絶えなば絶えね

 浅く、短い呼吸とともに、彼は苦しげに呻いた。7月の空の下、学校の屋上で秘めやかに行われていたこれを、初めて目撃したのはもう3ヶ月も前のことだ。
 二人きりの広い屋上にわずかばかりある、給水塔によってできた影の中で、私は彼が喉元に手を伸ばすのを黙って見ていた。
 じっとりと、汗ばむ暑さだ。背中にシャツが張り付いているのを感じながら、小さな日陰からはみ出さないようにぎゅっと身体を折りたたむ。
 隣に座った彼が、苛立たしげに背もたれにしていた給水塔の壁を叩いた。握り拳が、どん、と僅かな震動をコンクリートに生み出す。
 彼の瞳が閉じられて、痩せて尖った頬の輪郭をひとつぶの雫が滑り落ちる。涙だった。はく、と声にならない音を聴く。呼吸を求めるように出っ張った喉仏が動いた。照り返した光に、玉雫の汗がひかっている。ちょうどしゃっくりをするときのように上半身が震えて、彼は堪え切れないというように背を丸める。顔を俯かせ、喉元を大きな手で覆って、がくがくと身体が震えていた。

「――おはよう、ございます」

 今日の始まりは、それだった。それを皮切りに、かさついた声が言葉を吐き出していく。何かに急かされるような早口で、掠れた声が滔々と言葉を吐き出す。大きな声ではないが、隣にいれば聴き取れた。
 思うに、それは朝のニュース番組の、キャスターの言葉だった。朗々と耳さわりのよい声で紡がれていた言葉が、彼の口から吐き出されている。挨拶が終わればトップニュース、それに対するコメント、答えるゲスト、次のニュース、天気予報、それから。
 息つく間もなく、と表現するのが相応しい勢いで、けれど時々えずいてしまうせいか不自然な文節で途切れる。
 例えるなら壊れたレコーダーだ。記録した音を、空白なく全部一度に再生しようとしている。そのさまは、『吐く』という言葉でしか形容できない。
 気がつけばキャスターの言葉は全て吐き出し終わっていて、彼はおそらく通学途中の電車で聴いたのであろう人々の会話を、無茶苦茶に吐き出していた。
 サラリーマンの会話、それに割って入った女子高生の大きな声、車内に流れるアナウンス、近くに座った誰かの囁くような悪態。彼が聴いたであろう全ての音が、絶え間なく吐き出される。

