暗闇にかすかな寝息。ミラが角灯にトリオンを込めれば、橙のひかりがゆらめいて小さな寝室を照らした。ものを見るには不自由しない程度に明るくなったが、部屋の主はいまだ眠っている。
なまえ。
ミラはちいさくその名を呼んだ。起きる様子はなく、あわく色づいたくちびるがふにゃりと寝言を紡ぐ。意味をなさない音がふたつみっつこぼれた。兵士としての訓練を受けたミラならば、人には決して見せない無防備な姿。常ならば叱咤の対象だけれど、こと彼女においては違う。このままずっと眠っていてほしいとも――今は思っていた。
寝台の端に手をつき、なまえに覆いかぶさるように顔を覗き込んだ。すこし伸びた髪がはらりと宙に揺れて、角灯のひかりが壁に影をつくる。
まろみを帯びた頬は青白さを増したような気がする。毛先の整った髪は艶やかで、細い指先といい、深窓の令嬢然としていた。このご令嬢が、かつてはミラとともに野原を駆け巡り、庭でいちばん高い木に登る競争をしていたと言って、信じるひとは然程多くないだろう。
冷えた指先を握り込んであたためてから、その頬に添わせた。ん、とかすかな声が漏れたけれど、起きることはない。
あぁ、ほんとうになんて無防備なんだろう。他者との間に壁をつくるミラとは違って、彼女にはいつも目の前のひとを受け入れ、抱きしめるようなあたたかさがある。ふたりでいるとき、前を歩くのはいつもミラの役目だったけれど、それはなまえが後ろにいてくれたからだ。彼女がいてくれたから、ミラはいつだって前を向くことができた。
なまえはミラの最初のともだちだ。唯一のともだちかもしれない。自嘲の笑みが知らずにもれる。ほんとうは――ともだちなんて思っていないのに。
「……なまえ」
衣擦れの音がいやに大きく響く。こくりと声をころし、頬にくちづけた。それから閉じたまぶた、耳の近く。そっと顔を離せば、細く息がもれる。呼吸をとめていたらしい。
これが愚かしいことだと、そうわかっていて泣きたくなるくらいなら、そもそもこんなことしなければいい。頭では理解できるのに心はとめられない。
なまえ嬢のご成婚が整ったそうですよ。同盟国へ嫁がれるとか。
遠征から帰ってくるなり、家人が何て事のない噂のひとつとしてミラに告げた言葉。どこそこの畑が凶作であったとか、塩が値上がりしたとか、そんな国や家に関わることよりも、彼女のことだけが耳に残った。
こんな日が来るのだと、当然、わかっていた。ミラ自身もベルティストン家に嫁ぐことが決まっているのだから、驚くことではないのかもしれない。けれどそれも所詮は婚約で、ハイレインとランバネインのどちらに嫁ぐかも決まっていないような話だ。なまえにいたってはまだ誰とも婚約も結んでいなかった。国内の有力家と繋がりを得るため方々へ根を回していたが、まだ準備段階だったはずで。けれど、決まったらしい。よりにもよって同盟国――この星の外へ。
「わかっているのよ」
すべて仕方のないこと。ミラとなまえの間に永遠がないことも、ミラがベルティストンに嫁ぎ、なまえが外の国に嫁ぐことも。ずっと昔からわかっていた。
指先をやわらかなくちびるにあてがい、そのかたちをそっとなぞった。ついぞふれることのできなかったここに、知らないだれかのそれが重なるのだ。
嫌、とか。
そんなこと口にできるはずがない。それを紡いだ途端、ミラという人間は変わってしまう。『国のためよ』『家のために』繰り返された声はもはやミラ自身の声で脳裡を巡る。なまえだってミラが変わることを求めないだろう。長い歳月と努力を重ねてつくられた『ミラ』を自分がころしたと知れば、きっと彼女は悲しむ。『わたしのせいで』と、そのこころをころしてしまう。それは、ミラの望むことではない。
「……なまえ。起きなさい、なまえ」
寝台の端に腰掛けて、そっと肩を揺さぶった。このまま眠る彼女を見ていては、胸の奥で劈く痛みがなにをしでかすかわからない。
「なまえ」
指先で顎の輪郭をなぞると、閉じた瞼がふるりとゆれる。睫毛のむこうの霞むような瞳がミラを捉えた。
「……ミラ?」
どこか夢見心地に、不思議そうに問うやわらかな声。春が息づくように頬が朱に染まり、そうさせたのは自分であるという優越に心が揺らぐ。
「ごめんなさい。こんな時間に」
「ううん。久しぶりね」
ぱちりぱちりと瞬きを繰り返し、なまえは身体を起こして微笑みかけた。その視線がちらりと窓を伺う。朝にはまた遠征に出ることが決まっていたから、こんな時間に来るしかなかった。
「どうしたの、ミラ」
