ボーダー本部基地の片隅に設えられた喫煙室で、紫煙と呼吸を繰り返す。不意に脳裏を掠めた記憶に独り言ち、唐沢は小さく笑みを浮かべた。ちっぽけな一本は何もかもを忘れさせるほどの力はないが、ほんのひとときだけ瞼を伏せる理由にはなる。寿命を縮めるだけと知りながらも手放せないのはそのせいだ。
春が近付くと喫煙量が増える自覚はあった。通常業務に加えて決算や予算案などに時間を食われ、今年はさらに第二次大規模侵攻の後始末もあり、ボーダーの裏方は上も下も大騒ぎだ。仕事のせいだけではないことも、わかっている。彼女の命日が近い。
時おり、彼女を夢に見た。過ぎ去った日々のかけらを再生するように、ふたりで矢番海岸行きの列車に乗ったり、甘すぎるブラウニーを食べたりする夢だ。そして彼女がひとりで死んでいく夢も。
どうやって幼馴染みがその命を終えたかなんてわからないくせに。あるいは、わからないからこそ。夢の彼女は瓦礫に埋もれ、トリオン兵に食まれ、貫かれる。あるいは不気味な人影があの生白い首を手折る。彼女は唐沢のほうをじっと見て、恨むような眼差しを向けた。そこでいつも夢だと気付くのだ。彼女がそんな目を自分に向けるはずがないとわかっているから。薄紅色の爪先をやさしく握りしめると彼女はおだやかに微笑んで瞼を下ろす。彼女の最期を看取ることも遺体に縋ることもできなかった後悔を、そっとすくい上げるように。深層心理が表れた夢の目覚めはよくないが、この夢を見なくなる日こそ恐れている。
唐沢は今年も、無意味と知りながら空っぽの墓標へ祈りを捧げにいくのだろう。どれだけ忙しくても、その喪失を忘れないために。
灰皿に白んだ灰を落とし、再び唇に咥える。ゆるやかに息を吸い、吐き出す。腕時計の文字盤は静かに時を刻んでいた。日付が変わるまでもう幾ばくもない。
「おっと……お疲れさまです、唐沢さん」
喫煙室の扉が開き、低い声が紫煙を揺らす。入ってきたのは林藤だった。くたびれたように着崩された制服に視線の先を隠す眼鏡。立ち振る舞いは飄々としているが、だからこそ気が抜けない相手の一人だった。
「お疲れさまです。林藤支部長」
ほとんど反射で応えながら端に寄って空間をつくった。スポンサーを招くこともある会議室や観戦室ならいざ知らず、休憩に使うような喫煙室は狭い。未成年の目につかないようにと配慮され、基地の隙間にひっそりと点在している。
「珍しいな、唐沢さんがこっちにいるの」
重めの煙草に火をつけながら林藤が言う。エンジニアが集う開発室に最も近い喫煙室は、唐沢の本拠である営業部からは距離がある。それを言うなら玉狛支部を預かる彼がこの時間に本部にいることだって珍しいが、つつくだけ無粋だろう。林藤を引き留められる人間はそういない。
「開発室からの資料待ちなんですよ。明日の朝一に地方で商談、リミットは三時」
「ありゃ、それはそれは……珍しくカツカツじゃあないですか」
「まあ期末なので仕方ない部分も――半分は身から出た錆ですが」
レンズに隠された眼差しがほんの一瞬だけ尖った。界境防衛機関ボーダーは近界への遠征を予定している、というニュースが世間を騒がせてから一ヶ月が経つ。僅かにひりついた空気は林藤が吐き出した煙に覆われて、瞬く間に霧散していく。
「例の会見の影響、落ち着いてきてるかと思ったんですけどね。お茶の間の皆さんは特に」
「だからこそ目新しい餌をちらつかせておかないと、というわけで」
「なるほど、道理だ……今更だけど、あれ、根付さんにこっぴどく怒られませんでした?」
「落とし前はつけておきましたよ」
詳細は知らないままがよさそうだ、と林藤は鷹揚に笑う。林藤も同席した第二次大規模侵攻の記者会見に、彼が統括する支部の隊員を連れて行ったのは唐沢の独断だ。上層部には謝罪を済ませてあるが、広報は根付の担当。他人の庭に土足で踏み入った非礼は別で補わなければならない。
「林藤支部長も、何かお困りごとがあれば」
「あ、じゃあ喫煙所もうすこし広くなりませんかね」
「ハハッ……それはいい。検討しますよ」
「健やかに闘うの方で?」
「ええ」
「どうも。そういや、ヒュースのデビューは見にきます?」
