穏やかな暮らしを好むひとだった。兵士らしく非情なところはあっても、闘争を望んではいなかった。うららかな昼下がり、木陰に寝転んだ彼が戯れのように囁いたのを覚えている。
『このままずっとこうしていられたらいい』
慈しむ声だった。わたしを見上げる瞳がやさしく細まったことも。やがて重ねられたくちびるも。すべてが愛しくて、わたしはこのひとに出逢うために生まれてきたのだと思えた。
あなたがこころから安らげる居場所になりたい。あなたと、家族になりたい。泪まじりに告げれば、彼は『わかったから泣くな』とわらった。
「ハイレイン」
窓の外にひとの気配を感じて帳を開いた。雨のなか、立ち尽くす見慣れた姿におどろいて、慌てて窓を開く。水滴と音が部屋のなかに入りこんだ。夕闇に紛れてしまいそうな黒い外套はしとどに濡れている。彼はどれだけの時間ここにいたのだろう。黒い角を伝う雨は先端でふたたび水滴となっておちていく。
「どうしたの? はやく中に――」
「すまない」
彼は、俯いたまま告げた。まっすぐと響いた声はたしかにわたしの鼓膜を震わせたけれど、謝られる意味がわからない。
「なにを謝ることがあるの?」
胸騒ぎがあった。いつもと明らかに違う彼に戸惑いが先立つ。
「とにかく中に。窓の縁に足をかけてもいいわ。あなたの長い脚なら簡単でしょう?」
冗談めかした声は空々しく響いた。ハイレインは一歩も動かない。
「……すまない」
「……なにを、謝っているの?」
どちらかといえば自らが折れることを良しとする性格である彼が、こうも頑なに同じ態度をとるのは珍しかった。それこそ対外的な交渉ではない限り、彼はわたしの意志を尊重するひとだ。
うわくちびるがひりついた。嫌な予感だけが募る。訊きたくはなかった。けれど訊かなければならないのなら、はやく彼の用件を終わらせてあたたかいお茶を淹れてあげたい。
「約束を破りに来た」
顔をあげたハイレインが端的にいう。静かな声だ。そこにひとかけらの感情も見出せない。約束。やくそく。わたしと彼とのあいだに約束はたくさんある。言葉にしなかったものを含めれば、麦の穂よりもきっと多い。
「……どの?」
短い問いかけは声の震えを抑えるのに都合がよかった。不躾な物言いにもハイレインは表情を変えない。
「おまえと」
雨粒がハイレインの頬をなぶっていた。いつのまにか握りしめた窓の桟が手のひらにくいこんで、痺れに似た痛みがある。
「家族にはなれない」
どうして。震えた声がただしくそれを問えたのかはわからない。わたしとハイレインのあいだには決して覆せない身分の差があった。けれど両家はそれを黙認し、なによりもわたしとハイレインは同じ想いを抱えていたはずだった。家族になろうとわらいあった記憶はいまだあざやかだ。なのに目の前の男は怜悧な表情のままわたしを見つめる。
「兄上が死んだ」
ひゅっと呼吸が喉を掠めた。雨のしんとつめたい空気がじわりと肺に滲みる。風が、あるいは震える手が窓枠を揺らした。彼の兄は――次の領主である若様は、時季外れの風邪を引いて部屋にこもっているとだれかが言っていた。急くような心音がうるさい。
「トリガー角の侵食が進んでいる。俺たちの知る兄上は、もう、死んだ」
嗚咽にも似たなにかがくちびるからこぼれた。侵食。その症例を知っている。もう、死んだ。それが意味することもわかってしまう。この国の一端を支配する領主家に汚点があってはならない。廃嫡は、避けられない。
「……俺はすこし、自由に生きすぎたな」
ハイレインは、領主家の次男だ。嫡男の予備として育てられ、何事もなければ兵士として領主に恭順を誓う、そのために生まれた男だ。わたしも彼も、そのことは知っていた。わかっていた。彼が予備だからこそわたしたちは共にいることが許されていた。予備でなくなったのなら許されないのがこの国の道理だ。彼がおのれの力で得た悉くは、道理の前にがらくたとなる。
「……ハイレイン、」
「我儘に付き合わせた。すまない」
「いえ……いいえ、わたしのことは、いいの。でも、だって、あなたは――あなた、は」
穏やかな暮らしを好むひとだった。いつまでもこうしていたいと笑うひとだった。非情ではあっても闘争を望むひとではなかった。わたしはずっと、このひとは戦場よりも昼下がりの木陰がにあうひとだと思っていた。
それでもこのひとは、そうなるしかないのだ。そのために生まれ、育てられたこのひとは、そうしなければならない。自分を殺し望まれるままの役目を背負わなければ。領地のために生まれた人間だから。
よくまわる頭は領主という重い役目をじゅうぶんに熟せるだろう。けれど彼が慈しんだ日々は彼だけを置き去りにして過ぎる。彼だけが、穏やかな暮らしから遠ざかる。
「泣くな。おまえに泣かれると……困る」
彼はわずかに表情をゆがめた。彼がわたしのためにこころを動かすのは、きっとこれが最後だ。
頬が濡れているのを雨のせいにするのは難しかった。窓を越えて彼を抱きしめなければと思うのに脚は動かない。みっともなく震え、膝から崩れ落ちそうになるからだを支えるのに精一杯だった。
表には出ないはずの真実を告げる、彼の誠実さが苦しい。それだけの信頼を得ていたというよろこびが裏返れば、それでもわたしは領主となる彼のとなりに立てないという事実が残る。
わたしは――わたしが、彼をひとりにする。
ゆるやかに朽ちるように折れ始めたこころを自覚しながら思った。わたしは、国に抗えない。わたしは彼を見捨てるのだ。やさしいこのひとの意を汲むふりをして、ともに荊棘の道は歩めないと手離す。膝から力が抜ける。窓枠に、壁に縋るように凭れた。
「ハイレイン」
彼の名を呼ぶ声は無様だ。ごめんなさいと、謝った気がする。もうだれのために泣いているのかわからなかった。自由を奪われた彼のためか、彼を奪われた自分のためか。ただおのれの生まれを恥じた。彼と並び立てない身分と弱さを憎み、それでも焦がれた愚かさを嘆く。わたしとの記憶があなたを苦しめる。あなたを傷つける刃のひとつは、わたしがつくった。
かろうじて窓の縁にひっかかった手に、冷え冷えとした指先がふれる。
「おまえのしあわせを願っている」
穏やかな声が、さいごの言葉を紡いだ。
訃報が領地を巡ったのは長雨の明けた朝だった。時季外れの風邪を拗らせて儚くなったらしいと喪服の用意を整えながら母が言った。穏やかな暮らしを好んだひとが死んだことは、わたしだけが知っていた。