「うんうん! だって僕は、みんなを愛しているからねっ!」

 ああ、また言ってる。

 盛り上げようとするお笑い芸人さんや、ふわふわとした雰囲気を持つ可愛らしい女優さんの声が響くバラエティ番組のセットの中で、彼はにこにこと笑っていた。もう仕事現場で何度耳にしただろう、その「愛してる」の響きが左から右にするっと通り抜けていく。斜めにかけた、めいっぱいのメイク道具を詰め込んだポシェットがやけに重たく感じる。中に入った薄付きリップは、彼の唇の上で淑やかに光っていた。

 贅沢なのかもしれない。ただの一端のヘアメイクである私にとって、あの巴日和と付き合っているという事実は、それだけで十分なはずなのだ。なのにそれ以上、を望んでしまうのは、やっぱり欲深い人間というものだからだろうか。
 巴さんはかっこいい。それはこの国を代表するアイドルの一人といっても過言ではないくらいの人だから当たり前なんだろうけれど、お金持ちで、何より性格がいい。……いや、性格がいい、と一概に言ってしまうと一部の人間は首を傾げるかもしれないが。性格に難はある。少し変わってるし、わがままだし、随所随所でうるさいし、相棒である漣さんが世話を焼くのもわかる。けれど、巴さんはいつでも、周りの人を太陽のように優しく照らしてくれた。私は、巴さんのそういうところに惹かれてしまったのだ。

「愛してるって言われたい」

 それこそ「おひいさん」といっていいくらいのわがまま。小さな呟きが口をすべって、虚空へと身を投げた。すぐにはっと我に返って、慌ててメイク道具を鏡前に広げる。危ない、今のは誰かに聞かれていたら絶対重たいって思われるやつだった。入り時間より早めに来て準備しようとしていた今のタイミングで良かった。これが巴さんのメイク中とかライブ直前の人が多いときだったら、間違いなく私は仕事を辞めていた。
 しかしまあ、無意識にそんなことが口から出てしまったということは、私も相当きているのかもしれない。私の頭の中は、常に贅沢すぎる悩みでいっぱいなのだ。
 巴さんは彼女である私に対して、愛を伝えたことがなかった……と思う。多分、私の聞き逃しがなければ。そりゃあ、普通は「愛してる」なんて軽々しく言える言葉じゃないし、そんなこと気にならないだろうけど、私は相手があの、「愛してる」という言葉が定型文化している巴日和だからこんなにも悩んでいるのである。『Knights』の月永さんほど「愛してる」のバーゲンセールはしてないけれど、普通に安売りくらいはしているんじゃないか。

 付き合ったのは、数か月前。あの時告白をしたのは私で、好きだと告げた後に「先に言うのはずるいね」と言われた。あの時のことは多分一生忘れない。それほど衝撃的で、幸せだった。でも、あれ、そういえば。好きだって、巴さんに言われたことあったっけ。

「ライブ前なのにそんなどんよりした顔しないでほしいね!」
「ひっ!?」

 聞こえたその声に対して、一方の私は喉の浅いところから掠れたような音を出した。声の方を見ると、そこにいたのは今の私の頭の全部分を占めている巴さん本人そのもので、ふわふわの髪を揺らした彼は、私をみてぷんぷんとでも効果音が付きそうなくらいに可愛く怒っていた。

「ため息をついても幸せは逃げるけれど、つかなくても暗い表情をしていたらそれだけで悲しくなるね!」
「ご、ごめんなさい! いやていうかあれ、巴さん入り早くないですか?」
「元々早めに来ようと思っていたんだけれど、少し早すぎたね。でも君がいたから驚いたね!」
「私も早めに準備しようとしてて……」
「ふうん、スタッフさんは僕らより入りが早いのにさらに早くなんて大変じゃない? そんなに頑張ったら身体を壊してしまうね」
「いやいや、私たちも巴さんたちの忙しさには負けるので……」

 常にあちこちを飛び回っている『Eden』のことを思いながらそう言えば、しかし巴さんは「忙しさは人と比べるものじゃないね!」なんて言いながら鏡前の椅子ではなく、楽屋の中央にあるテーブルに備え付けられた椅子に腰を掛けた。

