「夏目はさ、結婚とかしないの?」

 室内に響くのはスピーカーから聞こえる知らないアーティストの声と、無機質な電子音。決して広くはないカラオケのルーム内。先ほどなまえが歌い終わって、順番的に次はボクの番。タッチペンを手に取り、曲を選ぶボクを見つつ突然そんなことを言い出した彼女に、思わずボクはほんの少しだけ息を詰まらせた。

「何デ」

 けれど、それはあまりにも一瞬のことだった。こういうことにももう慣れた、と本当は言えればいいのに、実際まだまだ反応してしまいそうになる自分が情けない。
 それでも彼女は特に変な動きを見せなかったから、きっと気のせいだと思ってくれただろう。わざとぶっきらぼうに言い放ち、尋ねてきたなまえには目もくれず、じっと手元の画面を見つめたままタッチペンを動かす。

「だってそろそろいい歳じゃん」
「他人のこと言う前に自分はどうなのサ」
「え、わかってるくせにわざわざ聞く?」
「やっぱいいヤ」
「だよね」

 交わされる会話の中に間なんてものは一切生じない。当たり前だ、会話の中でどう返してくるかということも含め、なまえのことなんて聞くまでもなくわかっている。彼女が二次元に夢中ということも、そういうことを考えられないということも、現状それで満足しているということも。
 けれど、ボクはそうじゃない。占いとアイドルで手一杯なんて言い訳を作っていたのも遠い遠い昔の話だ。ボクはあの頃からずっとなまえが好きだ。それが決して報われることのないとわかっていても、結局この気持ちを諦めることは出来なかった。

「相手がいるいないに関わらずさ、結婚願望とかないの?」
「ボクはアイドルだヨ」
「関係ないよ、そんなこと。それに今はそんな時代でもないでしょ」

 突かれた言葉にぐ、と押し黙る。アイドルが恋愛禁止なんて一昔前の話だ。発表の仕方やタイミングなど色々あるかもしれないけれど、今の時代で全面的に恋愛禁止を掲げるところは多いとは言えない。くそ、こういうときだけ無駄にぽんぽん言葉が出てくるんだよななまえ。あ、オタク話してるときも早口だったか。
 ボクの気持ちなんて知りもしないで、どうなの? とにやにやと聞いてくるなまえは本当にたちが悪い。これで相手がセンパイだったらとっくに殴ってた。

「ないヨ、そんなもノ」

 それでも観念して答えてしまったのは、自分の弱さを隠すためかもしれない。報われることのないなんて、そんなのボクが諦めずに戦っていればもしかしたら何か変わっていたかもしれないのに。まあそんなものはどうしたって想像つかないし、これでいいと諦めたのもボク自身だけど。 

「え、マジで!? ないの!?」
「そんなに驚ク?」

 嘘はついていない。少なくとも、今のボクに結婚願望なんてものはないから。けれどもし、もしも。なまえとの未来があれば、なんて。しつこいくらい何度もこんな風に考えてしまう自分の女々しさに腹が立つ。しかしなまえのこの驚きよう、ボクにそれがあると思っていたのだろうか。
 ようやく画面から目を話して訝し気になまえを見れば、彼女はだって! とつまらなさそうに口を窄めた。

「夏目の結婚式でスピーチすんのが夢なんだよ私!」
「……ハ?」
「そりゃあ人前に立つのは恥ずかしいですけど!? でも絶対にその座は譲れないね!」

 訳が分からない。なんだそれが夢って。潰えてしまえそんな夢。ていうか自分で言ってる通り、なまえは人前に立つの嫌いなくせになんでそんなことを。昔からそうだったじゃん。例えばクラスの実行委員を押し付けられたとき、班の代表として調べた内容を発表するとき。いつもなまえは心底嫌そうにため息をついて、必ずボクに「代わって」と駄々をこねていた。もちろんそれを許したことは一回もないけれど、なんだかんだ手伝ってあげていたボクは、あの頃からずっと彼女に甘いのかもしれない。

「……絶対ヤダ」
「え」

 けれど多分、今のボクの声はそれこそ子どものようにむくれたものだっただろう。それでもいい、だって今のはなまえが悪い。
 ハア、と深く息を吐いて、タッチペンを投げ出して深くソファに腰掛ける。なまえの顔を見たくなくて正面のモニター画面を見やれば、今度は最新デビューしたという女性アイドルグループがそれっぽい自己紹介をして、アイドルらしく笑っていた。

「なんで!」
「自分で考えたラ」

 ぎゃあぎゃあと騒ぐなまえの言葉をすべて無視して、テーブルの上で水たまりを作っているグラスを手に取る。すっかり汗をかいたそれの中には氷なんてとっくの昔になくなっていて、薄まったウーロン茶がボクを見て笑っていた。

