水色とも灰色ともつかない薄曇りに黒い点が広がる。春のぼんやりとした空に、濃く滲んだそれは
あれのことを、宇宙の染みのようだと言ったのは誰だったろう。心くすぐられる響きではあるけれど、その言葉がひどく弱々しく囁かれたのを聞いていた。
ぴゅう、と物悲しい音がする。人のいない街を通り抜ける風は湿り気を帯びていた。この場所から何もかも連れ去って欲しいのに、瓦礫が動くことはない。
誰かに背中を押されたような気がした。鳴きながら吹く風が己の背を押しているのだとわかっていた。ジャケットがわずかに膨らんで裾がはためく。艶めいたネクタイが風にあおられるのを手で押さえる。いっそ外してしまった方がいいと思いながら、そうはしなかった。艶めく絹糸で織られたそれは彼女がくれたものだ。
空に滲んだ宇宙から白いなにかが降りてくる。空を泳ぐ魚のような姿で、もう少し遠くからなら雲にも見えたかもしれない。それが兵器だと知っている。この瓦礫の街をつくりあげた、化け物のような兵器だ。
閃光がはしった。兵器――トリオン兵の出現を察知して、ボーダーの人間が迎撃を行なったのだろう。爆発音は届かない。火薬の黒煙にも似た
ほんの数分のうちにトリオン兵は空から追いやられる。安堵の息は漏れなかった。淡々と事実を飲み込みながら瓦礫を見つめる。映画のセット、のような。ハリボテの街であってほしいと思うのに、それは現実の厚みを伴って広がっている。
懐から煙草とライターを取り出した。鈍く光る銀メッキに映った顔はいつもと同じだ。一本咥えて火を点ける。呼吸を深めれば春も終わる空に紫煙が融ける。ついこのあいだ開けたばかりなのにもう残り僅かになってきた。吸いすぎだよ。
とっ、と背後で足音が響いた。瓦礫の上を身軽に渡り歩く音だった。コツリ、革靴の底で
「唐沢さん、ここにいたんだ」
瓦礫の上に立った少年は、唐沢を見下ろしながらそう言った。彩度のない空に少年の纏う青が映えてひどく眩しい。目元を覆うサングラスの向こうは見えなかったが、その向こうに青い瞳があることを知っている。
「やあ、迅くん。誰かが俺を探してたかい?」
ゆっくりと笑みを浮かべ訊ねた。点けたばかりの煙草を携帯灰皿に押し込める。勿体無いとは思わなかった。実のところもう味も何も感じていない。
少年の立つ瓦礫へと近付く。少年も、いつもと同じ読めない表情を浮かべている。彼はどうしてここにいるのだろう。事前に確認した行動予定では、この時間のこの地区には誰も配置されていなかった。
「いいや、誰も。デキる男のことはみんな心配しないもんでしょ」
へらり、と笑った顔が向けられる。瓦礫の近くで立ち止まったが、彼は地面に降りてこなかった。青を風にはためかせながらも、少年の体はすこしも揺れない。まだ警戒されているな、と思った。唐沢が彼と初めて顔を合わせたのはつい先日だ。
「それはそれで寂しいな」
「ああ、でも、根付さんが探すよ。そのうちね」
耳の奥で絶えず風が鳴っていた。少年の声が聴き取りにくいのはそのせいだろうか。
見渡す限りに広がる瓦礫を眺める。生き物の気配はないのに、人がいた形跡はそこかしこにある。この土地を濡らした血は土埃に覆われてしまったのだろうか。生々しい痕は見つけられないが、住宅や電柱が折り重なるようにして倒壊し、ガラスの破片や細々とした雑貨が散らばっていた。
かろうじて残る街の面影もいずれは失われるだろう。崩れて、砕かれて、消えて、なくなる。人の営みの儚さを突きつけられる。目を背けはしなかった。あらゆる感傷が遠かった。
ここに彼女がいないという事実も、痛みを伴わず考えられる。
彼女をおもって泣き叫びたいような気もするのに、瓦礫を前にしても心は動じない。そういうもの、として目の前に広がっている。
「唐沢さん、三門にいたことがあるの?」
不意に少年が問いかけた。
ちょうど彼女のことを考えていたときに、妙に鋭い。それが未来視によるものなのか、純然たる直感かは定かではなかったが、正直に答えることにした。彼女ならばそうしただろうから。
「最近は、来ていた、かな。友人がここに住んでいたから」
驚いたように少年の目が見開かれ、これは視えていなかったのだと考える。次いで、少年はぎゅっと眉間に
瓦礫の間を縫う湿った風は何もかもを置き去りにしていく。春の空には喪失を煽る寒さもなく、後ろ髪を引くような残り香だけが漂っていた。
「……そろそろ戻ろうか」
車の鍵をくるりと回した。握り込めば冷えた感触が伝わる。車は少し離れた、まだ建物が残っている区域に停めてあった。
「乗ってくかい?」
「いや、いいよ。――まだ門が開くみたいだし」
すっと細められた瞳が未だ変哲のない空を確かに睨む。そこには何もないけれど、彼が言うのならそうなのだろう。
市民から私物を回収したいという申し入れがあったことは知っている。このあたりはまだ回収が済んでいない地域だ。市民を警戒区域に入れる際は戦闘員を随伴させる必要があるが、まだ人数の少ない組織では難しいことだった。余所の手を借りるにしても調整には時間が要る。
少年は、だからここに来たのだと悟った。脅威がこれ以上街を破壊しないように――大切なひとのいなくなった街で、けれどその思い出に、誰かが縋れるように。
「……それじゃあ、戦う力のないおじさんはさっさと退散することにしよう」
「冗談。上の方で戦っててよ、オトナはさ」
これを十五の子どもが言うのだからたちが悪い。もっと純真であれと思ったけれど、それを許していないのは唐沢をはじめとする大人たちだ。両手を挙げて降参を示す。少年に――誰よりも戦う彼に、戦えと言われてそれを放棄する気はない。いや、言われなくても、だ。
「また後で。気をつけてね」
心配はしていないけれど、そう声をかけて別れの挨拶とする。彼が立つ瓦礫の横を歩いた。
「――唐沢さん」
呼びかける声がそっと鼓膜を震わせる。風に紛れてしまえる小さな声だったけれど、風向きのせいかもしれない。
「なんだい?」
首だけで仰ぐ。少年のちいさな背中に眩いほどの青がはためている。
「……ごめん」
やはり囁くような声だった。それを拾ってしまえるのに、相変わらず耳の奥で風が鳴る。これはもしかしたら風の音ではなくて、ただの耳鳴りなのかもしれない。
瓦礫の向こうでまだ生きた街が青く霞んでいた。その手前では界境防衛機関ボーダーの本部基地が粛々と建設されている。土台は終わって外壁に着手するところらしい。組織としても凄まじい速さで成長を遂げようとしている。唐沢の役目はそこにある。できることは残されている。
「いいんだ」
ぽつりと呟く。罅割れたアスファルトに一滴の雨が落ちるように。
唐沢はヒーローになれなかった。これはただそれだけの話であり、少年が負うべき傷ではないのだ。
靴底で
彼女が、ここで生きていた。
風が鳴く。
きみがいた春が終わる。きみがいない夏が来る。きみを欠いた世界は
それを、少しだけ持て余しているのだと言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。
――訊いておけばよかったな。
嘯いた言葉は、春と瓦礫へ静かに融けていった。