ウィークエンド

 レモンの表皮をしょりしょりと削るたび、甘酸っぱい香りがあふれていく。キッチンの小窓が切り取った空は熟した果実の色をしていた。指先についた黄色いかけらを落としつつ、夕闇をしばし眺める。春の空はなんだかやさしい気配が漂っているから好きだ。東に滲むような青を見つけて、笑みがこぼれる。青色がすこし特別になったのはここ数年のことだった。
 今頃はたくさんの人に祝福されているだろう迅くんのことを考える。このよき日にまたひとつ歳を重ねた恋人は、少し前に「昼間と夜とどっちがいい?」と私に訊いてきた。本人が言うところの『ボーダーの実力派エリート』である迅くんは、その肩書きに見合って忙しく、そして本人が思うよりも人気者だ。彼の家族に等しい玉狛支部の方々はもちろん、いろんな人たちが彼の誕生日を祝いたいだろう。そんな気を遣わなくていいのにと口にしながらも、彼がその思いを汲んで当日の予定を組み立てようとしているのはすぐに想像がついた。気遣い屋さんなのだ。私はすこし悩んでから「真夜中と翌朝がいいです」と答え、迅くんはちょっとだけ驚いたようにしたあと「じゃあ土曜日はまるまる休みにする」と笑った。
 そんなわけで私はウィークエンドを焼いている。カトルカールとも、レモンのパウンドケーキとも呼ばれる、誕生日にはいささか質素なケーキだ。ついでに季節も先取りしすぎている。
 でも、これなら他のひとたちが用意するケーキとは被らないだろうし、爽やかな甘みはごちそうでいっぱいになった一日の終わりにも優しいはずである。今日食べられなかったとしても、明日食べてもおいしいのだから完璧だ。
「……と、張り切りすぎたのがよくなかったのかな」
 計量した材料たちの横に慎ましく鎮座するウィークエンドを見る。今日、つくったものだ。哀愁を誘うほどぺしゃんこに焼き上がったそれをオーブンから取り出したとき、冗談ではなくすこし泣いた。材料を余分に買っておいてよかったと思う。
 指先をきれいにして、ボウルに入ったバターにふれる。しっかりと室温に戻ったバターがくにゅんとへこむのを確かめてから、ハンドミキサーを手に取った。思うに、最初のバターの段階で躓いていたのだ。ここできちんとポマード状にして、グラニュー糖をていねいに擦り混ぜて、卵と分離しないように少しずつ泡立てる。振るっておいた小麦粉とベーキングパウダーをいれてさっくりと混ぜ、レモンの表皮と果汁、細かく刻んだレモンピールをいれる。手順をしっかりとイメージし、作業にとりかかった。

 鍵の回る音を内側から聞くのは、いつまでたっても不思議な心地になる。今から向かうというメッセージを受け取ってからしばらく、玄関で彼を待ち構えていると、扉の向こうに人が立った。合鍵を渡しているのだからわざわざ出迎える必要はないのだけれど、ゆっくりと回る鍵を見ているとたまらなくうれしくなるのだ。
「こんばんは、あなたの実力派エリートが祝われにきました」
 迅くんが、扉を開けるなりご機嫌な声で言う。私のではなくて、ボーダーの、でしょうと間違いを指摘するのは無粋だろう。笑みを浮かべた頬はほんのりと赤く、熱を灯していた。夜風になびくチャコールグレーのコートがよく似合っている。
「こんばんは、お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
 よかった。ちゃんと日付が変わる前に伝えられた。彼が遅刻するとも思っていなかったけれど、予期せぬ事態が起こらなかったのは喜ばしい。
 赤い頬に指を滑らせる。迅くんは「つめたい」と言いながらも猫のように私の手のひらに擦り寄った。たぶん、すこし酔っている。じんわりと移っていく熱を楽しんでいると「ねえ」と迅くんが私の手首をやさしく掴んだ。
「ケーキひとつ分くらいなら食べる余裕あるよ」
 なにもかもお見通しなことにびっくりして、まばたきが落ちる。迅くんはすん、と鼻を鳴らしてみせた。どうやら玄関までウィークエンドのあまい香りが漂っていたらしい。
「居場所をつくっておいてくれてありがとう」