尖った灰を灰皿に落とし林藤が問う。先の第二次大規模侵攻での捕虜がボーダーに入隊する日がくるなど誰が思っただろう。昼間の会議を思い出して笑みが落ちる。一人だけ見越していたはずの青年はいるが、それを確約された未来へと動かしたのは別の少年だった。
「明後日の入隊式ですか」
「まあ結果はわかってるんでランク戦まで待った方が面白いでしょうが」
「いえいえ、行きますよ。背広組で仲良く見守ります」
「なかよく」
くっ、と喉を鳴らすように笑う。初対面のときから、林藤はよく笑った。気安く、けれど気を許しているわけではない。互いの立ち位置を抜きにしてもやりにくい相手だった。同属嫌悪とまで言うつもりはないが、似ている部分はあるのだろう。
「監視していた、という予防線を張りに行くだけです。事が起こるとは考えていませんよ」
「ヒュースがC級を盾に、なんてことも?」
「ないでしょう。入隊式で彼の口から正体が暴露されればボーダーは終わりですが……それでは彼の目的が果たされない」
「意趣返しにしては旨味がない、と」
「それに、彼一人程度ならどうとでもなる。そうでしょう?」
交渉が決裂すればあとに残るのは暴力だ。その点において不安がなかったというのも大きい。思い描いたのはまばゆいほどの青色だった。少年のころよりは大きくなった、けれどまだ子どもの背中で人々の命と未来を背負った青年。捕虜を捕えたのは彼だ。それも擦り傷程度の軽傷で完封する、内外に実力差を知らしめるかたちで。
林藤が「まあね」と頷いたのを見ながら肺に紫煙を入れた。空白を満たそうとするそれは呼吸とともに呆気なく消えていく。
「まあ、彼の行動理念が忠義……情にあるなら、それで縛ったほうが有効かもしれませんが」
レンズ越しの視線が交わる。林藤は「確かに」とだけ頷いた。この会話はこれで終わりだ。
「……ちなみに、私がいる時間にあの会見を開いたのは林藤支部長の案ですか?」
「票数が欲しかったもんで。修が用意してた策があれじゃなかったらいない隙をついてた」
「賢明な判断です」
「どうも。いやホント、真面目な話で、礼は言っとかないとと思ってね。我々の利得を示せ、とか援護射撃も助かったし」
「当然のことを言ったまでですよ」
「タイミングが完璧だったじゃないですか。うまく水を向けさせてくれた」
助かったなぁと屈託なく笑った林藤に小さく笑んで応える。記者会見についてはあれで帳消しだった、ということだろう。
「唐沢さんが修を買ってるのは、遊真から聞いてはいたんですけどね」
「貴重な資質を持っていると思っていますよ。……私は彼の絶対的な味方ではありませんが――」
三雲修という少年を見つけたとき、自分の胸に去来した感情を言葉にするのは難しかった。ただ漠然と、ヒーローがいる、と思った。
彼は唐沢が思った通りの馬鹿正直なヒーローだったが、失敗も間違いもする。正々堂々としているくせに、交渉も脅しも使える。いや、その道を進むためならどんなものも使う覚悟がある。そのせいで、組織に波風を立てる身勝手な少年という一面も強い。
個人的に評価はしているが、現時点ではさほど重要な駒ではないだろう。近界民の入隊にトリオンタンクと成り得る少女の入隊、第二次大規模侵攻での戦果、近界遠征のニュース。三雲修が与えた影響は数あるが、それが欠けてもボーダーという巨大な組織は成り立つ。そのために唐沢をはじめとする大人がいるのだという自負もある。
大人が築いたルールがなくとも理不尽な世界を前に、少年の力は乏しい。けれど、無力を知りながら逃げない愚直なヒーローが――彼が進む道の先に見えた光が、どうしようもなく眩しかったから。
「――期待はしています」
その期待が何を求めているのかさえも紫煙のように曖昧だけれど。
「……唐沢さん、意外に熱いとこあるよなぁ」
「ラグビーをやっていたもので」
「なるほど?」
煙草を吸い終わるのは林藤の方が早かった。灰皿に煙草を擦りつけ「ラグビーは詳しくないけど」と呟く。
「自分より若いやつを応援したくなる感覚はわかるな。これが歳を取ったってことなのか」
「そうかもしれませんね」
頷きながら考える。三雲修は、唐沢にとってヒーローと呼ぶに相応しい人間だ。そう思えば思うほど、自分はそうではないという自覚が強まる。
