顔をあげ、頬に張りついた髪をはらう。座ったまま窓の向こうを覗くと、夏の
まとわりつくような暑気に息を吐く。空調の切られた教室はもはや心持ちではどうにもならない温室と化していた。開け放った窓も無意味だ。
それでも――夏は、嫌いではない。
少なくとも冬に比べれば。何もかもが色濃く、あざやかに照り返す世界は眩すぎるきらいがあるけれど、影は懐深くやさしい。朝も夜もきんと澄んで、どこまでも清らかな冬よりよほど呼吸がしやすかった。
凍てついた夜のなかに取り残されたときの、自分はどうしようもなくひとりきりだ、という感覚が遠い。夏は、ひとりでいることを許されるような気がした。体温に等しい熱に晒されて、内と外の境界が曖昧になるのかもしれない。
ぺたりと湿った肌に日誌は少しだけふやけていた。文字がよれて
教室にはだれもいなかった。人がいないだけで随分と居心地がよかったが、いつまでもここにはいられない。熱中症になる前に終わらせたいところだ。
がたん、と。
シャープペンシルを握り直すのと同時に、後ろの戸が揺れる。振り返れば磨りガラスの向こうにだれかが映る。身構える隙もなく、引き戸は無遠慮に開かれた。
「お、いたいた」
笑みを含んだ低い声が響く。くたびれた半袖のカッターシャツに黒のスラックス、学校指定の上履き。やわらかな鉛筆色の髪は気まぐれに跳ね、襟もとのボタンはみっつも外されていた。うっすらと照る肌は汗を滲ませている。
顔も名前も、知っていた。中学校は同じで、今はとなりのクラスの同級生。中学生だった三年間も、高校に入学してからの一年半も、親しかった記憶はない。そんなひとが、どうしていま、ここに。外し損ねた視線がぱちりと合う。木々のつくる影のような黒い瞳は静かに、そして確かに――私を捉えていた。
「だめもとで見にきて正解だったな」
呟くように言いながら、彼は歩き出した。等間隔に整えられた机の間を縫ってこちらへやってくる。頭蓋の裏でぐるりと言葉が巡った。あいさつか返事か、何を言うべきなのかわからない。
ぴたり、と私の前で彼が立ち止まる。席に着いたまま表情を伺うには高い身長だった。間近で見る彼はどこか冷たい面持ちをしている。顔のつくりが厳めしいわけではないから、温度のない瞳がそう思わせるのかもしれない。
口火を切ったのはやはり彼だった。ほんの数秒だけ窓の外に視線を流したかと思えば、凪いだ黒目は再び焦点を合わせる。
「なあ、」
と、彼は。
世間話のひとつでも始めるように、言った。
「イショの書き方、教えてくれ」
「え、」
間抜けな音がひとつ、くちびるからこぼれおちた。
くわん、と蝉の音と彼の声が混ざり合う。生温いはずの風が吹いた。ひとつも寒くなんてないのに、肌がぞわりと粟立つ。
イショ、いしょ――遺書。
真昼の教室にはおよそ似つかわしくない、からりと投げ出された言葉がようやく耳に馴染む。震えるような吐息に、いつのまにか呼吸を詰めていたことを知った。
無声で囁く。遺書。くちびるを噛んだ。かさりと乾いたそれを舌先で湿らせ、うだるような頭をどうにか働かせる。
「……からかってるの?」
いちだん低くなった声は自分でもわかるほど刺々しい。
どうして彼がそれを書きたいのかは知らないが、その言葉を私に告げた理由はわかっていた。瞳を伏せるように見遣った左手首の腕時計は、人前で決して外さない。
「いや? めちゃくちゃマジメだ」
へらり、くちびるがほどけて気の抜けた笑みが浮かぶ。そうすると軟派な印象が強まったが、黒い瞳だけは相変わらず静かに凪いでいた。冗談には見えない。
「みょうじって頭いいんだろ。中学んとき読書感想文で賞とってたよな?」
真意の読めない瞳が少しばかり細められる。問いかけに反射で頷けば、その笑みは深まった。
「じゃ、頼む」
あっさりと、わらって。彼は――太刀川慶は、こともなげに言い放った。
じとりとした熱が浸み込む。頭の奥が熱かった。
「……そういう悪ふざけは、きらい」
日誌を閉じ、横にかけた鞄をとる。乱雑に筆記用具を収めれば帰り仕度は整った。立ち上がった拍子に椅子が揺れる。
「あ、おい」
強くも弱くもない制止の声を耳に滑らせながら、引き戸へ向かう。廊下に出てぱたりと戸を閉めても、彼は追ってこなかった。
職員室で日誌を提出してから、戸締りをしていないことを思い出しておそるおそる教室に戻れば、そこにはだれの姿もない。一陣、強く吹いた風にカーテンがぶわりとふくらむ。
