9

「ごめんね」
 と、彼女はささやいた。
「心配をかけちゃったみたい」
 黒々とした塊が呼吸のたびに淡く揺れる。カーテンの隙間から差し込む細い月光は仄かに部屋を照らすが、闇を暴くほどのちからはない。
「でも大丈夫だよ。もう少ししたら、また、元どおりになるから。そしたら、デートしようね」
 白々しく明るい声が虚しく響く。虚しい、ということに。彼女は気付いているのだろうか。
「元どおりってなんだ?」
 遊真が問えば、彼女はベールの向こうのほほ笑みをすこしも崩さないまま、くちびるをとじた。白い指先はそっと枕の下から引き抜かれ、代わりに、遊真の服の裾をつまむ。彼女はその額を遊真の腰に寄せて「もとどおりは、もとどおりだよ」とささやいた。
「センパイは、なんで閉じ込められてたんだ」
 遊真の裾をつまむ指が震える。それは戸惑いでも否定でもなかったから、閉じ込められている自覚はあるんだな、と判断した。
「……ばかみたいなピタゴラスイッチがはじまらないように?」
「ぴたごらすいっち……」
「……おじが三門に帰ってくる、わたしとおじが顔を合わせる、奥さまがますます気に病まれる、耐え難く思われて、自分を傷つけるか、わたしを躾にいらっしゃる、だれかに庇われれば火に油でぜんぶ台無し。だから、そうなる前に、閉じ込められることにしたの。兄さんが鎖を持ち出してきたときは、どうしようかと思ったけど……よくよく考えたら、最善の手段だものね。これがいちばん、平和的な解決。だれも傷つかない。時間が過ぎて、おじが東京に戻れば、もとどおり」
「……よくわからんが、センパイが割りを食いすぎでは、それ」
「平和ってそういうものでしょう?」
 それを否定する言葉を遊真は持っていなかった。遊真の知る平和は、これ以上は許容できないという損害の上で成り立つものだ。だから、ここまでなら損をしてもいいという彼女の判断を、間違っているだなんて言えなかった。間違っていて欲しかったけど。
「……その危害を加えてくるオクサマとやらをどうにかしたらいいんじゃないか?」
「だめ」
「なんで? 平和ってそういうものなんだろ」
「いちばん大事なの」
 ゆっくりと、彼女が起き上がる。繭のなかから這い出るように、絡み付いた嘘が解けていく。上体を起こし、両手でシーツにしわをつくりながら、羽化したばかりの蝶がそうするように、かすかな呼吸を零す。その貌にだけうすぎぬを残し、彼女は繰り返した。
「あのひとが、いちばん大事なの。だからこれでいいの」
 何も知らない子どもがそれでも頑なに魔法を信じるような声だった。溢れた夜がベールにとけていく。くちびるだけはほほ笑んでいたけれど、どんな顔をしているのかはわからない。
「さっきの説明だと、奥さまがわるいみたいに聞こえたかもしれないけど、ぜんぜん、そんなことはないんだよ。やさしいひとだよ。この家で、いちばん、やさしくてまともで――だから……壊れてしまった、けれど、やさしいひとだったから、」
 シーツを掴む指先が震えている。くしゃくしゃに、地平が隆起するようにしわが寄る。遊真の心もそれと同じように、踏み荒らされている気分だった。腹が立っていた。
「やさしかったら何をしてもいいのか? やさしくされたら、なんでも許さなきゃいけないのか? おれはいやだよ。センパイが、こんなふうに閉じ込められてるの。センパイがそれでいいって言ってても、いやなものはいやだ」
 間違っていなくても。正しくても。そんな取捨選択を迫られる場所に彼女がいることが、嫌だ。嫌なのに、どうして彼女はそれを受け入れてしまうのだろう。
「センパイは――なんで、いつもウソをつくんだ」
 怒りを滲ませた声に、彼女の肩がゆれる。夜のなかで呼吸しながら、首を横に振る。貌を覆うベールがゆれて、惑って、淡く透ける。彼女は、遊真を見つめていた。黒いベールのむこうで、その瞳に、遊真の白い髪がぽつりと浮かんでいた。
「うそじゃないよ」
「ウソだ」
 彼女のくちびるから溢れていく黒い煙が、そうだと教えている。
「センパイが言ったんだ。自分はうそつきだって」
「……うん、」
「おれにも、センパイはうそつきに見える。はじめて会ったときから、知ってたよ。おれのサイドエフェクトはウソがわかるから」
 かすかに息を呑むような音がきこえた。ベールの向こうでわずかに見開かれたガラスのようなまなこが、遊真の赤い瞳を見つめている。じっと絡めた視線を外さないまま「センパイは、いつだってうそばっかりだったな」と、囁く。シーツに爪を立てる指先を握る。窓辺から伸びた細い月明かりが、指輪のようにひかる。
「なにが、センパイにウソをつかせるんだ?」
 彼女は弱々しい力で遊真の指を握り返した。そっとふれあうてのひらの体温は、どちらも、つめたい。
「うそ、……嘘じゃないと、だって…………やだ、から」
