「……あいつが悪いんだ」
呟いた彼の手にはペティナイフが握られていた。林檎の皮を剥くために買ったものだ。彼の――赤い海に斃れた彼の、誕生日に。みんなで買ったホールケーキを切り分けたナイフだった。
「あいつが悪い、悪い悪い悪いわるいわるいわるいわるいわるい……」
呟く少年、泣き噦る少女、広がる血溜まり。
なにか途方もない怪物がいてくれたらいいのにと思った。人間にはどうしようもない、なにかが、この世すべての罪を負ってくれたらいいのに、と。
◇
「こういうのを、痴情のもつれと言います」
静かな声がそう紡ぐと同時、白い指先が硬い土に深々と爪痕を残した。痴情。彼女の言葉をなぞりながら、その隣に添えられた相関図を見る。
「ふむ……まあ、たまにある話だな」
分隊内にこっそりと交際しているふたりがいた。同じく分隊に所属する男はそうとは知らず恋心を募らせ、女は移り気に応えた。けれど一日の大半をともに過ごす彼らが互いの関係に気づかないはずがない。そして抑圧された感情は暴力として発露した。
起こるべくして起こったことだ、と思った。もっとも、それを語るくちびるからは絶え間なく嘘がこぼれていたけれど。
「よくウワサが広まらなかったな」
「速やかに対処されたからね。把握しているのは上層部と、ほんの一握りの隊員だけ」
あらふね先輩は、と訊ねると小さな肯定が返された。荒船先輩は面倒見がいいから、と付け足された言葉には遊真も同意する。彼の言葉と態度はだれに対してもいつも明瞭で、それはおそらく相手をよく見ているからできることだ。
「本人たちは?」
「……罪を明らかにして更生を促すべき、という意見もあったけど――なにもなかった、ということになったよ」
華奢な手が地面に彫られた文字をそっと撫でる。輪郭がすこしだけ欠けたけれど、彼女はそれを消すことはしなかった。その指先は過去を愛おしむようにも、あるいは憐れむようにも見える。
「彼らは……ぜんぶ忘れて、どこかの街でそれぞれ暮らしてるんじゃないかな」
そしてボーダーには彼女だけが残った、というわけだ。そのくちびるから語られた経緯を鵜呑みにすれば、彼女は部隊内にいながら部外者であり、また被害者とも言える。
「ボーダーは隠ぺいがとくいですな」
「返す言葉もございません」
「まあ、バレたらすきゃんだるになるし、妥当なとこか」
どこの国も心配事は似ているものだ、と頷く。彼女は「そうだね」と呟き、足元まで這い寄るひかりから逃れるように身を縮めた。
「…………幻滅した?」
「ゲンメツ」
すっかり土に汚れた人差し指が、飽きもせず文字を書いた。幻が滅びる。
「空閑くんは、わたしにがっかりした? って、意味」
「なんで?」
「えっ……と、その。なんでと言われるとむずかしいな」
ううん、と悩ましげな声があがる。彼女は手慰むように自らが刻んだ文字をなぞり、暗闇に白い吐息をこぼす。指先が、ぴん、と小石を弾いた。囀りのようなかすかな音が鳴り、小石が冷たいコンクリートに当たったことを知らせる。
もしも遊真がボーダーに正義を求めて入隊していたら、傷害事件をなかったことにしたボーダーに不信感を抱き、幻滅もしたかもしれない。けれど遊真はそうではないし、組織が面子を保つ重要性も理解している。たとえ遊真が善良な市民だったとしても、巻き込まれた被害者にがっかりするというのは不思議な話である。
遊真が首を傾げていると、堰くような呼吸を二、三こぼして、ようやく彼女が口をひらいた。
「……おまえは、なにもしなかったのか、とか。思わなかった?」
黒い煙がたゆたう言葉に、遊真は相関図へと目を向けた。だれともつながっていない、ぽつりと浮いた丸。痴情のもつれにも刃傷沙汰にも関わらなかったひと。同じ部隊に所属していたのに、部外者だった。
「なにかできたなら、やっとけばよかったが」
言いながら、はたして彼女は本当に『なにもしなかった』のだろうかとも考える。
本当は恋に陥った男も女もいなくて、刃傷沙汰だって起きていないかもしれない。あるいは――彼女こそが、男たちを狂わせた女だとしても。遊真には、すべて等しく夜のような
「手を出して共倒れになるくらいなら、ほうっておくのが賢明だと思うぞ。他人に手を貸していいのは余裕があるやつだけだ」
それでも。嘘か本当か、わからなくても。