やっぱり――たちの悪い、冗談だ。
白昼夢に毒づくような気持ちで窓を閉め、カーテンをタッセルでまとめる。
目を向けた窓の外、遠くの空に黒点が浮かんでいたが、警報は聞こえなかった。
*
太刀川慶、というひとを認識したのは一年前の晩夏だった。
それまで全く関わりがなかったわけではない。机を並べたことはなくとも、三年も同じ校舎にいれば少し珍しい苗字や顔に見覚えはあったし、同じ高校に進学することも人づてに聞いていた。他の人たちから『ケイ』と呼ばれていることや、剣道で強いらしいことも知っている。
逆に言えば、知っているのはそれだけだ。
友だちではなく、知り合いですらない。ただ同じ空間を共有するだけの他人。校庭の木々のように、空に散った雲のように、背景を形作るもの。それが私にとっての彼であり、そしておそらく、彼にとっての私だった。
数十冊のノートを抱えて廊下を歩く。
節電のためか灯りは落とされ、薄く影が連なっている。雲が流れれば、夏を残した斜陽が射した。ときどき吹く風はわずかに冷たく、ひっそりと秋の気配が漂う。
放課後であることを差し引いても、校舎に人は少なかった。東三門からの編入生と三門を出ていく生徒はほぼ同数だったが、夏休みのあいだに均衡が破れたらしい。空席は既に片付けられ、ぽっかりと広くなった教室を持て余している。
窓の外に目を向ければ、自然にはありえない、とにかく巨大な黒が
数ヶ月前まで影も形もなかったそれは、いつのまにか風景の一部になっていた。既に建設の大半を終えて、防衛機関として稼働している。十代の若者を中心に新しい隊員を募集するとも発表があった。ニュース番組で流し見た情報をなぞる。
知識として蓄えてはいたが、ボーダーに対してことさら興味があるわけではない。住んでいる街のことだと理解していても、どこか別の国の物語を読んでいるような心地になった。
自分の身に降りかかる火の粉がなければ他人事にしかならないのかもしれない。私も家族も、この学校に今も通う生徒のほとんども、直接の被害は受けていない。
職員室へと続く突き当たりを曲がれば、それはもう見えなかった。
ノートを片手に抱え直し、戸をノックしようと空いた手で拳をつくったところで――がらり、と内側から開く。
視界にはくたりとした白いシャツに覆われた背中があった。下に着ているらしいTシャツの英単語がうっすらと透けている。校則違反だ。
「あ、そういやセンセー。俺、ボーダーに入ることにしたんで」
出入り口を塞ぐ背中になにか言う前に、あっけんからんとした声が響いた。
ボーダーに入る。同じ高校に通う生徒が、『あちら側』に。言葉が耳を滑る。聞き覚えのある声だった。思わず顔をあげ、そのひとを見た。
私はこのひとを知っている。顔も名前も、だいたいの家の方向も、同級生と笑い合っていた姿も。
全てを知っているとは言わないけれど、私と同じだとも思わないけれど、でも、目の前にいるこのひとは『こちら側』のはずだった。
「おっと、わるい」
だれの反応も待たずに踵を返した彼と、ほんの数センチ残してすれ違う。ちらりとも向けられなかった視線はどこか遠くを見つめている。
笑みが浮かんでいた。このうえなく楽しそうな、私の知らない顔。どうしてか――はじめて、彼を見たような気がした。
「太刀川! ちょっと待ておまえ、ボーダーって、」
慌てたような声が職員室から響く。彼は立ち止まらない。軽やかに離れていく背中は、どこまでも自由だった。
視線を交えたわけでもないほんの数秒。けれど彼の言葉と、遠ざかる後ろ姿は、
あるいは憧憬にも近く――あくまでも、私とは違うものとして。
彼は、どうして遺書の書き方を教えてほしいだなんて言ったのだろう。
窓の向こう、ちょうど校舎の反対側を歩く横顔を見つけて足を止める。友だちだろうか、だれかと話している。声が届くことはないが、笑っていることはわかった。
少なくとも、死を
だから数日前のあれは冗談だったのだろうと、そう思うのだけれど。ざわついた心が落ち着くにつれ疑問が育つ。
からかうことが目的なら、どうしてうわさのことを口にしなかったのか。遺書の書き方を教えてほしいなんて告げるのは回りくどい。もっと直接的な言葉で傷つけることだってできた。
もしかしたら。彼は、ほんとうのほんとうに――遺書の書き方を教えてほしいと、ただそれだけを思って、私に声をかけたのだろうか。
