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 磨き上げられたバスタブのなかに、彼女はいた。白い人工大理石のころんとしたくぼみのなかに水は張られておらず、かわりに、膝を折ってうずくまる彼女のふくらはぎのまんなかあたりまでを、色とりどりの花冠が埋めている。彼女のこぼした涙が、頬を伝う途中でひとひらの白い花びらに変わり、音もなく落ちた。

 西洋ふうのたてものは、朽ちてなお、ある種の風格を保っている。ここはサナトリウムの跡地で、かつては末期のバースレス状態に陥った花生みたちが収容されていたという。館内はでたらめに根を張る草花や木々で支配されており、割れた窓ガラスから、砕けて屈折する幾重もの光を採りこんでいる。

 人工物を侵食する自然をひと目見ようと訪れる芸術家も少なくはないが、有名な心霊スポットであるため、地元のものはほとんど近寄らない。数々の花生みが、ヴィジテーションによりここで命を落としたのだ。

 愛する花食みを失ったもの、忘れ去られたもの。愛を享受できなくなってしまったもの言わぬ多くの人びとが、ここにはまだ眠っている。巡る季節に色やかたちを変えながら、還らぬ愛を、ずっと待ち続けている。

「やっぱりここにいた」

 彼女は俺の言葉にわずかに頭をもたげると、静かに鼻を啜った。真っ青な顔をしている。バスタブのへりには、空になったタブレットケースが置かれていた。


 彼女が体調を崩して早退したので、知人のよしみで、ようすを見がてら、授業での配布物などを届けると請け合ったのだ。しかし、彼女は寮である女子会館には戻っておらず、心配した寮母が県内に住んでいるという彼女の祖母へ電話をかけてみたが、そこへも立ち寄っていないというのだから肝を冷やした。

 行き先にはこころあたりがあったが、どこかで、あるいは目的地で倒れているかもしれない。
 幸い、俺の心配は杞憂に終わり、想定どおりに彼女はそこにいた。消沈しているが、意識はしっかりあるようだった。

「……転地療養なんて、わたしには意味がないのかもしれない」

 ふたたび伏せられた顔の影から、また、はらはらと花びらが落ちた。

「とにかく、倒れる前に栄養を摂らないと。話しはあとでじっくり聞いてあげるから」

 走ってきたので、ちょうど汗をかいていた。
 バスタブのへりに手をつき、身体を屈める。頭から頬へ手のひらを滑らせると、彼女はこわごわと顔を上げた。まつげまでもがしとどに濡れている。ぐずぐずになった花びらが、横髪とともに頬に張り付いていた。

「俺の体液を使って」
「いや。幸村くんからはもらいたくない」
「変な意地を張ってる場合じゃないだろ。下心なんてないよ。心配で言ってるんだ」
「……そういう意味じゃないの。とにかくいや。もう少し休めば平気だから」

 暑い日だった。首すじを流れた汗に触れた指を、彼女の口もとへ運ぶ。彼女は俺の手首を掴んで一瞬抵抗の色を見せたが、すぐにまぶたをとろりと落としておとなしくなった。咥えられた指先をあたたかい舌が包む。静かな水音が響く。手を引き戻して彼女の身体をゆるく抱き寄せる。首すじにくちびるが寄せられて、また水音が響いた。後頭部から首のうしろを撫でつけると、安心したのか甘えるように鼻先が擦り付けられた。

 彼女の身体がゆっくりと離れ、そして視線が交わったとき、そのくちびるの引力に逆らうのがむずかしかった。指先がわずかに震えた。彼女も熱っぽく濡れた瞳をしていたが、ここでこれ以上触れ合うことが不毛であることは定かだった。

 立ち上がった俺を見上げる彼女の頬が、桃色に上気している。バスタブのへりを掴む指先もほの赤く、すっかり血の気を取り戻したようだった。俺は心底安堵する。すこやかでいてほしい。できれば、どんなときでも。
 そうして、また、花がすきだと笑ってくれたら。


 彼女が緩慢な動きで立ち上がる。制服に張りついた大小さまざまの花冠が、重力にならってほろほろと落ちてゆく。

 初恋というものがおよそ叶わないものであるとは、一体、誰が言いはじめたのだろう。
 色を取り戻しはじめたこの感情を、俺は一体、なんと呼べばよいのだろう。