多いところは、この学校の特にすきなところだ。
五月然とした、さわやかな晴天の朝だった。日差しはほのかにあたたかく、肺に流れ込む外気は少し冷たい。
甘いかおりに誘われて部室棟の裏へまわると、みごとに咲きこぼれて枝をしならせる満開のリラの花が視界に飛び込んでくる。ずらりと並んだプランターの花々も、ネモフィラ、アリッサム、クリーム色のローダンセマムなどと様々で、どれも可憐だ。
屋上や中庭にも花壇はあるが、中等部の一年が比較的気楽に覗きに来られ、かつ優れてうつくしいのがこの一帯である。
花壇の水やりは美化委員で行っているが、校内のあちこちにある一輪挿しの管理については、どういうふうに行われているのか聞いたことがなかった。見たところ、どうやらきちんとした手入れはされていないようだったので気になってしまい、いつの間にか花々を鑑賞するついでに切り花の世話をするのが、わたしの日課になっている。静かな朝の海と花がすきなので、朝は元々かなりの余裕を持って家を出ることにしていたのだ。
ゆたかな緑とうつくしい海と、そして人々とが共存しているこの町を、わたしはあいしている。
「淡い色の躑躅って珍しいよね」
唐突に降ってきた涼やかな声に、思わず肩が跳ねる。顔を上げると、ゆるやかに波打つ夜色の髪の毛に端正な面立ちの少年と目があった。隣のクラスの幸村くんだ。
「急に話しかけて、すまない。びっくりさせてしまったかな」
「ううん、ごめんね、ぼうっとしていたの。おはよう、幸村くん」
「おはよう」
「この躑躅、すごくかわいくって毎日見に来ちゃうの。不思議な色。光ってるみたい」
「花がすきなのかい」
「うん、詳しいわけではないんだけれど。幸村くんも?」
「ああ。今も朝練帰りに水をやりに来たところ。このあたりの花は世話を任せてもらっているんだ」
ほほえんだ幸村くんが顔を傾ぐと、ふわりと花のかおりが濃くなった気がした。
よく友人を訪ねてわたしの教室にくるので、何度か言葉を交わしたことはあるが、ふたりで会話をするのははじめてだ。緊張してしまって顔が見られないので、咲き広がる花々が眼前にあるのは非常に都合がよかった。
幸村くんは、幼さの残るほかの同学年の男子とはまた違った印象の人だった。むしろ大人のような落ち着きようだったが、女性らしい面差しとのアンバランスさが年齢不詳のかんじを醸し出している。近くで見ると、存外骨がしっかりしているのがわかる。奇妙なギャップが混在するその身体を、思わず隅々まで観察してしまいたくなる。
強豪校である立海のテニス部にてホープとして名を馳せているといううわさは聞いていたが、あらためて向き合ってみても、運動とは結びつかない人だと思った。ラケットを握っているところは見たことがないけれど、白く長い指にはゴールドの華奢なじょうろが、よく似合っている。
「じゃあ、このあたりのお花がみんな元気なのは、幸村くんのおかげなのね」
「おかげっていうほどじゃないけど、見て、よろこんでくれる人がいると知れたのはうれしいな」
そよ風が頬を撫でて、わたしたちの髪の毛をそっと揺らした。花のかおりのなかに、ほんの少し人工的なかおりを見つける。甘く涼やかなかおりは、ふわりと幸村くんから漂ってくるようだった。
「その一輪挿し。きみも花の世話をしてくれていたんだね」
幸村くんはわたしが抱えていた陶器の一輪挿しを見ると、口角をわずかに持ち上げてちいさく笑った。少しいたずらっぽい、こっそりとした笑みだった。
「……切り花だから、あっという間に枯れちゃうけれど」
わたしがしていることは幸村くんのしていることと比べれば、世話といえるような大層なものでない。恥ずかしくなってしまい呟いたかわいげのない言葉に、幸村くんはそっと目を細める。やさしいほほえみと日陰躑躅の控えめなイエローがみごとにマッチして、まるで絵画のようだった。
幸村くんはすでに制服に着替えてしまっている。せめてジャージ姿のままであれば、彼がスポーツをするイメージが、少しは湧いただろうか。このうつくしい人は、どういうふうにテニスをするのだろう。
