夜は明けるもの

「なまえ」
 氷菓のような、凛と冷たくもひそやかにあまい声。頬をすべる熱がくすぐったくて身悶え――ゆるりと瞼を持ちあげる。
「……ミラ?」
 ぱち、と瞳を瞬かせれば、寝台に腰掛けた彼女がちいさく笑った。ざくろの髪はすこし伸びた気がする。床に角灯を置いているのだろう、橙のひかりが小さな部屋にやわらかに満ちる。
「ごめんなさい。こんな時間に」
 木苺を煮詰めたような瞳が静かにわたしを見下ろしていた。「ううん。久しぶりね」返しながら、眠気を瞬きで散らす。身体を起こした。カーテンの隙間から見える外は暗く、夜明け前のようだった。
「どうしたの、ミラ」
 脚をするりと毛布から抜き出して、腰掛けたミラのとなりに並ぶ。つま先を床におろした。しんとした冷たさが染み込んでいく。そっと寄り添えば、ミラもすこしだけわたしの方へからだを傾けた。
 ミラは、ときどきわたしの部屋にやってくる。『窓の影』を開くこともあれば、館の玄関をくぐることもあった。けれどなんの前触れもないのは珍しい。それに時間だって、いつもお茶の時間に合わせてくれる。間違ってもこんな真夜中に訪れたことはない。
「……お祝いを言いにきたの。結婚、の」
「――そう」
 くらり、と世界が揺れた。シーツを引っかくように震えた指先をきゅっと握り込んで、ミラの肩にあたまを寄せる。
「……うん、そうなの。決まったのよ」
 言いながらじわりと瞳がしみる。でも涙をこぼすほどじゃない。ミラがベルティストン家の婚約者に決まったときに比べたら、ずっとかなしくない。
「星を渡ると訊いたのだけれど」
「えぇ。同盟国の、軍人の家系ですって。向こうの国からも嫁ぎにくるみたい。ほら、わたしの家はずいぶんと昔から、いろんな家と交わってきたでしょう。ここらでひとつ、血を薄めたほうがいいと――そんな話になったのよ」
「……そんな話がでていたなんて知らなかったわ」
 ミラの指がわたしの髪の先を梳いた。かすかに伝わる振動に耳のうしろがしびれる。結婚してしまえば、こんなふうに会うことはできないだろう。ミラと会うにもだれかの許可が必要で、話せることも限られて。人目を忍んで会おうと思っても、こんな夜でさえわたしひとりの時間ではなくなってしまう。
「仕方ないわよ。あなた、忙しかったもの。……やっと帰ってきてくれたと思ったけれど、また出るのかしら?」
「……えぇ。夜が明けたら」
「まあ。それなのにわたしのところに来たの? だめじゃない、ちゃんと眠らなきゃ」
 ちいさな子どもを相手にするように、笑みを転ばせながら言う。ミラは黙ったまま、わたしの髪をくしゃりと乱した。
 静けさが痛い。彼女の背中側に視線を向ける。角灯のひかりに照らされたわたしとミラの影が、ひとつの生き物のようにゆらめいていた。
 ミラ。わたしの最初のともだち。熟れたざくろ色の髪と、木苺のジャムのように深く艶めく瞳。空のうつくしさ、波打つ麦畑のつくりかた、戦争について。無知なわたしに世界を教えてくれた、明晰なひと。前へ歩む背中はいつもぴんと伸びてまぶしい。それがたゆまぬ努力の賜物だと知っている。
 それから、黒い角――わたしにはない、戦うひとの角。兵士の訓練をはじめてから、その表情は氷のような冷たさを孕むようになった。世界へ向ける視線は刃よりも鋭い。それでも、たまに浮かべる笑みは花の蕾がゆるむよう。ミラの笑みにふれるたび、わたしはうれしくて、こころの奥がほわりとあたたまる。繋いだ手、寄り添う熱。だれよりもたいせつな、いとしい、わたしの――
「私、」
 ミラの声。ふれあった身体から呼吸音と鼓動がかすかに響く。
「あなたに会わなければと思ったの。……お祝いを、言わなくちゃ」
「律儀ね」
 くすくすと笑いながら、動きをとめたミラの手をとる。いつもより冷たい。熱をわかつように手のひらを合わせ、指を組んで引き寄せる。すこしだけ震えた。どちらが揺れたのかはわからない。
「……ひどい話」
 お祝いを、と言うわりに、ミラの口からはおめでとうの一言も出なかった。頭のよい彼女はきっとわかってる。わたしが外へ嫁ぐのは、アフトクラトルの権力争い――有力家に嫁ぐ競争に負けたせいだと。血の濃さは、わたしが選ばれなかった大義名分に過ぎない。
「いまさらよ」
 ぽつりとこぼれた言葉が、思いのほか虚しく落ちる。
 わたしたちは知っている。人も資源も限られた世界における胎の価値。常勝の国における、兵士たりえるトリオン器官の価値。等しく道具として受ける評価。ミラはトリオンが多く、『窓の影』に選ばれた。その優秀さと後ろ盾を求めたベルティストン家に請われて嫁ぐ。わたしは戦えるほどのトリオンはなく、子は産めるが有力家に嫁ぐことはできなかった。この国にいても生み出せる利益は薄い。だから外に嫁ぐ、それが正しい使い道。
「でも、勘違いしないでね、ミラ」
 重ねた手を引き寄せる。熱っぽい呼吸でなぶれば、かたちのよい爪がくちびるをやわく撫でる。
「わたし、うれしいのよ。とっても、この結婚がうれしい。だって同盟国との繋がりが強まれば協力を得やすくなるし、そしたら戦線の負担も軽くなるでしょう? ――ミラの役に立てるんだわ」
 あぁ、これじゃあまるで呪いみたい。ミラの肩がわずかに揺れた。それに気付かなかったふりをして、きゅっと手を握る。
「……なまえ」
 わたしの名前を呼ぶときの、ミラの声がすきだった。わたしを呼ぶ声は、あなたのものだけが良かった。でも現実はそうならない。
「なんて、信じた? 冗談よ、ミラ」
 臆病ね。こころのうちで笑えば吐息がもれる。あなたを呪う勇気さえない。
「結婚に頷いたのはお相手の釣書と肖像画を見たから。すてきだったわ」
「……そう」
「見たい?」
「いらないわ」
 相手が嘘をついている可能性はさておいて、釣書も肖像画もすてきだったのは本当だ。競争に負けた娘が嫁ぐ先としてはあまりにも条件がよく、家族が骨を砕いたのだろうと思わせてくれる。
 だから釣書を見せても困らなかったけれど、見たくないと言ってくれることを期待していた。見せたとして――いいひとそうね、おめでとう、しあわせに、とか、そんな言葉をミラから聴きたくなかった。ミラにだけは、言って欲しくなかった。
「いつ、なの」
「次に星が近づいたときには……婚礼衣装も仕立て終わりそうよ」
「そう」
 ぎゅ、と手を握られる。組み合わせた指、今度はミラがわたしの手を引き寄せた。胸に添わせた手を抱きかかえるように、ミラが俯く。ざくろの髪がさらりとゆれて、橙のひかりが透ける。