ふざけているように見えたけれど、嘘ではなかった気がする。凪いだ黒い瞳に窺い知れない何かはあっても、悪意はなかったように思う。
だとしたら、どうして彼は、遺書を書こうとするのだろう。
ボーダー隊員は特殊な技術のおかげでネイバーと戦っても傷つくことはないらしい。遺書を用意する必要なんてないはずだった。
彼の横顔に問いへの答えはない。視線の先、彼は職員室に入っていった。
*
西向きの窓からまばゆいほどの夕日が差していた。廊下には遮るためのカーテンもない。じめりと纏わりつく湿気にうすく汗が滲む。期末テストを終え、放課後の校舎はほんのわずか騒々しさを取り戻していた。
遠くから吹奏楽部の演奏が聞こえた。夏にもコンクールがあるから大変、そう教えてくれたのは数少ない友だちだ。赤点もなさそうだし部活に専念できる、と笑った彼女の音色もこのなかにあるのだろう。
夢中になれるものがあるのはうらやましかった。学校でも家でも勉強ばかりしている。勉強が嫌いなわけではないけれど、ただ楽しかった頃は遠い。部活に入っていればこの生活も違っていたかもしれない。入学したときはそんなことを考える余裕もなかったけれど。
気怠い暑さにため息を吐く。生徒玄関はもうすぐそこだ。いつものように図書室で暇を潰し、だからほかの生徒はいない中途半端な時間――の、はずだった。
「よお」
彼は、驚きも喜びもない平坦な声でそう言った。感情の読めない瞳が私を見つめている。やはりくたびれた白いシャツがスラックスから飛び出していた。エナメルのバッグを肩にかけ、ちょうど私の下駄箱がある位置に背を預けている。西日と蝉の音が反射した。
この数日、頭のなかを占めていたひとが目の前にいる。返事に迷った一秒で、彼は続けて口を開く。
「こないだの、怒らせたんなら悪かったな。たぶん俺が悪いって、迅に言われた」
本当に悪いと思っているのかいまいちわからない、へらりとした笑みを浮かべながら彼が言う。ジン、というのはどこかで聞き覚えがあった。
「……どうして、あんなこと言ったの? その、書き方を教えてほしいとか」
会話をするには遠い距離を詰められないまま、いつもより少しだけ声を張って問いかける。
「書きたいと思ったから以外にあるか?」
きょとんとした顔がわずかに傾ぐ。なんでそんなことを聞くんだ、と言わんばかりの態度だった。
「……そっか」
欲しかった答えではない。まったく理由にもなっていない。けれどそれが彼にとっての当たり前なのだ。そう思えばすとんと腑に落ちた。
彼がやりたいと思えば、それはきっとただひとつの理由に成り得る。あの日の背中は、だから、あんなにも自由だった。だれのためでもなく、自分がそうしたいからするのだろう。やっぱり私と彼はちがういきものだ。
「でも、」
否定の枕詞にも彼は笑みをたたえたままだった。穏やかな、とは決して表現できない。それでもどこか静かな笑み。
「……書いたことは、ないから……期待には添えないとおもう、よ」
最後はほとんど吐息に紛れるような声量になった。聞こえなかったのか、彼がますます首を傾ける。
「その……期待してるかもしれないけど、書いたことなくて、遺書。だから……」
喉の奥が乾いていた。少しずつ頭に集っていく熱が暑さのせいなのか、それとも他の何かのせいか、そんなことさえわからない。ただひどく、情けなさが募る。
冬の夜の。あのさみしさと――どうしようもなさを、思い出す。
「いや、そこは別に期待してねえけど」
「え、」
ぽかん、とひらいたくちびるから音がこぼれる。
数秒、そうしていただろうか。ひらひらと目の前で手を振られて、それで正気に返った。
「で、でもだって、じゃあ、どうして?」
意図せずして裏返った声を笑うでもなく、彼は振っていた手を顎に添えた。ううん、とかすかに唸り、何かを思い出すように視線を宙へ投げる。
「読書感想文で賞とってたから、って、言わなかったか?」
「言って、たけど。でも、それは……待って、うわさは知ってるんだよね?」
ぱちり、と瞳が瞬く。
「うわさってなんだ?」
一瞬、彼はいじわるで訊いているのかとも思った。けれどほんとうに不思議そうに私を見つめる瞳に悪意はない。何を考えているのかわからないにしても感情を伺うことはできる。
「だから、」
言葉にするには相応の覚悟が要る。いつのまにかつくっていた拳のなか、やわい手のひらに爪が刺さった。
ふかく息を吸って。不釣り合いな小声で囁く。