 頬を撫でた手をするりと離し、引き締まったおなかをやさしく小突く。迅くんはやっぱり酔っているのか、それとも浮かれているのか、いつもよりずっとくすぐったそうに身をよじって笑った。
 部屋に迎え入れ「なにを飲む?」と訊ねる。水を所望されるかと思いきや、迅くんは「珈琲がいい」と返した。ふむ。
 ひと呼吸おいてから、お湯を沸かしノンカフェインの豆を取る。ざらざらとコーヒーミルに移していると「夜更かしのお誘いだったんだけど」とコートを脱いだ迅くんが隣に立った。
「あしたは早起きしたいので」
「デートするから? でも、たぶん雨になるよ。土砂降り……残念だけど」
「予報では小雨じゃなかった?」
「おれのほうが当たるの知ってるでしょ」
 たしかに。迅くんはときどき予言めいたこと言って、それが外れたことは殆どない。そういうところも含めて実力派エリートであるらしい。
「……カフェインに頼らない程度なら」
「了解」
 迅くんが豆を挽く作業を変わってくれたので、私はウィークエンドを切り分けることにした。ふっくらと膨らんだ生地は砂糖でできたグラスアローをまとって、その頂上に一列に並んだレモンピールが照明をうけて透きとおる。二回目に焼いたほうは、過去最高の仕上がりだった。一回目のほうは戸棚の奥に隠してある。
 ナイフをあてがえばシャリっと音を立てて糖衣が割れて、きめ細やかな生地が顔を出す。断面は見るからにふんわり、しっとり。たちまちレモンの香りが強くなった。
「はやくたべたい」
 豆を挽き終えた迅くんが囁く。その声がいちだんと低くあまく響いたので思わずじりりと半歩遠ざかると、隣からくつくつと笑い声が聞こえた。
 ミルクをたっぷり入れたカフェオレを、ダイニングテーブルではなくソファーの前の低いテーブルに運ぶ。ウィークエンドとともに先に移動していた迅くんが、マグカップをひとつ引き取ってくれた。彼の隣に腰を下ろす。ふたり並んで座っても十分な大きさなのに、なぜか端っこに隙間ができるこのソファーのことが好きだった。
 フォークでひとくちサイズに切り分けたウィークエンドをかじる。爽やかなレモンの香りが口いっぱいに広がり、レモンピールの酸味とほのかな苦味をグラスアローのあまみがやさしくほどいていく。いい出来だ、と息をつくと、迅くんも頬をほころばせながらおいしいと言ってくれた。
 自然と紡がれる会話に身を任せることもできたけれど「今日はどんな日でした?」と問いかけてみる。彼がどんな誕生日を過ごしたのか、教えてほしい。
 リクエストに応えた迅くんが、朝からの行動を振り返る。朝は陽太郎くんにダイブされて目覚めて玉狛支部の面々に祝われたこと、昼間は本部に顔を出してたくさん祝いの言葉をもらったこと、太刀川くんと勝負して勝ったこと、同世代と飲みにいったこと、など。迅くんの話にはいくつもの名前が出てきた。ときどき知らない名前がまじることに少しさみしくなり、それなりに長く一緒にいるのにまだ私の知らない迅くんがいることに好奇心がくすぐられる。
「そうだ、誕生日プレゼントなんだけれどね、今は渡せないの」
 話し終え、カフェオレで喉を潤していた迅くんにそう切り出す。この一切れがプレゼントだと思われてはたまらない。
「今は……もしかしてデートのときに渡そうとしてた?」
「そんなところ。でも、土砂降りになるんだったらお出かけはなしにしようか。それでもプレゼントは渡せるので」
「安心した。誕生日プレゼント期待してたから」
「……プレゼントもお見通しだったりする?」
「いや、まだ見てないよ」
 その言い方に首を傾げて見せたものの、迅くんは曖昧な笑みで言葉を飲み込んでしまった。彼が私にすべてを話さないことは、今はあまり悲しくはない。どんな秘密も彼が隣にいることに比べたら小さなことだった。
「明日は家でなにか手の込んだごはんをつくりましょう。ふだんはなかなかできないようなやつ」
「鍋とか」
「それもいいけど、もうちょっと挑戦的な……失敗しそうで恐い?」
「ばれたか。前に手伝ったとき、おれのせいで黒焦げになったでしょ」
「でも、食べれました」
「死ぬほど不味かったけど」
「死んでないので大丈夫」
「うーん、たしかに」