「先にメイクしましょうか?」
「ううん、あとでジュンくんが来たら一緒にやってもらうね。僕はもう少しこのまま君を見てるね!」
「なんで見てるんですか……見られてるとやりにくいんですけど……」
「この僕に見られてるんだから光栄に思うといいね!」

 全くこの人は。でも多分、そういうところも含めて皆に慕われているんだろうな。
 私たちが無駄に早く現場入りして一緒にいることで変な噂(といっても事実だけど)を流されても困るけど、それでもこの人には何を言っても無駄なことはわかっている。巴さんはことあるごとに色んな現場でヘアメイクに私を指名してくるから、なんだかひそひそ言われてるときもあるけど……。まあ今のところはきっと大丈夫なんだろう。巴さんは意外と状況判断や打開がうまいタイプだし。

「というか、敬語はやめてっていつも言ってるよね?」

 いそいそと準備を再開した矢先、巴さんはぴしゃりと言い放った。鏡越しに見えるその表情はぷう、と頬を膨らませていて、不機嫌をめいっぱいに体現していた。

「……誰かに聞かれたら、と思って」
「今は僕しかいないね!」
「あー……うん、ごめん」

 私がそう言うなり、巴さんは膨らませた頬を一気に萎ませて、それでいいね! なんて嬉しそうに笑った。なんだか色々一方的な気がするけど、別に言いなりになっているわけではないし、私自身ちょっとこれが楽しかったりする。
 だから先ほどのため息のことなんかすっかり忘れて、足取りも軽くメイクの準備をし、ついでに今日のタイムスケジュールも確認していた。ご機嫌だったのだ、重さなんて忘れるくらいに。だからこそ、突然の思い出させるような言葉に対処しきれなかったんだと思う。

「ところで、さっきはどうしてあんなに落ち込んでいたの?」

 え、という声も出なかった。触れてほしくなかったんじゃない、本当に忘れていたのだ。けれど触れられてしまったからにはもう取り返しがつかない。だってついさっきまで。巴さんが来るまで、私の脳内はたったひとつのことで埋められてしまっていたのだから。

「ええ、と、」

 まずい、と直感的に思った。それは先ほどまでの考えを思い出させられたからではない。触れられてしまって、私が本音を隠し通せる気がしなかったからだ。だって今日の私は、いやに口を滑らせる。
 漫画で見るような、わざとらしいくらいの冷や汗は出ていない。身体の震えもない。呼吸だって正常だ。けれど心臓だけがばくばくといつもより何倍も早く打ち付けられている。体のいい言い訳が、理由が、一ミリも頭に浮かんでこない。何を、何かを、彼に、私は、

「……いや、ごめんね。今のは僕がずるかったね」

 私が何かを言わなくちゃいけない沈黙だった。そのはずだったのに、静寂を切り裂いたのは問いかけてきた彼の声であった。

「本当は聞いていたんだよね。聞こえていたんだよね、君の言葉。けれどそれを最初からきちんと、確かめたくて。僕に対しての、ものなのか」
「……え」
「けど、今の君の反応を見て確信したね」

 もはやなんの言葉も出てこなかった。いや、先ほどから何も出てきていないが、もはやそれとは違う意味で私は言葉を失っていた。
 聞こえていたって、だって巴さんに向けて放ったものじゃない言葉なんて、この数分間の中ではほぼ一つに絞られてくる。聞いていたの? 私の恥ずかしい呟き。それを聞いていたうえでさっきの質問を私にしてきて。ちょっと待って、ちょっと待って理解が追い付かない。制御できない感情と情報が頭の中を駆け巡って、その量の多さと反比例するように喉がからからに乾く。「ごめんなさい」と今の私に言える言葉はきっとそれしかない。