 私は、彼のこの症状を言吐き病と呼んでいる。ことはきびょう。読んで字のごとく、言葉を『吐いて』しまう病気だ。

 彼は、たくさんの言葉を聴くと、それを吐き出してしまうことがあるらしい。まさしく壊れたレコーダー。言葉の消化不全。この世に溢れる言葉は、おそらく彼の鼓膜を震わせて、そしてあまりに煩雑な言葉たちは渦巻き管のあたりで渋滞して、詰まって、おかしな経路で逆流してしまうようだ。
 せめてもの救いは、普通の吐き気と同じように吐くタイミングはある程度コントロールできるというところだろうか。彼は校内が言葉で溢れる昼休みになると、こうして誰もいない屋上にやってきて言葉を吐き出すことにしている。
 聴いた言葉をそっくりそのまま、聴こえた順番に吐き出して――つまりつらつらと声に出している彼は、ひどく苦しそうだ。休むことなく『吐いて』いるのだから、当たり前だろう。
 かたく目を瞑り、ぎゅっと寄せた眉。額にじわりと汗が滲んでいた。喉元を締めるように首を覆った手は、爪を立てているようにも見える。もう片方の手は、やり場のない苦痛を紛らわせようとしてか、心臓をワイシャツの上からぐっと握りしめていた。
 毒を飲んで身悶えるひとというのは、きっとこんなふうなんだろう、と私は思う。口を閉じてしまいたいだろうに。言葉を吐き続ける彼は、唇が切れても喉が擦り切れても止まれない。吐くのを我慢するのは難しい。
 呪詛のように吐き出される、とりとめのない日常の言葉たち。挨拶、軽い雑談、思わず大きくなった相槌、だれかのなまえ。ひとつひとつはそこにあって当たり前のものなのに。紡がれたときは愛しささえも孕んだ言葉たちなのに。彼が聴いてしまった言葉はぐしゃぐしゃと吐き出されて、夏の太陽がつくる影に打ち捨てられていく。
 蝉の言葉を吐き出す羽目にならなくてよかったなぁ、と思った。蝉でなくても、猫とか犬の声は――言葉は、彼の吐き気を誘うものでなくてよかったと。だって、流石にそれはすこし間抜けだ。
 それを言ったら、多分彼は恨めしげにぎろりと睨んでくるのだろう。言吐き病。私の知る限り唯一の罹患者である彼は、その病に憔悴している。こうして、人目を忍んで吐き出さねば生きていけないという状況に、憤慨もしている。
 けれど、有効な治療法はなく。そもそも病院にもかかれず。予防法といえば耳栓くらいだけれど、言吐き病を隠している彼に四六時中耳栓をつけることはできない。ただ、限界まで溜め込んだ言葉をこうして吐き出すのみだった。
 言吐き病のせいで掠れてしまったという声が、さらに掠れていくさまを聴く。再生は授業中の言葉にまで及ぶ。彼は、現代文と英語の授業が嫌いだと言っていた。テキストの音読があるからだというのは訊かなくてもわかった。
 ひどいときは、目にした言葉でさえ吐き出したくなるのだという。それを考えると今日の症状、発作は軽いのだろう。必要な呼吸さえ吐き出す言葉に覆われてままならず、生理的な涙を浮かべる彼には、そんな慰めも無意味だろうが。
 彼が言葉を吐くさまは、ちょうど水中で溺れたときに似ていた。吐き出した言葉が、呼吸が、ごぽりごぽりと泡になって、周囲を埋め尽くす水に消えていく。正常な呼吸を求めてからだは身悶えて、それでも沈んだまま、言葉の海に溺れている。
 決して見ていて気分の良いものではないはずのそれを、じっと見つめる。苦しんでいることに愉悦を感じている、というわけでもなく。ただ、言葉を『吐く』という難病を患う彼に、目を向けてしまう何かがあった。
 初めてこれを見たときは、驚いたものだけれど。3ヶ月も経てば、意外に慣れた。慣れさせられたともいう。
 まったくの偶然で秘密の発作に居合わせた私を、彼は知られたからにはと巻き込んだのである。横暴もいいところだ。
 でも、その決断には私が無口なほうだったことも、たぶん関係あるのだろう。耳にする言葉は少なければ少ないほど、吐いてしまうリスクが低い。私の紡いだ言葉を吐かなくていいという安心感だってあったのだろう。
 私の役目は、もしものときに彼を気絶させることらしい。気絶してしまえば吐かなく、いや吐けなくなる。例えば、喉が裂けても言葉を吐き続けてしまっているとき、私は彼の首を絞めるなりして、彼の意識を落とすよう頼まれていた。
 吐いてる途中で気絶するのも詰まってしまいそうで怖いというから、手を出すのは本当に危険な状況だと彼が判断したときと決まっていた。判断したら、彼は私に喉を晒す。それを、私が絞めるということだった。
 私の貧弱な筋肉でそれが成せるのかは甚だ疑問だが、幸いなことに、そこまでひどい発作はまだ起きていない。
 ただ居合わせただけの私が責任重大の、一歩間違えば死をも近いその役目を引き受けたのは、彼の感じている恐怖を理解したからだった。喉が裂けても吐き続ける。そんな、その苦しみは、だって、あまりにも。
 彼も、もしかしたら、もしものときは死んでもいいと思っているのかもしれない。そんなことを感じさせるさみしさは、発作の起きていない時も彼の横顔に滲んでいた。
 吐く苦しみ、そもそも他人と違うこと。彼を苛むものはたくさんあって、それから逃れたいと思うことを、誰が責められるだろう。彼は生き地獄を味わっているのに。
 それを考えると、悲しく、なる。言吐き病がなければ親しくもならなかった仲だけれど。でも、だから、だけど、せめて。こうしてともに時間を過ごす仲なのだから。せめて彼が本当の地獄へいってしまわないように、律儀に付き合っている。俺は天国に行くわバカと、彼なら言いそうなものだけれど。
 彼の吐き出す言葉から、そろそろ発作が終わることを見越して、ペットボトルの蓋を開けておく。中身は常温の水だ。以前、吸収しやすかろうと付け焼刃の知恵を絞って生理食塩水にしたら、酷使した喉にしみて痛いと怒られたので、ただの水。
 汗を拭き取るための冷汗シートもすぐに出せるように並べて置き、ペットボトルの水は紙コップに注ぐ。
 すっかり慣れた準備を終えて、私は彼が言葉を吐き終わるのをただ待った。