「……男に生まれたかった」

 静謐を破るにはあまりにちいさな声。聴こえなかったふりもできるような、ほんとうに幽かな。
 応えるべきか迷う。それは――わたしのために男に生まれたかったということ? それとも、なにかつらいことがあった?
 トリガーのおかげで戦闘に男女の別は殆どない。けれど軍部はいまだに男社会で、そこに放り込まれたミラが受ける苦痛はどれほどだろう。わたしには想像しかできない世界。
 顔をあげないミラが傷ついていることだけはわかって、ますます言葉に惑う。彼女を救う言葉がどんなかたちをしているのか思いつけない。
「……ミラ」
 できたのは、彼女に身を寄せることだけだった。くったりとからだを預け、腕を回して抱きしめる。「ミラ」吐息が湿る。瞼を伏せ、彼女の鼓動に耳を澄ませた。
 ふたりで過ごす日々を想像してみる。ふかふかの寝台で眠り、陽が昇ればおはようを囁き合う。料理はわたし、ミラはお掃除。部屋はいつもきれいに整って、お茶の時間にはあまい香りが満ちる。戦争にはふたりで行こう。きっとあなたをひとりにしない。家に帰ったら花を浮かべた湯船で汚れを落として、やっぱりふたりで眠る。
 ただの夢想だけれど、夜に夢を見ることのなにがわるい――幼いころは、夢はほんとうになると信じていた。無知で愚図だったわたし。ミラはあのころから、何もかもわかっていたのだろう。わたしの夢をこわさなかった、やさしいひと。
「ミラ」
 すきよ。いっとう、すき。だれよりも。ともだち以上に。恋も愛もあなたに捧げたいの。音色にすることのできない唄が呼吸にとける。
 はく、とミラが口をひらいては閉じた。それに耳を傾け、ちいさく笑う。
 この国に産まれなければなにかが違っていたかしら。この世のどこかに、この気持ちがゆるされるような国があったらいいのに。きっとうつくしい夜が満ちているのだろう。明けない、夜が。
 とくとくと心臓の音が重なる。わたしとミラは同じ速さで生きていた。それがこのうえなくうれしくて、けれど今にずれてしまうのだとも知っている。

 窓の外でちかりと光が瞬いた。夜が明ける。明けないでと願っても、わたしの声は世界を震わせない。
「……ミラ。あなたのことがずっと、ずうっと好きよ。あなたが――わたしのともだちでよかった」
 頬をすべる雫がつめたい。ひとつぶだけのそれが顎の先からぽつりとおちた。角灯の光を覆うような朝日がカーテンの隙間から伸びる。ちょうどわたしとミラを引き裂いて、まばゆさに目が眩む。
 あなたはわたしのただひとつ。啄ばむことのできなかったざくろ。それでもきっと、あなたがいるからわたしの世界はうつくしかった。うつくしかったのよ、ミラ。