「……自殺未遂、の」
ほんのすこし。苛立ちにも似たなにかが胸を掠めた。彼へ向けてではない。これをうわさする人たちへ、でもない。ただ自分自身に対して、こころがささくれ立つ。
爪先を見つめる。上履きのなかで指を曲げる。地面がぐらぐらと揺れているような気がした。
「あー、そういやそんなのもあったな」
思い出した、と言わんばかりの呑気な声に、ぽむりと手を打つ音が重なった。
「まあいいや。書いたことなくても俺より頭いいのは変わんねえだろ。遺書も作文も一緒だ」
なにをいってるんだこのひとは。
びっくりして顔をあげれば、十数秒前と何ら変わりのない彼が私を見下ろしている。
遺書と作文が同じなわけがない。思いの丈を綴るだろう遺書と、問いに対しての答えを書く作文は違う。たぶん手紙とかのほうが近い、はずだ。
でも――もしかして、一理あるのだろうか。堂々と言い切った姿に否定が霞んでいく。
「……待って。一緒なら書き方わかるよね」
「んん?」
彼の表情が、ここで初めて大きく崩れた。信じられないものを見るような目が何よりも雄弁に驚きを語る。
「いや、作文の書き方はわかんねえだろ」
「え……いや、だって、小学校でも中学でもやったでしょ」
「やったか?」
「や、やったよ」
少なくとも中学は間違いなく。読書感想文は夏休みの宿題だった。混乱する私をよそに、彼は少し眉を寄せて数秒だけ考え込んだ。
「覚えてねえな」
そんなこと、あるだろうか。やっぱり彼はからかっているのか、と疑念が首を擡げる。だとしたら私は人を見る目がない。
「そういや、何点だった?」
「何が……?」
「現国のテスト。返ってきてんだろ」
「返ってきたけど、」
「俺はニジュウニ点だった」
「…………七十二点?」
一瞬、二十二点と聞こえたけれど、そんなはずもない。暑さのせいでぼんやりしていたのかもしれない。
「二十二」
「……」
「みょうじは?」
「……九十八点」
「俺の三倍くらいあんな」
「四倍以上だよ」
二十二点。受けたテストが違うと言われた方がまだ納得できる。けれど彼のクラスも私のクラスも現国の担当は同じだ。にじゅうに。なにをどう間違えたらそうなるのかわからない。ボーダーの呼び出しがあったとか――いや、それならそもそも点数が出ないはずだ。忙しくて寝てしまったとか、解答がひとつずれていたとか、そういうことだろうか。
「まあ、前よりは良かったな」
「ちょっ、ちょっと待って、前って中間テスト? じゃあ中間は……」
「十八点」
「あか、赤点じゃないですか」
「二十二点も赤点だけどな」
ははは――と彼は他人事のように笑った。
「な……なんで……」
「どうだ、ちょっとは教える気になったか」
かたん、と下駄箱から背を離し、彼が一歩近付く。彼にとって、テストの点数は些事らしかった。進級も危うい点数だと思うのだけど、それを気にした様子はない。
「……遺書とかよりも、勉強したほうがいいと思うんだけど、」
「じゃあついでに勉強も教えてくれ。来週再試があんだよ」
頼む、と静かな声が続ける。
断ることは簡単だ。断った方が平穏だ。私と彼が、根本的に、何もかも違うことはもう十分にわかった。別に彼が赤点をとっても留年をしても私の人生に何一つとして影響はない。
「……ま、嫌ならいいけどな」
彼は踵を返した。一歩、二歩と遠ざかる。かたかたと
「じゃあな」
からだの内側、胸の底にたゆたうこの熱は、気怠い暑さのせいかもしれない。ここで何もしなくたって、それを責めるひとはいないだろう。何かしたって、褒めてくれるひとはきっといない。
――でも。彼が真実、死を臨む場所にいて、遺したい言葉があるとしたら。
靴を履き替える時間も厭わしくて、そのまま駆け出す。
「たっ、太刀川くん!」
けたたましい足音に初めて呼ぶ名前を重ねれば、彼はぴたりと立ち止まって振り返った。深くて暗い、けれど恐ろしくはない木立の影のような瞳が、じっと私を見つめる。
「……教える。勉強も、書き方も……ちゃんと教えられるかはわからないけれど」
は、と勢い余った呼吸がこぼれおちた。
影のような瞳がやわく細まる。くちびるは弧を描き、彼はにやりと笑った。楽しげな――あの日と同じそれが、私に向けられている。
「よろしく頼む」
夕日が彼の笑みを彩っていた。じわりと一拍遅れて汗が滲み、鼓動はわずかに逸る。
焦がれるような夏のなか、私は彼の遺書に付き合うと決めた。