ホームルームの時間が近い。遠くで男子たちの笑い声が聞こえてくる。
次に幸村くんに会ったのは、あの朝の出来事から二日後のことだった。部室棟のエントランスで、わたしはまた陶器の一輪挿しを抱えていた。足元には、はさみとビニール袋を入れたトートバッグと小さなばけつが置いてある。
「やあ、また会ったね」
「幸村くん、おはよう。朝練お疲れさま」
「部室棟まで見てくれているんだ」
「うん。運動部の人たちとバッティングしないように、みんなの朝練中に済ませるようにしているんだけど、見つかっちゃった」
朝の部室棟の不思議な静けさのなかに、わたしたちふたりの声が密やかに響く。部員たちの声や、球を打つ音、ホイッスルの音などが遠くでこだましている。無人の部室棟はひんやりとしていて、音がよく響く。採光がよくないため、いつも少し薄暗い。朝ここにいると、この空間ごと世界からぽかんと浮いているような気持ちになる。
リノリウムの床にかけられた業務用ワックスと、かすかな制汗剤のにおい漂う、グレイの孤島。今日はここに、幸村くんがいる。
「すまないね。バッティングしてしまった」
「ちがうの、変なこと言ってごめんね。ほら、みんな元気がよくて、わいわいしているでしょう。なんだか場違いな気がして萎縮しちゃうの」
「きみは花を守っているんだから、もっと誇らしげに、堂々としていればいいよ」
わたしは曖昧に頷いた。幸村くんが首を傾いで横髪がさらりと揺れると、シャンプーか整髪料か、とてもよいかおりがした。清涼感を伴う、それでいて甘い、すずらんのようなかおりだった。
「幸村くん、今日は朝練には参加しないの?」
「これから向かうところだよ。水曜は監督からの連絡事項を整理しておろす係なんだ。前任のマネージャーが三年だったから、卒業してからはプレーヤーが持ち回りで動いてる」
「それは大変だね」
「五十人で分担しているから、そんなに苦じゃないよ」
幸村くんの白い指先が、花瓶に生けられたスイートピーに触れる。ステラはほんのすこし黄味がかった白の、かおりのよい品種で、透けるような薄い花びらがまるでドレスのドレープのように見える。子猫の耳をそっと撫でるような手つきだった。幸村くんに触れられて、花も喜んでいるように見えた。
「スポーツはきらい?」
幸村くんのその問いに、わたしは戸惑ってしまう。正直、わたしの世界にはまるで馴染みのないものだからだ。授業でもなければ関わることに消極的になってしまう。スポーツという語感からは、熱意の波に飲まれて迷子になってしまうイメージがまず浮かぶ。有り体にいえば、苦手な分野だった。
「正直に言うとね、きらいではないんだけれど、生きている人間の優劣を競うのがすきでなくて、あまり夢中になれる分野でないの。すきな人には、ずっと笑顔で、幸福でいてほしい。スポーツをしていると、きっとフラットにしあわせではいられないでしょう」
わたしは、勝った負けた、勝て負けろと、言葉と身体とで殴り合う人たちを想像してぞっとした。誰かの勝利を願うあまり、他の誰かの敗北を願ったり喜んだりすることは、とても野蛮なことと思えてならなかった。
そしてそういう風を受け、戦いの影で大切な人が苦しい思いをするだなんて、とてもじゃないけれど耐えられない。勝負のたびにそんな思いをする人がいるのだと考えれば、やはり肌に合わない文化であると思わざるを得なかった。
「ごめんなさい、スポーツマンの前で、こんな」
「いいんだ。気にしないで。きみの感性、俺はすきだな」
薄暗いエントランスに、幸村くんの凛と涼やかな声が響く。
「もしもいやじゃなければ、一度見においで。きっと新しい発見があるよ」
わたしがちいさく頷くのを見て、幸村くんはエントランスのドアを引き、コートのほうへ歩いて行った。
幸村くんの言葉には妙な説得力があり、わたしはすんなりと、その新しい発見というものとの出会いを信じてみる気持ちになった。
花瓶の水を換えたかどうか、一瞬、思い出せなかった。