「絶対にスピーチなんてさせなイ。そもそもなまえが招待客にいることなんてありえないかラ」
「何それ、私を誘わないってこと? ……さすがに酷くない?」

 ぴり、と一瞬にして空気が張り詰める。気のせいなんて誤魔化すことも難しいくらいで、ボクはせっかく手に取ったウーロン茶を飲むのを諦めて再びテーブルに置く。痛いくらいの視線を感じてなまえを見れば、彼女はいつものゆるりとした笑顔なんてどこかに置いてきたように静かにこちらを見つめていた。

「……何」
「私は、夏目の親友なのに」

 「親友」その言葉がずん、と重くボクの胸に突き刺さる。親友を名乗る彼女は、人前に立つという苦手なことさえも振り切ってスピーチがしたいのだろう。それほど、その位置が居心地よく、満足しているのだろう。悲しいことに、苦しいことに。
 スピーカーから流れるBGMはいつの間にかゴリゴリのバンドサウンドに変わっていた。笑ってしまうくらい不釣り合いなこの空気が音を潰してしまったのか、なまえと互いを見合えば見合うほど、音が遠くなっていく。重たいベースの音だけがいやに空間に響いて、ごくりと唾を飲み込んだ。
 瞬間、ぐん、と目の前になまえの顔が近づいた。

「……なんてね!」
「……ハ?」

 先ほどまでの冷たい空気を切り裂くようにバカみたいに明るい声を発して、彼女はにぱりと笑った。

「じょーだんだよ! 何、まさか本当にキレてると思った?」

 まるで、花が咲いたように。
 びっくりしたっしょ! なんて悪びれる様子もなく言う彼女は、微動だにしないボクが大層驚いたと思ったのだろう。実際そうだ。そういう意味も含めて、ボクは動けなかったのだから。
 驚いた、驚いたよ。まさかそんな、キミがボクにとって地雷の冗談を言うなんて思わなかった。スッと身体の奥が冷えていくのを感じる。けれどいくら地雷だと言っても、それはボク個人の問題でなまえには関係ない。関係ない、のだ。残念ながら。

「……なまえのくせにボクを騙そうとカ、生意気」

 絞り出した声は多分、おそらく、普通に言えていただろう。こちとら一応俳優としての仕事もしているんだ、自分の心を殺すことなんて造作もない。

「うっさい、そっちが先に冗談言ったくせに」

 ぶう、と頬を膨らませつつも、彼女のそれは本気で怒っていない顔だ。だってボクのあの発言は、なまえにとって当たり前のように「冗談」という枠組みに置かれてしまったから。
 冗談じゃないなんて言ったら彼女はどういう反応をするだろう。招待客にいることがありえない、招待する気がない。それが本気なんて知ったら、どう思うだろう。子どものように泣き喚くか、大人のフリをしてそうなんだ、と静かに笑うか。……どっちでもいい、考えたって、真実を告げる気はない。今の「冗談」もボクの感情もすべて、この冷えてしまった胸の奥にしまい込んでおく。深い深い心の中で、もう二度と出てこないように。これ以上、生まれてこないように。

 突然、部屋の中が一瞬静寂に包まれた。と思った瞬間、ひどく爽やかなイントロが耳に流れ込む。モニター画面を見れば、そこには曲名やアーティスト名が表記されていて、よくあるいつ撮ったのかわからないレベルの古いカラオケ映像が流れ出した。いつの間に曲を選んだのだろう、未だ流れる長いイントロでリズムを取りながら、なまえはマイクを手にして笑っていた。ちょっと、次ボクの番なんだけど。

「ごめん先入れちゃった。これ最近ハマってるんだよね」

 ごめんなんて言いながら全く悪いと思っていない。ボクだって気にしてないし、むしろ今は到底歌う気分なんかじゃないから別にいいけど。ボクが頷いたそのタイミングで、ぴったりとイントロが終わる。なまえはその薄紅色の唇をゆっくりと開けて、ひとつひとつの音を紡ぎ出した。
 ――ああ、なんだこれ。イントロだけ聞けば夏のサイダーのように、爽やかすぎて眩暈がするくらい。だけど実際イントロが終わってみれば、その歌詞は吐きたくなるくらい切なくて苦しいもの。所謂、最近流行りのやつだ。爽やかで明るめなメロディーラインに乗せて歌う、泣きたくなるくらいの失恋ソング。何でそれをこのタイミングでキミが歌うんだ。むしろボクが歌いたいくらいだよそれ。
 なまえの柔らかい歌声がふんわりと耳を揺する。「さよなら もう君のことは忘れさせて」ってどの口が言ってるんだ。悔しくて、泣きたくて、虚しくて、叫びたくて。唇をぎゅっと結ぶ。女々しいと言われても仕方ない、それほどなまえが好きだった。

「さよなら もう君のことは忘れさせて」