小さく息を切らして階段一つ一つをゆっくりと昇っていく。ESビル、お金はあるんだからあと一台でもいいからエレベーターの数を増やしてほしい。階層がかなりあるうえにビルの利用人数が多いからあのエレベーターの数じゃとてもじゃないけど回らないよ。現にエレベーターに人数オーバーで乗れなくて、待てど暮らせどエレベーターが降りてこなかったことを経験したわたしが、こうして死にそうな思いで階段を昇っているのだから。ああしんどい、5階層分昇っているのだから、こればっかりは日ごろの運動不足だけが原因ではないと思う。
 ようやく目的地にたどりつき、そのひらけた空間に出た私は突然襲ってきた陽の光に思わず目を細めた。今日はいい天気だ。最近少しずつ寒さが和らいでいるから、冬は水浴びを控えているという彼がここにいるというのもまあ頷ける。頷け……るのかな。普通は頷けないよな。プロデューサーとして働き始めて数年、私もすっかりこの環境に慣れてしまったようだ。慣れって怖い。

「深海さーん」

 広い空中庭園の中、彼の名前を呼びながら真っすぐと進む。どうせ彼がいる場所なんてこの中でひとつしかないのだから、今のうちから呼んでおけば早々に水から出てきてくれるかもしれない。ちなみにこれは九割淡い期待である。

「深海さん」

 やがてその姿を見つけて、わたしはもう一度名前を呼ぶ。空中庭園の中の綺麗な噴水、その淵に腰掛けてちゃぷちゃぷと足を水に浸けている彼が声に呼応するようにゆっくりと私を見た。が、返事はない。反応したから明らかに聞こえているはずなのに、彼のその整った唇は未だ結ばれたままだ。

「深海さん」

 近づきながら名前を繰り返す。返事はない。しびれを切らしてイラつきが出るのを抑え、もう一度と思ったととき。ふと彼の頬がぷう、と小さく膨らんでいるのが見えた。子どもみたいな怒り方をして、子どもみたいに感情がわかりやすい人だ。彼が返事をしない理由、不機嫌な理由。つまりはそういうことなのだろう。

「……奏汰さん」
「はい、なんでしょう〜」

 あまり呼びたくない、けれど呼ぶしかない。意を決して名前を呼べば、深海さんは先ほどまでのだんまりが嘘のようにあっさりと口を開いて柔らかく笑った。
 どうしてかは知らないが、わたしはこの深海さんにいたく気に入られているらしい。いつか「なまえでよんでください」なんて言われたことがあって、それから深海さんって呼んでも返事をしてくれなくなった。しかし立場上、というか周りの目があるから私が馴れ馴れしく彼だけ下の名前を呼ぶなんてわけにはいかない。さすがに仕事の現場では他の『流星隊』のメンバーがフォローを入れたりしてくれているけど、いつかお偉いさん方の耳に入ってしまうんじゃないかとこっちはいつもヒヤヒヤしている。
 確かに『流星隊』のプロデュースは他のユニットに比べて多くやってきたとは思うけれど、彼に私が気に入られる理由がいまいちわからない。何だろう、私海の匂いとかするのかな。
 そんなことを考えつつ、私は小さく息を吐く。ここに来てようやく階段の息切れがなくなってきて、やっぱり運動不足が招く体力のなさが顕著に出ていることを痛感させられた。

「流星隊のレッスンの時間ですよ」
「うふふ、そうですね〜」
「そうですねって……私守沢さんたちに深海さ……奏汰さんを連れてくるように頼まれたんですから。ほら行きますよ」
「え? ああなるほど……。ちあきも『れんらく』してくれればいいのに」
「本当そうですよ、とにかく頼まれたからには私が連れていかなくちゃいけないので立ってください!」

 とはいうものの。深海さんは何故か一向にそこをどこうとしない。いやなんで? 今絶対わかったような言い方したよね? 私が無理やり連れていきたいのはやまやまだが、なんせこの男、こんなに可愛い顔をして図体は普通にデカい。立派な成人男性くらいはある。私ごときが連れていけないのなんて目に見えている。