先触れもなく訪ね、眠っていたところを起こしたミラに文句のひとつもないらしい。となりに座ったなまえが身を寄せる。応えるようにからだを預けた。自分がこの優しさに甘えていることもわかっている。――これが最後だ。彼女に甘えるのは、きっとこれでおわり。これからは、彼女の美徳である優しささえ、彼女自身の判断では許されないのだから。
「……お祝いを言いにきたの。結婚、の」
どうにか声が震えずに済んだ。鉄面皮と呼ばれるような性格でよかったと、安堵する心さえ表には出ない。「そう」なまえが囁き、ミラの肩にひたいをあてがう。
「……うん、そうなの。決まったのよ」
なまえの声が布越しにミラの肌をなでた。少しだけくぐもって聴こえる。
「星を」
ミラは、どうしてここに来てしまったのだろう。わざわざなまえの口から訊かなくたって、もうじゅうぶん痛いのに。彼女に会わなければいけないと、思ったそれは衝動に近かった。
「渡ると訊いたのだけれど」
「えぇ」
さらりと頷いたなまえが続ける。「同盟国の、軍人の家系ですって」声に気負いはなく、やわらかく笑みながらも突き放すような冷たさがあった。
ますますていねいに磨かれ艶めく髪は、同盟国との結婚が決まったからだろう。豪奢に飾り立てるのはアフトクラトルの威厳を示すため。宝石のようにきらめく彼女は、多くの人間にとって本当にただの宝石でしかない。
「向こうの国からも嫁ぎにくるみたい。ほら、わたしの家はずいぶんと昔から、いろんな家と交わってきたでしょう。ここらでひとつ、血を薄めたほうがいいと――そんな話になったのよ」
「……そんな話がでていたなんて知らなかったわ」
なめらかな毛先に指を滑らせながら囁く。国の性質上、血が濃くなるのは必然だ。そんなこと今まで気にしていなかったどころか、古い血を残そうと必死だったくせに。見え透いた言い訳を、それでもなまえは真実のように語る。
「仕方ないわよ。あなた、忙しかったもの。……やっと帰ってきてくれたと思ったけれど、また出るのかしら?」
「……えぇ。夜が明けたら」
黒トリガーを手にした日から、ミラとなまえの世界は明確に分かたれた。同じ女で、同じように家の道具として血を繋ぐことは求められるにしても、『選ばれた』という事実が抗いようのない力となってミラを戦場へ導く。
「まあ。それなのにわたしのところに来たの? だめじゃない、ちゃんと眠らなきゃ」
笑みの混じる声に思い出す。『しかたのないミラ』なまえの手を引いて歩き出そうとするミラに、彼女はいつも微笑んで着いてきた。周りは前を歩くミラのほうが大人びていると言っていたけれど、ほんとうは彼女のほうがずっと大人だった。
髪を撫でる手が震える。わずかでも離せば、するりと指先からこぼれおちていくに違いない。
幼いころ、手を繋ぐのはいつもミラからだった。ミラが、なまえと一緒に居たかった。知らないことの多かった彼女に知識をひけらかすことに優越を感じていたのもある。けれどなによりも、大人の世界の醜さを早くから知ってしまったミラは、その無垢さにふれなければ息づくことも危うかった。
「私、あなたに会わなければと思ったの。……お祝いを、言わなくちゃ」
祝う気持ちなんてこれっぽちもありはしないのに。
「律儀ね」
笑い声に指先が痺れた。今度こそ動きを止めた手に、なまえの手が重なる。そんなことでさえうれしくて、心臓が引き裂かれるように哭いた。手のひらの大きさは、ミラのほうが少しだけ小さい。指を組まれ、なまえのもとに誘われる。
「ひどい話」
いまごろになってあなたは私の手を掴む。くちびるから溢れ落ちた言葉を弁明する間もなく、「いまさらよ」となまえが応えた。
ミラがいう『ひどい話』を結婚のことだと思ったらしい。それも間違いではないけれど、いまミラは、もっと、どうしようもなく浅ましいことを考えていた。
「でも、勘違いしないでね、ミラ」
己を恥じるより先に、なまえの吐息が指先をなでた。重なった手にくちづけるような囁きは穏やかな声音を保っている。眠る彼女にそうしたように、爪の背でやわいくちびるをやさしくなぞった。
「わたし、うれしいのよ」
声が痛みに覆われてただ呼吸を繰り返す。あなたは、しあわせになれる? もしもその問いに頷いてくれたなら、頷かれてしまったら、ミラは彼女におめでとうを言えるかもしれない、けれど。
「とっても、この結婚がうれしい。だって同盟国との繋がりが強まれば協力を得やすくなるし、そしたら戦線の負担も軽くなるでしょう?」
なまえの声はあくまでも穏やかで――それで、余計に空々しく聴こえた。これは誰の言葉だろう。ふつりと腹の底で炉がゆらめく。なまえにこんな建前を吹き込んだのは誰だ。この無垢なひとに嘘を吐かせるのは、
