あ。と、思った。無意識のうちに足を止めたのは、それがあまりにもこの場所に不釣り合いな色彩を残していたからだ。
数メートル先で菊地原が振り返り、「歌川?」と怪訝そうな声をあげる。「あぁ、」我に返って応えると、歌川の視線の先を辿った菊地原が眉を顰めた。
「花?」
みたいだな、と頷いた。それに菊地原はますます眉間に皺を寄せる。無理もない。歌川と菊地原は学校からボーダー本部へと向かう途中で、花束は瓦解した民家の傍らにそっと置かれている。人の出入りに制限のある警戒区域だ。花束を手向けたのは誰なのか。もしもボーダーの関係者でない一般人であるなら、それは由々しき問題だった。
「報告しなきゃ」
菊地原が気怠げに溜息をついた。それから「歌川が見つけたんだから歌川から報告してよ」と続ける。
ああ、とか。うん、だとか。よくわからない声をあげて頷き、歌川は花束から視線を逸らした。
一歩踏み出して、すでに歩き始めていた菊地原に続く。その背中を視界に留めながらも、まばたきのたび、瞼の裏にあの花の色彩がうつる。街としての機能をうしなった瓦礫のなかで、あの花束だけが生命のかがやきと瑞々しさを保っていた。
「……まあ、ボーダーの誰かでしょ」
どこか慰めるような声は少し珍しかったけれど、素直に頷くこともできない。ぱちり。まばたきのたびにうつる色が、そうも残る理由はわかっている。
同じような色彩の花束を抱えていた人を、ひとりだけ知っていた。
日曜日だった。取り寄せを頼んでいた本が届いたと連絡を受けて、商店街にある小さな本屋に向かっていた。
「あ」
やわらかい、澄んだ声が耳朶をうった。ちょうど初秋の空とおなじいろのような、そういう声だ。歌川は足を止めて、少し下げていた視線を持ち上げる。
「みょうじか」
クラスメイトは少しだけ驚いた顔で歌川を見ていた。あまり話したことはない。毎朝、挨拶をするかしないか、ぐらいの距離感。教室という小さな世界でさえそうなのに、こうして外で顔を合わせるのは不思議な感覚がした。
みょうじの手には花束が抱えられている。寄る辺のない視線はわかりやすい物に引かれて、みょうじはまだ訊いてもいないうちから答える。
「あの、家に飾ろうと思って」
「へぇ」
声に少しだけ驚きが混じったのは、歌川の家では日常的に花を飾る習慣がないからだ。母はプランターであれこれと育てているが、切り花にはしない。花瓶のなかで枯れてしまったあと、捨てるのがしのびなくて嫌なのだという。
みょうじはどこか気まずそうに視線を逸らしながら、小さく口を開いた。数拍、迷うように閉じたり開いたりをしたあと、ささやかな音が放たれる。
「歌川くんは……今からボーダー?」
「いや、買い物。本屋に」
「あ、そうなんだ」
ぽつり、と沈黙がおちる。うまく続かなかった会話の先はどこにもなく、歌川とみょうじはほとんど同じタイミングで「じゃあ」と切り出した。ぶつかった言葉がからんと落ちて、視線が交わる。さっと赤らんだ頬がゆるく持ち上がってへたな笑みをつくった。どうやら恥ずかしかったらしい。
「学校で」
歌川が続きを繕うと、みょうじはほっとしたように相貌をゆるめた。
「うん、学校で」
広げてみたら思いのほか小さかった風呂敷を、くしゃりと丸めて放り投げたみたいな会話だった。それでもさして気にせず、家に帰るのであろうみょうじの後ろ姿を追うこともせず、歌川は本屋に向かった。それが、日曜日のこと。
防衛任務を終えた帰り道も、花束は相変わらずそこにあった。瓦解した家の傍らに、そっと忍ばせるように。ぺしゃりと潰れた玄関に近づけば、ちいさなガラスの破片が靴底に擦れて音を立てる。
あぁ、やっぱり。
思うのと同時に心臓が軋んだ。なぜだかいたかった。端末の白い光で照らした表札には『みょうじ』の文字。地面に置かれた花束は日曜日に見たものよりも褪せているが、似た色彩であることにはかわりない。
やっぱり、ではあった。でも、そうでないことを期待して確かめに来たのも事実だ。一縷の望みに賭けて、負けた。この花束を置いたのは一般人で、歌川のクラスメイトで、みょうじなまえだ。
『家に飾ろうと思って』そう言っていたのを思い出したのは自宅の玄関の扉に手をかけたときだった。母が育てているプランターの植物が、玄関のやわらかな光に照らされている。夜だからか花弁が閉じていた。
あの言葉はきっと誤魔化しの意味を含んでいたのだろうけれど、彼女が語った『家』は、あの瓦礫だったのだ。
「ただいま」
扉をあけて、小さな声でそう告げた。靴を脱いでいると奥から母が顔を出す。「おかえり」声が響いて、すこしだけ泣きたくなった。警戒区域に一般人が入ってはいけない。たとえどんな理由があっても。明日、みょうじに言わなければと思って、心臓がまた軋んだ。