唐沢はヒーローになれなかった。大衆のためのヒーローにも、たったひとりのためのヒーローにも、なれなかったのだ。その対極、冷徹で狡猾な、利害で動き人の生死や情すら手のひらで転がせるもの。いつかのくらやみに潜んでいた怪物は、今の唐沢によく似ているだろう。
それは余人には得難い強さであり、そういう自分を嫌ってはいないけれど――彼女を救えるヒーローであればと、思ったことはある。彼女を救えたヒーローのかたちを、考えたことは。
「まあ……未来を託すにはあっちもこっちも若すぎますが」
「……そりゃそうだ」
にやりと唇の端を釣り上げた林藤が「じゃ、そろそろ帰りますわ。あんまり遅くなると小南にどやされるんで」と扉に手をかける。しかし開ける寸前に振り向いて「余計なお世話ってやつかもしれませんが」と珍しく表情を歪めた。
「唐沢さん、眠れてます?」
隈、と林藤が自分の眼鏡を指差す。唐沢は肩を竦めて「元からこういう顔付きですよ」と応えた。
「まさか。鬼怒田さんじゃあるまいし……唐沢さんに倒れられると潰れるんでね、ボーダー。わかっててくださいよ」
「わかってますよ」
「あ、でも喫煙室の件は頼みましたよ。コッソリとね」
「健闘します」
去っていく背中に笑みを返す。唐沢は短くなった煙草を灰皿に捨て、もう一本を咥える。夜はまだ長く、やるべきことも残っている。ライターから煙草へ移る火を眺めながら、ふっと閃いた。
「真っ直ぐ背筋が伸びてるところか、三雲くんの既視感は」
肩入れする理由はそれだけではないけれど、何の影響も与えなかったわけではないだろう。しゃんと伸びた背筋に、賢明さを感じさせる瞳。目を惹く華やかさがあるわけでもないのに見過ごせないようなところ。自分のやりたいこと、やるべきだと感じることに正直なところ。似ているといえば似ているのかもしれないが、逆に言えばそれ以外は違う。彼女は彼女で、少年は少年だ。戯れに彼女と少年を重ねてみて、詳細に覚えているのはむしろ彼女の方だということに気付いた。
やっぱり、煙草には何もかも忘れさせる力なんてありはしない。ひとつ吸い終わるたび――彼女に近付くだけだ。こんなことを考えていたら怒るだろうな、と思う。彼女がここにいたら、眉を顰めて『何本目ですか』とちくりと唐沢を刺して、それから『どうぞ』とあの甘いみぞれ玉を差し出してくるに違いない。
煙を吐き出しながら笑みを浮かべる。笑みを、浮かべることができた。誰に取り繕う必要もないのに。彼女がこの世界から欠けて五年が経とうとしている。彼女がいない春がまたやってくる。彼女がいない春に、慣れていく。
ひとりで生きていけることは、相変わらず、少しだけさみしい。
けれどやっぱり『少しだけ』だ。それだけなのだ。
彼女を欠いた世界は恙無く回る。変わらないものはなく、永遠もまたどこにもないのだとわかっていた。形あるものは砕け、命あるものは潰える。時はすべてを包み、彼方へと置き去ろうとする。疵さえも、痕にはなれど痛みが続くことは叶わないことを知った。唐沢がひとりで生きられる人間である限り。
だとしても――きみがいた春は、確かにあった。
きみを欠いた薄青い空白は、他のなにものにも埋められはしない。
「……青臭い考えかもしれないが」
静かな声で囁く。辛うじて残る若さがそう信じたいだけかもしれない。けれど、天に瞬く六等星のような彼女が唐沢の隣にいたのは本当のことだから。
ずっとふたりでいられる距離をさがしてきた。互いにどれだけ変わっても、寄せては返す波のようにやさしく距離をはかり生きてきた。失敗も後悔もあり、けれど甘やかにとろけるような幸福もあった。それがもうしばらく続くだけの話だ。彼女はもうどこにもいないけれど、星の光を見失ってはいない。かすかに瞬く六等星も、唐沢のいるくらやみでは得難い導になる。
唇に彼女の名をのせる。星に名前をつけるように呼んだ。すきだ、と告げる。きみがすきだ。涙は零れず、刺すような痛みもない。伸びた灰からじわりと熱が滲みて、指先と呼吸だけを焦がす。唐沢は薄青い空白に紫煙を満たし、その苦さに小さく顔をゆがめた。
きみを欠いた世界が恙無く回るとしても。