「……奏汰さん」
「もうちょっとぼくとここで『おはなし』しましょう〜」
「いやだからレッスン……」

 一体どうしたというんだこの人は。変なところはめちゃくちゃあっても、レッスンを無意味にサボるような人ではないと思うんだけど。(まあ夢ノ咲時代には色々あったらしいが)何を言っても動いてくれなくて、どうしても動いてくれなくて。仕方なく守沢さんに電話しようとホールハンズを取り出したら、珍しく俊敏に動いた深海さんにあっという間に取り上げられてしまった。その動きでレッスン室まで行ってほしい。
 いよいよどうしようもなくなってしまって、私は観念したように彼の隣に腰掛けた。お尻から伝わる石の温度は季節相応にひんやりとしていた。

「どうしたんですか奏汰さん」
「うーんそうですねえ。ちょっと『もったいない』とおもっただけです」
「勿体ない……?」
「だってきょうはあなたの『たんじょうび』じゃないですか」
「え」

 ふわりと笑われて、私は思わず素っ頓狂な声を上げる。確かに今日は私の誕生日だ。けれど、まさか覚えてもらえているとは思わなかった。去年は確か所属するスタプロの事務所でささやかにスタッフ何人かにお祝いしてもらえた記憶があるけれど……ああでも通りかかったアイドル何人かはおめでとうって言ってくれたなあ。明星さんとか風早さんとか。私は自分の誕生日について言及した覚えはないし、そこから漏れたとか? いや私の誕生日を広める理由ある? アイドルならともかく、ただのしがないプロデューサーである私の。

「ええと、奏汰さん」

 その時、軽快な電子音が辺り一帯に鳴り響いた。びくりと肩を揺らした私に対して、深海さんは驚いた様子もなくその音の発信元を取り出す。深海さんの着信音がデカいのは何回鳴らしても気づかないからだと昔誰かから聞いた。

「はい、ぼくです。ちあきですか? はい、あいましたよ〜。え、もうですか? むう……『しかたない』ですね。わかりました。はい」

 ピッ。あまりにも簡潔に終えた電話に何と言っていいのか。しかしまあ、守沢さんから電話があったのならさすがに深海さんも向かってくれるだろう。というかだったら最初から電話で呼んでくれ。私がここに来る意味なかったでしょ絶対。
 深海さんははあ、とため息を吐くと、やがてその足をゆっくりと水の中から引き上げる。慌てて私が準備していたタオルを差し出すと、ありがとうございます、とお礼を言ってからその白い足をタオルで包んだ。

「『ふかふか』ですね〜」
「良かったです……」
「『ふかふか』なのはうれしいですけど、あなたを『ひとりじめ』できなくなったのは、やっぱりすこし『さびしい』ですね」
「はい……ん? え?」

 彼の言ったことが理解できなくて、もう一度え? と情けない声が口から飛び出す。しかしそんな私を全く気にせずに、深海さんはタオルで足を拭き終わると立ち上がり、そしてそのまま私の手をぎゅっと握った。

「さあ、『ぱーてぃーかいじょう』へいきますよ〜」
「パーティーかいじょ…!? は!? ちょっと深海さん!?」
「かなたです」
「奏汰さーん!!」

 立ち上がって、引っ張られて。私があんなに苦労して昇ってきた階段を一気に駆け下りる。なんだこの強引さ、なんだこの素早さ、なんだこの無茶苦茶感。でも不思議と、私の胸は期待と歓喜で満ち溢れていた。それは先ほどの誕生日を知ってもらっていたことが原因か、電話の後のセリフが原因か、あるいはそのどちらもなのか。繋いだ手から伝わる深海さんの体温があたたかくてつめたくて、私の思考を鈍らせる。
 階段を降りて、降りて、今日の私のミッションのスタート地点である『流星隊』がいるレッスン室の前へとたどり着く。あけますよ〜なんて笑う深海さんは、私の気持ちなんて何も知らないのだろう。
 五人の「ハッピーバースデー」が聞けるまで、あと。