どうやら遊真に幻滅されたくないらしい彼女に伝える言葉はひとつだ。
「それぐらいのことでゲンメツはしない」
「……そ、っか」
ほう、と彼女が息をつく。強張っていた肩から力が抜け、皮膚までもくたりとやわらかくなったようだった。その呼吸が白いままであることに気づいたが、貌の夜は晴れてはいない。なんとなく面白くなくて、つい口を開く。
「センパイがおれにゲンメツしてほしいなら、してもいいけど」
「……してみて?」
くちびるにおだやかな笑みをのせ、彼女が言った。白い吐息がするりと耳朶を撫でていく。いじのわるいことを言った自覚があったけれど、それをやわらかく返されて、どうしてかさっきよりも落ち着かない。
「……ふむ。センパイにはガッカリです」
「あ、きずつく」
彼女はちっとも傷ついてなさそうに心臓のあたりを抑えてみせる。やわらかそうな白いセーターは手のかたちにへこみ、乾いた土がはらはらと落ちた。整った爪の先には土が入りこみ黒々としている。その端正な容貌とは不釣り合いに、彼女は無頓着なところがあった。
「まあ、事情はわかった。おしえてくれてありがとうございます」
「どういたしまして。ほかのひとには秘密ね」
「りょうかい」
迅の真似をして敬礼すると、彼女もちいさくほほ笑む。
「とまあ、あんまりいい終わり方をしなかったから……だから、部隊というものに、ちょっと消極的になってる。それが、質問の答え」
「なるほど」
「もう必要もないしね」
と、彼女は遊真にもたれた。やはりささやかな重みで、どこか心許ない。慣れたはずの香りがいちだん強く薫り、温い感覚がそわそわと肌を撫でていく。
「必要ない?」
「……そもそも隊を組んだのは、作戦室がほしかったからなんだ」
淑やかな声がすこしだけ沈んでいた。遊真は注意深くその貌を窺ったが、彼女がどんな気持ちでいるのかはわからない。
「ボーダーに部屋があったらいいなと思って」
コンクリートが孕む冷たい暗闇に、その夢みるような囁きはよく響いた。それはなんでか、遊真が向こうの世界で見かけたちいさな子どもの姿によく似ていた。戦争が終わったらおなかいっぱいごはんがたべたいと呟いた少女に。
「本部も住めるんじゃないのか? 迅さんとかレイジさんみたいに」
「あれには同意書がいるから」
短く言ってから、彼女のくちびるが笑みをかたちづくる。もうこれ以上のことを語るつもりはないのだと、言われずとも悟った。同意書。遊真はそんなもの書いたおぼえがなかったが、林藤あたりが融通してくれたのだろうか。そもそも誰の同意が必要なのか、と考えれば、行き着く答えはひとつだ。
「そんなわけで、今はここがわたしの作戦室です」
彼女は、つとめて明るい声で言った。遊真の頭に浮かんだ答えを掻き消すように。
ふたりで肩を寄せ合い、ただそれだけで満ちてしまう、狭いシェルター。これでじゅうぶんだ、と彼女は言っていた。長い夜を越えるための居場所は、こんな土っぽくて、暗くって、つめたいところでいいのだと。
――センパイは、いったいなにから逃げて、だれに怯えて、こんなところにいるのか。
確かめるべきなのだろう。彼女の顔を見たいと思うのなら。明けることのない夜を暴くひかりになるには、子どもが蝶の翅を捥ぐように無遠慮にならなければならない。傷つけることを躊躇っていては進まない。傷つけたくはなくても。
「……ほう。前に散歩と言ってたのはウソだった、と」
どうするか悩み、遊真は言葉を選んで返した。
すべてをつまびらかにすることはできずとも、彼女の嘘に気づいていることを知ってほしかった。もう遊真はわかっているから、だいじょうぶだから、嘘なんてつかなくていいのだと思ってほしかった。
「そう、嘘でした」
残響がかすかに鼓膜を震わせている。
誤魔化すでもなく告白する言葉を遅れて理解して、ぱちりと目を瞬かせた。それは確かにいま遊真が望んだ言葉なのに――違う。彼女はほほ笑みを湛えたまま、遊真の顔を覗きこむ。黒いベールがゆらめき、淡く透けた瞳が見えた。
「わたし、うそつきなの」
そう白状したくちびるから黒い煙がおちる。彼女の言葉のすべては嘘であると、遊真の目は告げている。たとえ、彼女が正直な言葉を紡いだとしても。
「そうなのか」
空っぽのはずの胸が痛む理由がわからなかった。遊真がそれだけ言って頷くと、彼女は「そうなのです」と笑った。