 透明な声が夜に落ちた。
 どこまでも透き通る月の光に似て、どこか頼りなくて、迷子の子どもみたいで、だから手を離したくなかった。そうしてしまったら、彼女は夜が朝に追いやられるように、淡くたゆたうベールとともに掻き消えてしまいそうだったから。
「……やなこと、たくさん、あるから……」
 涙が星のように落ちていく。嘘から紡がれた黒いベールが波打ち、その狭間に彼女の顔が見える。
「ぜんぶウソにしたいのか」
 どうして彼女はいつも、何を言ったって言わなくたって、いつもいつも、嘘を身に纏っていたのか。きっともう心のどこかで気付いていたそれを、噛み締めるように、言葉にした。
 遊真の目は、それを嘘と自覚していない者の言葉は嘘に見えない。裏を返せば、それが嘘だと信じる者の言葉は、すべて嘘になる。どんな真実も、黒い煙を纏って知覚される。だから、彼女はそういうふうに生きてきたのだろう。自分は嘘つきだから、何もかもがほんとうのことではないと。そう信じることでしか――生きてこれなかった。
 あらゆる言葉で。ささいな仕草にも。かさねる呼吸をつかってまで。自分を騙し続けてきた。嘘と一緒に生きてきた。
 彼女はちいさく頷いた。わずかに目元を隠すだけとなった黒いベールが、その身に染み付いた呪いを示すようにゆれていた。
「やなことばっかりだったのか」
「……わたしの、」
 白んだくちびるがゆっくりと動く。
「わたしのいちばん古い記憶はね、」
 ほんのすこしだけ、その呼吸は黒く見えた。けれど遊真はそれを告げずに「うん」と頷いて指を握るちからを強める。彼女はちいさくほほ笑んで、訥々と語り始めた。彼女を嘘つきにした、狭い世界のことを。

「わたしのいちばん古い記憶はね、お布団にきれいな女のひとが寝ていて、いぐさと線香のにおいがして、わたしのひざに、男のひとが縋りついてくるところなの。ねえさん、ねえさん、って、子どもみたいに、大人が泣きじゃくってるの。わたしは、自分のものではない服を着ていて、これぶかぶかでやだなぁって思ってた。彼に掴まれたひざが、いたいなぁって。でも声にはしなかった。だって、ねえさんはそんなこと言わないから。そんなこと言わないと、言われたから。……少しだけ開いた襖の隙間から、男の子がこっちを見ていた。彼はなにもしてくれなかった。でも、籠にはいった蝶を見るみたいな、目で、ずっとわたしを見ていた。ずっとずっと、ずうっと。わたしはそこにいたの」
「ずっと、ねえさんって呼ばれてた」
「おかあさんだったんだね、わたし。あの部屋のなかでは。あの、きれいな、女のひとの……代わりだね」
「でも、奥さまが」
「……あのひとだけが、襖をひらいて、なにをしているの、って叫んでくれた。わたしを子どもみたいに抱きあげて、あの部屋から出してくれた」
「うれしかったな」
「あのひとは、自分の夫がしたことに戸惑ってもいたけれど、わたしのことを、いつだって思いやってくれた。一緒にごはんを食べてくれて、外へ散歩に行ってくれて、眠れなければ抱きしめてくれた。やさしくて、どこか子どもっぽくて、すこし涙脆くて繊細で、でも、ふつうのおんなのひとだった。とても、たのしかったの」
「でも……わたしは……わたし、は、いつも、そう」
「そこにいるだけで、だめなの」
「最初は、鏡のまえに座って、髪を櫛で梳いてもらってるとき。彼女が、櫛を鏡に投げつけた。木の櫛だから、鏡を割れるはずもなくて、ただ跳ね返って、わたしのほほをぶった。振り返ったら、彼女は、鏡のなかをじっと見てた。泣き出しそうに、怒ってるみたいに、じいっと見てた」
「しばらくして気づいたよ。似てるの。あの日、わたしのひざにすがりついた男のひとに、わたし。母のほうが似てるんだけど、おじと姪なんだから、あたりまえだけど。あたりまえなんだけど」
「――似ているの」
「親子に、間違われだって、する」
「だれもそれを笑い飛ばしてくれなかった。神妙な顔をして黙ってた。おじは、わたしをねえさんとは呼ばなくなったけれど、たまに顔を合わせると、数日離してもらえなかった。おまえはねえさんに似ているねって、ずっと、うれしそうに笑ってた。あのひとは、無理をして笑うようになって、でも、すぐに、笑えなくなってしまって。手もつないでくれないし、抱きしめてもくれないし、顔を、見てもくれないし。それで、どんどん、だめになっちゃった。わたし、けっこう一生懸命、いいこにしてたんだけど、だめだった」
「……だいすきだったよ。いちばん大事だったよ。やさしいひとだったから。助けてくれたから。でも、そんなひとをわたし、傷つけて、壊してしまった――――産まれてきちゃった、から」
「気持ち悪いね。憎らしくて、恐ろしいね。許し難いね。つらくて、くるしいね」
「そんなもの、愛したくなんてないね」
「愛さなくていいもの――愛されなくていいものが、いいよね」