「僕はなまえちゃんを愛しているね」

 それしかないから、私が早急にそれを告げて、あやふやにしてなかったことにしようと思っていた。けれどその考えは思っただけで消えてしまった。

「え、あ、え、」
「母音しか話せなくなったの?」
「ええ……」

 急すぎる展開に、求めていた愛の言葉に、私の思考はすべて持って行かれてしまった。冷静な巴さんのツッコミに返す余裕もなくて、まるで餌を求める金魚かのようにぱくぱくと口を動かす。単純に今の流れとかその場しのぎで言ったんじゃないの、とか、不意打ちとかずるすぎるとか、やばい今絶対変な顔してる、とか。あまりにも感情のバーゲンセールだ。
 そんな私の言いたいことがわかったのか、……いや、あまりの滑稽さを見かねたのか。巴さんは何か言葉を選ぶようにええと、と間投詞を挟むと、やがてゆっくりと喋り出した。

「あまりね、僕は愛を口にしたくはないんだよね」
「え、で、でも、いっつも愛してるって」
「仕方ないね、だってファンの子たちにはああして口頭で愛を伝えるしかないからね」
「……それってどういうこと?」

 意味は、なんとなくわかる。けれど理由がわからない。きっと彼は私と考え方が違うのだ。だから言いたいことはたぶん、わかる。付き合って数か月、私たちもいい大人だ。それなりに身体の触れ合いだってあった。たぶん、恐らく、つまり。

「言葉というのはあまりにもあやふやで、朧気で、複雑で、不確かなものだね。出来ることなら、僕はそんなものには頼りたくないね。触れ合うことで感じるもの、それが愛だね! でもファンの子たちに対しては、言葉で伝えることしかできない。出来たとしても、せいぜい握手会くらいだね。行きたくても行けない人が出てくる、限られた人々しか来れない、ね。だから僕は悲しいかな、言葉に頼っているだけだね」

 きっと本当に不本意なんだろう、巴さんははあ、と小さく息を吐きだしてから小さく口を尖らせた。
 思った通り、巴さんは愛に対して言葉ではなく行動をしたいタイプだった。その度合いは私の予想を遥かに超えていたけれど。でもまあ、それなら確かに納得いく。私とはこうやってしっかり対面して、触れ合えるわけだし。ファンの子たちとは物理的に距離があるし、もしその距離がなくなったとしても、立場上気軽に触れ合うことは出来ないだろうから。巴さんもそこを当たり前にわかっている。
 そうやってすべてを理解した瞬間、一気に羞恥心が込み上げてきた。そうとは言っても言葉も欲しいと思ってしまうのが乙女心だが、それを聞かれてしまったなんて恥ずかしいにも程がある。

「ご、ごめん」
「なんで君が謝るの」

 ようやく絞り出した言葉を口にするも、恐らく私の顔は羞恥心でりんごのようになっていることだろう。出来れば一刻も早くこの場を去りたい。そして私共々巴さんの記憶を消したい。けれどそんなことなんて到底出来るはずもなく、泣きたくなるくらいの気持ちを抑えてその場で押し黙っていれば、突然身体の熱が奪われる感覚がした。

「ちょ、巴さんこんなところで! 誰かに見られたら……!」

 抱きしめられて、しかし慌てて身体を離そうとするも、私の言葉を聞いて巴さんはさらにぎゅう、と力を強めてくる。よくない、ぜったいよくない。そう頭ではわかっているのに、心の奥ではこの体温を享受したいと思ってしまう。いや、今この場合だと、熱すぎる私の体温を渡したいと思った方が適切か。
 巴さん、ともう一度呼び掛けたとき。彼はあのね、とまた少し。ほんの少し言い難そうに口を開いた。

「僕もだいぶわがままで恥ずかしいね。さっき言った理由は本当。だけどそれに加えて、本当は君に対する愛情はあまりにも大きすぎて、言葉一つで伝えられる気がしなかったんだよね」
「な、」
「君があまりにも顔を真っ赤にしてて恥ずかしそうで可愛いから、そんなの僕だって本音を言いたくなっちゃうね!」

 何それ、何、それ。え? あまりにも語彙力がなさ過ぎると思う。でもだって、仕方ない。だってそんなの、こんなの、嬉しくて、信じられなくて、そんなことを言う巴さんがかわいくて。
 さっきからなんにも言葉が出てこない。もうすぐたくさんの人たちの入り時間だ。それでもあと少し。

「……君の身体、あっついね」
「……それそっくりそのまま返しますよ」
 
 もう少し、だけ。