なまえが見つけた喫茶店は、いつの間にか唐沢にとっても行き着けの場所となっていた。けれど隣に彼女はいない。数日前に受け取ったメールには、学会でギリシャに行くとあった。宇宙に関することは、今でも天文学と深い繋がりのある地で行われるらしい。
それを知っているから――万に一つも再会することはないとわかったから、唐沢はここを訪れた。なまえと最後に会ったのは一年前になる。二人で夜を明かし、東京へ戻る唐沢をなまえが見送ってくれた日だ。
忙しさを理由にすれば避けることは簡単だった。正しい距離を保つことが、できている。それがうっかり崩れてしまわないように、唐沢は細心の注意を払っていた。
「それで、あの若造は何と?」
カウンターの内側で珈琲を淹れる老紳士は悪戯っぽく問いかける。幼馴染みの誘いがなくともこの店を訪れ続ける理由の一つが彼だ。かつて唐沢と同じ組織に所属していたという老爺への連絡係。知っているなら話が早いと任命されたのは、試用期間を満了したころだった。唐沢が組織の実態を理解した時期とも一致する。
「あなたの判断にお任せします、とだけ」
「
「いいえ。ちょうどここの珈琲を飲みたいと思っていたところなので」
それは嬉しいことを言ってくれる、と老紳士は上機嫌に笑い、淹れたての珈琲を給仕する。さっそくカップを持ち上げれば「ああ、ミルクを」と皺の刻まれた手がピッチャーを置いた。珍しい、と思う。唐沢の記憶にある限り、彼が珈琲と一緒にミルクを出したのはただ一度。初めてなまえとこの店を訪れたときだけだった。
「お土産もありがとう。あとで孫と食べるとするよ、あの子もチョコレートは好きだから」
「ああ、いえ……美味しいと評判らしいので、ぜひ」
「しかし、本当に渡したい相手に贈らなくてよかったのかな?」
何気なく付け足された一言に手元が狂って、ミルクピッチャーの中身が勢いよく珈琲へ降りかかる。カップを飛び出てソーサーにまで滴った白い雫を、老紳士は楽しげに見つめた。
「プレゼントの横流しはよくないよ」
木苺のジャム、ガラス細工の器、古い時代の画集、隕石のかけら、春色のストール、有名店のショコラ。唐沢がこの店に持ってきた手土産のほとんどは、元はなまえを思いながら手に取ったものだった。会う気もないのに買ってしまうのは、自分のことながら理解できない。
「……すみません」
ミルクがたっぷりと入ってしまった珈琲をスプーンでかきまぜながら、素直に謝罪を口にした。カップに満ちた黒は濁り、濃褐色へと移ろう。組織に身を置いた先達ということもあって、この老紳士は食えないところがある。まともに立ち向かおうというのが間違いだ。
心をなだめるようにカップへ口付け、ひとくちを飲み込む。――懐かしい味がした。あのときの珈琲だ、と、なぜだかわかる。こくりと飲んで黙った唐沢に、老紳士は黒々とした瞳を三日月のように細めた。
「珈琲の澄んだ黒は美しいが、ミルクが入っていても悪くない。そうは思いませんか?」
大らかで深い声が問いかける。すぐに頷くことはできなかった。組織の人間が纏う喪服のような黒いスーツの意味を、唐沢はもう知っている。この手が既に薄汚れ始めていることも。
「……いえ、個人的には珈琲とミルクは別々がいいですね」
にこりと笑えば、老紳士はこれ見よがしに悲しげな顔をつくってみせる。芝居がかってはいたが、彼が唐沢を――唐沢と幼馴染みを案じてくれていることは、わかった。
「お天道様の下だって君なら歩けるだろうに」
グラスを磨きながら溜息混じりに呟く。いいえ、と首を振った。それでは駄目なのだと。なまえを傷つけないためには自制が必要だった。そのために、危険と隣り合わせの仕事は丁度いい。巻き込みたくないという正しい感情が、勝手になまえとの距離をつくってくれるから。
彼女が彼女として生きていてくれるのなら、唐沢はそれだけでいい。傍にいられなくても構わない。そういうことにすると決めたのだ。六等星のようなかすかな瞬きを守るためなら、星の光の届かないくらやみの底に沈むことだってできた。
ことりとカップを置くと同時に、携帯端末がメッセージを受信する。プライベートに使っている方で、表示された名前に指先が痺れた。中身は見ない。そうやって少しずつ、すこしずつ、距離を開けていく。熱を沈めて、衝動は他で発散して、何でもない顔で笑う。唐沢ならできるはずだった。なまえよりもずっと器用で、嘘つきだから。
さようならを言わなかったのは――ずるかったかもしれないけれど。
黙り込んだ唐沢を見つめて、老紳士は「どうあれ、後悔は必ず訪れるものだよ」とだけ囁いた。