 くすくすと笑う迅くんは、やっぱりご機嫌だった。空になった小皿を重ねて、シンクへ運ぼうとする彼の裾を引っ張る。一瞬だけ腰を浮かせた迅くんが、ふたたびソファーに沈んだ。
「なに?」
 小皿をテーブルに戻し、裾をつまんだ指先を節くれだった手が包む。そのあたたかさに眩暈がしそうになるのをこらえて、丸めた爪で彼の手のひらの、生命線のあたりをちょちょいとくすぐる。
「迅くん、ウィークエンドは焼きたてもおいしいんですが、二日くらい経ってからだともっとおいしいんですよ」
「ウィークエンド」
「いま食べたケーキの名前です」
「おもしろい名前だね」
 そうですね、と頷いておく。迅くんは二日、二日かぁ、と言葉をなぞり、かるく私にもたれた。迅くんは私と過ごすために休みをとってくれたけれど、それでも明日の夜にはボーダーへ戻らなければならない。そのことを考えているのだろう。
 これは自惚れだが、ケーキがなくても迅くんはもう少し傍にいたいと思ってくれている。やるべきことの多い彼はそれを弱音と認定していて、口には出してくれないけれど。
 体重をかけすぎないよう気遣われた重みを、えいやと押し返してその肩にもたれる。お酒を飲んだ彼の体温はいつもよりほんのりとあつく、時間も合間ってここちよい眠気が顔を出し始める。
「眠いの?」
 迅くんの声がすぐ近くからふってきて、あたたかな手が髪をそっと撫でた。まぶたが落ちていくけれど、これは閉じただけで、まだ寝ない、だいじょうぶ、寝ませんから。夜更かしの約束をしてしまったので。
「これは週末のお誘いですよ、迅くん」
 彼の言葉をすこし真似て言う。
「なんと迅くんは土曜日も日曜日もおやすみです。私も、二日ともおやすみです」
「えっ」
「林藤さんもご承認済みなのでご安心を」
 彼の上司である林藤さんにこっそりとお願いして、迅くんの休暇を一日延ばしてもらった。ちょうど代休が溜まっていたらしく、二つ返事で承認されて拍子抜けしたのは記憶に新しい。迅くんの自発的過重労働については一度きちんと話し合わなければならないと思う。誕生日にそんな説教みたいなことはしないけれど。
「仕事から離れるのんびりとした週末。こちらが私からのプレゼントとなります」
 まぶたを開けて迅くんの顔を覗き込めば、ぽかんとしていた。まさかボーダー隊員でもない私が上司にまで手を回しているとは思っていなかったらしい。私だって、迅くんのためでなければそんなことしなかった。
「……いや?」「いやじゃない」
 即答だ。赤いままの頬に指を滑らせる。やわらかなくちびるが、そっと手のひらを撫でた。
「……ありがとう。いつも、あんまりふたりの時間とれなくてごめん」
「気にしてたんですか?」
「そりゃあ気にするでしょ」
「じゃあ、これからはどうか気にしないで。……あと、正確には私じゃなくてボーダーの方々からのプレゼントかも」
 ボーダーの実力派エリートはそうそう休めないのかもしれないけれど、彼がヒーローを休んでのんびりしても、世界を二日で終わらせないぐらいの力がボーダーにはある。と、林藤さんが太鼓判を押してくれた。彼が休んだぶんの皺寄せも、そう大したことではないと。
 彼がいつもみんなの平穏を願っているのなら、みんなだって彼の安寧を祝福するということだ。
 迅くんがちいさく笑った。ゆれる瞳はちょっとだけ泣きそうにも見えたけれど、たぶん彼は私の前では泣かないだろう。誰の前でも。だからときどき泣かせたくてたまらなくなると言ったら引かれそうなので、言っていない。
「でもさ、」
 と、迅くんがその青い瞳に熱を灯して囁く。
「のんびりする週末なら、早起きはしなくていいんじゃない」
 たしかに、そういう考え方もある。同意の代わりにその頬にくちづけを落とすと、それだけでなにもかも伝わったようだった。

 日曜日、焼き損じたぺしゃんこのウィークエンド(ちゃんと隠したのにやっぱりお見通しらしく見つかってしまった)まで平らげた彼は「はなれたくない」とちいさな声で言った。それは弱音や惚気と呼ぶにはあまりに子どもじみた響きだったけれど、だから、きっと一生忘れないだろう。