ひとつふたつと数えられる程度の星々は、黒い紙に錐で穿たれた穴のようにちいさな瞬きだった。ふう、と吐き出した呼吸は白むこともなく夜へとけ、ホットミルクから立ち上る蒸気もやはり風に拐かされていく。空に月はなく、遊真の白い髪だけがちかちかと光を反射していた。いつもとなりに控えるレプリカも席を外し、かすかな星灯りのもとには遊真ひとりだけがある。
かつては河川の調査を行う施設だったという玉狛支部は、川の真ん中に建っている。夏は涼しい風がとおるのよ、と小南は言ったが、それも冬はからだの芯まで浸みるような凍て風だ。遊真には関係のないことだけれど。ちいさな手のなかでみるみる熱を失っていくマグカップだけが、この夜の冷たさを教えてくれる。
――ユーマ。
川のせせらぎにまぎれて、彼女の声がきこえたような気がした。しとしと降る雨のような淑やかな声、ひゅるりと頬を撫でる風のようにつめたかったてのひら、おだやかな心音、サヨウナラを告げたひと。かつん、とマグカップに黒い指輪がふれて音をたてる。
空閑有吾は死んだ。彼が生き返ることはなく、彼女がほんとうに会いたいひとは、だから、もうどこにもいない。きっと彼女はそんなことわかっていたし、遊真もあたまのどこかでわかっていた。わかっていたのだ。それでも旅に出た。別れを告げた。
あの城塞の最奥で、百年残る羊皮紙に囲まれながら、このからだが朽ちるまでやさしい彼女のそばにいることだってできたのに――それでも、もう一度、彼女に彼を会わせたいと思ったから。
「……まあでも、おもしろい話はできそうか」
彼女は言った。旅の話をきかせてくださいね、と。いつかまた会えたなら、あなたの言葉で教えてくださいと。もう一度、彼女に会えるだろうか。旅の話を語ることができるだろうか。できる、と信じられるほど、遊真はこどもではない。世界は多大なる犠牲のもとに仮初の平穏をつくり、壊し、それを繰り返す。永遠なんてどこにもない。ひとのからだは朽ちるもので、記憶は失われるものだ。瞳に灼きつけたはずの景色は輪郭を失い、彼女の声は川のせせらぎにまぎれている。
けれど、彼女に染みついたインクのにおいと、てのひらの熱をまだ憶えていた。
――まずはオサムのことからだな。
瞼を閉じる。遊真は眠らない。夢も見ない。だから、夜と瞼の裏に描いたおぼろげな彼女へ、こころのなかで語りかけた。