「ミラの役に立てるんだわ」
だれなのか、わかってしまう。
愕然として、頭のなかが真白に染まる。戦場で頭蓋を砕かれたときのようにぶつりと思考が途切れ――受け入れがたい現実に脳が麻痺する。
「……なまえ」
「なんて、信じた? 冗談よ、ミラ」
明るい声が霧を晴らすように響く。けれどもう、道は見失ったあとだ。
「結婚に頷いたのはお相手の釣書と肖像画を見たから。すてきだったわ」
「……そう」
その言葉がほんとうでもうそでも、こころは軋んで悲鳴をあげる。救いようのない袋小路だった。
「見たい?」
「いらないわ」
自分でも驚くくらい感情のない声が出た。なまえは気にするでもなく「そう」と笑い、それに胸が引き絞られる。すてき。そう呼ばれた彼女の結婚相手へ抱いた嫉妬。知らないでいてほしいし、知ってほしい。
「いつ、なの」
「次に星が近づいたときには」
彼の国がアフトクラトルへ近づくのは、そう先のことではない。
「婚礼衣装も仕立て終わりそうよ」
追い打ちをかけるような言葉。思い描くのは着飾ったなまえの姿。アフトクラトルの婚礼衣装ではなく、同盟国の文化に合わせたものを纏うにしても、うつくしいのだろう。手が届かないからこそ輝く星のように。きっと、うつくしい。
「そう」
明朝の遠征は果ての国。なまえの婚礼までにアフトクラトルへ戻ることは難しい。唯一それだけが救いだった。なんてみじめな救いだろうか。
無意識のうちになまえの手を引き寄せ、抱きかかえるようにしていた。わずかの抵抗もしなかったなまえが何を考えているのか、ミラにはわからない。
せめて想いを告げることができたらよかった。無理やりにでも攫ってしまえるような傲慢さがあれば。彼女のなにもかもを暴いてしまえたら。できもしない妄想に囚われて幽かにわらう。ただなまえを繋ぎとめたくて仕方ない。傍にいてほしい。ひとりでいるには広すぎる世界だ。
こんなことなら男に生まれたかった。だれに憚るでもなく想いを告げ、積み上げてきた自身の力と、家の関係も国の事情もすべて使って――すべて捧げるから、なまえに傍にいてほしかった。愛してほしかった。
女の身では一歩目から躓く。男女が番う第一の目的は子を為すため。血を繋ぎ、国を残すため。子を為せないふたりがふたりでいられる理由はない。それが当たり前の世界。だからこの想いは禁忌でさえない。禁じるまでもなく、存在しない概念だ。
どうして愛してしまったのだろう。どうして、いまも愛しているのだろう。ともにいられるはずがないとわかっていながら、それでもミラは彼女が結婚すると訊くまで、心のどこかで思っていた。永遠であれと、願っていた。とっくの昔に道は分かれていたのに。いつまでも別れを告げることができなかった。
「……ミラ」
ちいさな声が、ミラを呼ぶ。背に回された腕。半身にふれるからだはやわらかく、その熱でミラの心臓を撫でる。抱きしめ返すことはできなかった。いまならば星を掴める気がしたけれど、手放さなければならないものに手を伸ばすことが恐ろしくて。「ミラ」くぐもった声が泣いているように聴こえる。あなたもかなしいのだろうか。別れを惜しんでくれるのだろうか。確かめるための声は枯れていた。
「ミラ」
なまえが唄うように紡ぐから、その名が好きだった。なまえがうつくしいと微笑むから、この国が好きだった。なまえに呼ばれない名はどう響くのだろう。なまえのいない国は美しいのだろうか。なにひとつとして、知りたくない。
愛している。言葉は喉につかえて、ちくちくとささる。やがて言葉はかたちを失い、痛みだけが心臓に染みこんだ。
瞬く光が夜の終わりを告げる。
「ミラ」
なまえはもう、ミラの肩からあたまを離していた。その視線の先が、窓の向こうの朝へ向けられている。俯いたままその声を聴いた。離さない手は悪あがきでしかない。
「あなたのことがずっと、ずうっと好きよ」
窓から差し込んだ光が床を伝い、つま先からじわじわとのぼる。ミラとなまえを分かつように。
「あなたが――わたしのともだちでよかった」
瞳が潤むのは朝日がまばゆいせいだ。なにもかもを封じ込めた呼吸は、わらえるほど息苦しかった。
朝を迎えて安堵したのか、再び寝入ってしまった彼女をやさしく寝台に横たわらせる。艶やかな髪を一房とり、くちづけをおとした。
いつの日か彼女のしあわせをこころから祝える日がきたら――なんて。そんなものはいらない。彼女がいないのなら、春さえも意味のないものだった。