「――」
 彼が、最後に吐き出したのは自分の苗字だった。教室から屋上に向かうまでの間に、クラスメイトに呼び止められたときのものだろう。そのあとすぐに耳栓をしていたから、これで終わりだ。
 ふらふらと屋上へ向かう彼の後をついて廊下を歩いたのが、ずいぶんと昔なような気がしたけれど、幸いにもまだ昼休みは終わっていなかった。
 えずきが止まらないのか、からだを震わせる彼の背を撫でる。咳き込んで跳ねた。咳は奥で喉が切れたのではと思わせるような音だ。酸欠で赤くなった顔は涙で汚れている。力の入らなさそうなからだを支えながら、紙コップを口元に寄せた。
 最初は唇を湿らせるようにすこしだけ。喉が傷ついてしみるのか、からだが震えたが、ゆっくりと水を飲んで行く。落ち着いてきたのか、コップを自分で持ち始めたので、それは任せて冷汗シートを首にあてがう。顔の汗もぬぐっていけば、眉間に刻まれた皺が緩んでいった。
「……はぁ、」
 しばらくして、彼が深く息をついた。ただそれだけの音なのに、随分とがさついている。
「クソ……また吐いた」
 ちなみに、彼は自分の言葉は吐かない。
「……昼休み、いつも丸々潰させて悪いな」
 壁に背を預けた彼は、こちらを見ないまま掠れた声で言った。首を横に振る。髪が擦れ合う微かな音がした。
「ていうか、あれだ、別に喋っていいけど」
 首を横に振る。あれだけ苦しむ様を見て、彼の前で喋ろうとは思えない。元々、無口なほうだし、困らない。そんなことが伝わればと、笑いながら体の前で手を振った。
 水を飲み干したのを見てペットボトルを渡せば、彼は紙コップに注いでちびりちびりと飲む。喋り通しだった喉は渇いているのだろう。水分不足という意味ではこの季節はつらいかと思ったが、冬はどちらかといえば乾いてしまうせいで、唇をよく切って血を滲ませてしまったから今の方がマシだと言っていた。多分、喉の奥も、切れたことがあるのだろう。彼の声が慢性的に枯れているのもこれのせいだ。
「……すげぇな」
 首を傾げて応える。
「俺、おまえの言葉を一回も吐いたことないよ。一回も聴いたことないから」
 ああ、そう言われれば、そうだ。けれど一回も聴いたことがないというのは言い過ぎだ。説明を受けるまでは、それなり会話もした。自己紹介だって口頭でしたわけだし。聴こえていなかったとでもいうのか。
「不満そう」
 頷く。
「いや、そりゃ聴いたことはあるけどさ。聴いてなさすぎて、おまえの声を忘れそう」
 忘れたっていいよ、と思うのだけれど。
 不意に、彼がずるりと体勢を崩す。大丈夫かと咄嗟にからだを支えれば、彼の火照った顔がすぐ近くにあった。
「……なぁ。俺の名前、覚えてる?」
 発作のせいで潤んだ瞳が向けられる。汗で前髪が額に張り付いていた。夏の濃い影のなかで、ワイシャツはそれでも白く輝いている。
「言って」
 声が弱々しいのは、発作に体力を奪われたからだ。懇願するようなあまい響きは、その弱りを曲解しているというのが正しいだろう。
 首を横に振る。
「忘れてんのかよ」
 そう笑う声にも、横に振る。
「じゃあ、言って」
 言わない。
「薄情な奴め」
 それこそ薄情だ。そう思いながらどうしようか迷っていると、彼は溜息をついた。すこしだけ、声に潤いが戻っている。次の発作はしばらく先だといい。
「……いつも、ありがとな」
 気にしないでと言う代わりに、意識して笑みを浮かべる。彼が目を細めて笑った。
 彼の名前を呼ばなかったことは、もう気にしていないようにも見えた。
「あー……午後サボるかぁ。おまえは?」
 首を横に振っておく。彼のぶんのノートも、とっておかなければいけない。汗だくの彼はもう少し休むべきだけれど、私は健康体だ。
 立ち上がった私を、座り込んだままの彼が見上げた。
「帰り、なんか、奢るから。食べたいもん考えておけよ。クレープでもパフェでも、なんでもいい」
 いつからか報酬を与えようとしてくる彼に、首を横に振って応えた。そんなことしなくても、私は彼の発作に付き合うつもりだった。
「……そっか。じゃ、またな」
 ひらりと振られた手に振り返して、屋上を後にする。
 ぎぃ、と音を立てる扉を閉めて、階段を下っていく。そっと息をついた。
 万が一にも、屋上にいる彼に聴こえないように、極々小さな声を出す。
「――」
 ほとんど舌先で転がしただけの、彼の名前。忘れてなんかいない。彼の名前を、呼びたい。
「……ぜったい、よばないけど」
 彼の名前を私が呼べば、彼が聴いてしまえば、彼は吐いてしまうかもしれない。案外優しい彼が、そのことを気に病むと知っている。
 『吐く』というのは、つまり、拒絶だ。彼は、人の言葉のありとあらゆるを拒絶するのを恥じて、だから、言吐き病のことを、誰にも言えなかった。すこし怒りっぽくて、ほどほどに口も悪いけれど、優しいひとなのだ。
 言葉を吐く彼から目を離せないのは、それが彼だからだった。彼だから、ずっと見ていたいと思う。目を離したくない。死なせたくない。苦しんでいる彼を、助けたい。そして、たくさん名前を呼んで、お話だってしたい。
 けれど彼は、そんな愛の言葉でさえ吐いてしまうのだろう。
 だから、これでいいと、そう思う。
 優しい彼の言吐き病が続く限り、これからも、私は無口なひとでいようと決めたのだから。