「――ごめんね、空閑くん。ぜんぶ嘘だよ」

「ぜんぶうそだよ。ぜんぶがうそならほんとうには傷つかないですむもの」
 夜を編んだ紗は風もないのになびいていたけれど、夜はもう彼女のすべてを隠しはしなかった。その頬を伝う雫も、嗚咽に苛まれる呼吸も、遊真にはよく見えていた。
「でも、痛いものは痛いだろ」
 するりと肩を滑り落ちた髪を一房とって、その一本一本を慈しむように指のはらで撫でる。涙に覆われた言葉たちは嘘まみれであることを差し引いても、聞き取りづらくて、彼女が抱えているものを十全に理解できたわけではないけれど。
「おれは、そういうの、もうないけど。ほんとうには傷ついてなくても、痛いものは、痛いんじゃないのか」
 心臓なんてどこにもない、痛覚をも遮断できるトリオンのからだで。それでも遊真の胸が、たまに、きしきし痛むみたいに。
「だってセンパイは、今でもそいつがいちばん大事なんだろ」
「……、……わかんない」
 彼女はくちびるにいびつな笑みをのせる。いつもの完璧に整えたほほ笑みに比べると、ずいぶんと不恰好に。
「いちばん大事だったものが壊れて、もう二度と元には戻らないなら、もう、なにもかも壊れてしまったらいいのに、っておもってたよ……ぜんぶ背負ってくれる罪深い怪物がいないのなら、ぜんぶ壊しちゃうしかないねって、おもってたの。よるの公園で、空閑くんとはじめて会ったとき」
 ゆっくりとまばたきを落とし、まぶたのうらにあの夜の彼女を思い浮かべる。ガラスのような眼。ベールに隠されていない素のままの肌は白く、夜を裂く銀月のようにかがやいていた。なにもかも投げ捨てた人形のように無表情で、けれど薄皮一枚向こうに灼熱のような激情を孕んでいるように見えた。風になびく髪で途切れ途切れに断絶する横顔が――きれいで、目を離せなかった。
「でも、空閑くんが。空閑くんが、やってきて。なんだか今にも壊れちゃいそうなのに、へいきな顔して立ってたから。壊れてやんないよって顔、してたから」
 つないだ指先が絡む。空いた手が恐々と伸ばされて、そっと遊真の頬を撫でた。手のひらに頬を寄せ「そんな顔してたか?」と笑ってやると、彼女も吐息をこぼすように笑う。
 傷ついて、傷ついて、痛くてくるしくて、そんな彼女だから、あの日、遊真を見つけてくれたのだろうか。
「だから……いっしょに、いてくれたから……空閑くんと、話す時間が、大事になった、から……」
 見えない傷を撫でるように彼女の指を握る。痛みを共有できたらいいのにと思う。空っぽのはずのあばらの内側がさっきからしきりに軋んでいることも。
 彼女が閉じ込められることを良しとしたのは、元どおりになったあとに、自分と会うためだと気付いた。彼女は最初からそう言っていたのだ。元どおりになったらデートしようね。そのために、その未来を守るために、その未来だけを頼りに、今はこの部屋でひとりでいることを選んだのだ。何もかも壊してしまったら、遊真との時間もなくなってしまうから。
「……いちばん大事なひとだったよ。でも、わたし、空閑くんのことが、すき……、すき、だったら、いいなぁ」
「センパイは、おれのことがすき?」
「うん、……うん。空閑くんを、すきなの、ほんとうだよって、信じられない、かな」
「ほんとだろ」
「……どうして? だってわたし、うそつきなのに」
「ふむ。まあ、いまの言葉も、嘘みたいに見えたけど――」
 彼女の貌には、相変わらず、執拗に黒い煙がまとわりついていた。それはもう瞳を隠すだけで、淡く透き通っていたけれど。遊真が見たかった彼女の顔は、今も見えない。彼女自身でも、もはやほんとうのことがわからなくて、信じられなくなっているくらいに。
 それでも。
「センパイがこれからも、それがほんとうだったらいいって、思っててくれるなら、おれはそれでいいよ」
 あの日のうつくしい彼女よりも。いま目の前で泣いているおんなのこを、大事にしたいと思うから。顔が見えなくても――彼女をすきだと思ったから。
「すきだよ、センパイ。うそつきのセンパイだから、見つけられた」
 頬に添えられた彼女の手をとり、絡めた指先を引き寄せ、白んだくちびるに口づけをおとす。やわらかくて、つめたくて、塩のあじが、すこしだけした。熱を分け与えてあたためてやれないのが、やっぱりすこし、さみしかった。
「……え、」
 と、彼女が惚けた声をこぼす。そっとくちびるを離し、その顔を見た。淡く色づいたくちびるは熟れるように潤み、頬にはどこからか集った熱がともっている。長い睫毛はなんどもなんどもしばたいて、月明かりに影をつくる。瞳に、遊真がうつっている。
「――なんだ。センパイ、かわいいかおしてるな」
 ちいさく笑いながら、遊真は彼女の顔をもういちど引き寄せた。その呼吸を――彼女を蝕み、守りつづけた、嘘を奪うように。