「ヴィザさま」
星夜に響いたのはおのれを呼ぶ声だった。ヴィザは星々を見上げた視線をおろし、やや離れた場所に佇むひとを見やる。庭とも言えない、邸からすこし歩いた草原を夜の風がはしった。ヴィザの外套と彼女のエプロンドレスがはためく。
彼女はヴィザの邸に仕える薬師だった。まだ若いが技量はじゅうぶんにある。使用人の数がすくない邸だから、料理人も兼ねていた。彼女のつくる薬膳は老いた臓腑にも優しく、さりとて滋養に満ち、ヴィザが戦いを続ける一助にもなっている。
「そろそろ戸締りの時間です。どうかお帰りに」
夕食を終えたあとの散歩は毎日の習慣だった。たびたび帰りが遅くなり、そしてそんなときに呼びにくるのは決まって彼女だ。
「もうそんな時間でしたか」
お決まりの言葉を返して、ヴィザは彼女のほうへ歩みを進めた。彼女が持つランタンが煌々とひかり、ヴィザが踏み固めたために道のようになりつつある線を示す。慣れた歩みだからヴィザには星の灯りさえあればよかったけれど、彼女はまだそれを手放せない。
「ずいぶんと遠くまで星が見えたもので、つい時間を忘れてしまいました」
ヴィザが言うと、隣に並んで道を照らしていた彼女も、つい、と天蓋を見上げた。
「そう、ですね。今宵は空気も澄んで、ほんとうに遠くまで」
「あなたの故郷も、見えるだろうかと」
「……どうでしょう」
神の国アフトクラトル。軍事国家の名をほしいままにする常勝の国の、戦利品のひとつがこの薬師だった。星の海のはてにありながら、医療の知識と技術に優れた国。彼の国は、トリガー角の実験に行き詰まっていたアフトクラトルにとって格別の意味を持っていた。
「帰りたいと思いますか」
言葉がこぼれでた。星の輝きが地に落ちるように。
彼女の故郷はもはや荒地があるのみ。そうしたのはヴィザだった。祖国を守らんとする兵を斬り捨て、民を背に隠した王を斬り捨て、子を庇う親を斬り捨て。アフトクラトルから遠く離れたその国を物にするには滅ぼして奪うしかないと、そう定められた命のままにことを為した。
当時、彼女は幼い子どもだった。まだものの道理もわからぬ幼子だった彼女は、ヴィザの為したことを覚えてもいないだろう。優秀な薬師だった男が家族の待遇を交換条件としてアフトクラトルへの恭順を誓い、星を渡った。まごうことなき人質だ。収容所で妻が亡くなり、しかし男には知らされることもなかった。研究に専念させるために。だからヴィザは、娘を不憫におもって邸に迎え入れることにしたのだ。不憫。まったくもって不憫だった。祖国の仇の邸に、親と引き剥がした元凶に、憐憫をもって迎えられる、その屈辱たるや。そんなことはもちろんわかっていた。それでも収容所にいるよりはずっと、死なずに済むだろうと思ったのだ。
「……いいえ」
薬師が囁いた。夜風にまぎれるようなかすかな声だった。
「いいえ、ヴィザさま」
いつからだろう。邸に戻るたびに柱の陰から憎悪の瞳を向けていた彼女が、『おかえりなさい』と口にするようになったのは。
「では、私をうらんでおりますか」
ついぞ、訊けていないことだった。笑みを向けられるようになっても、その心の奥に秘めたものを見つけるのが恐ろしくて訊けずにいた。違う。笑みを向けられるようになったからこそ、それを見つめることができなくなった。
今なら受けとめられるだろうか。この澄んだ、遠いはての彼の国まで輝いていそうな星の海のなかでなら。
「……母と、父を。空のはての同朋を、弔うことをおゆるしくださったのは、ヴィザさまだけです」
道を照らす光がゆれる。薬師は俯きながら、やはりかすかな声で囁く。震える声で、囁く。
「わたしを、ひととおもってくださったのは、ヴィザさま、だけなのです」
風に靡く草原の波を、狼のようだと例えたのは彼女だ。土地の痩せを示すような荒涼とした風が幾重にも吹いて、狼たちがヴィザと彼女の傍に侍る。かの獣の群れは、家族なのだという。
「そんな方を、どうしてっ、憎むだけでいられましょう」
ランタンの灯りに照らされた頬がひかる。ぱたぱたとこぼれおちた雫が乾いた風に、枯れた大地にとけていく。
「でも、どうして、わたしはまだ――」
その手からランタンをとった。薬師はされるがままに指先を離して立ち止まる。火を消すと、燻ったような煙がうまれてすぐに散らされた。
「ヴィザさまを、愛するだけではいられないのでしょうか」
この暗さでは、彼女ひとりでは邸に帰れない。ヴィザは彼の国を滅ぼしたときよりも老いた手で薬師の手を引き、そっと足を運んだ。いちどだけ引っ張られるような感覚がしたあとは、薬師は黙ってついてきた。黙って、いた。ときおりこぼれる嗚咽以外は。
「空の、」
と、ヴィザは呟く。
「空のはての、いと遠きかの星は、たとえこの目に映らずとも、そこに在りましょう。そうであるならば、あなたの想いもまた、いつまでも在って、よいものだと……」
在ることがおかしいのは憎悪ではなく愛だった。捨て去ってしまえば楽なのは、情に違いなかった。
「よい、のだと、私は思います」
愛を――ヴィザは彼女の愛を、欲している。それを前に彼女に残る憎悪など、きっと何でもなかった。薬師はかすかな嗚咽をこぼしたままだったが、ヴィザの手をそっと握ったようだった。風が吹く。星灯りに照らされた草原を、狼たちは家路についた。