辺りはすっかり暗くなっていた。というのもきっと不適切な言い回しなのだろうけど、思わずそう思ってしまうくらいの感覚だった。明るい時間帯から室内に入り、私の誕生日パーティーと称した集まりでさっきまで友人たちとはしゃぎ倒していたのだから仕方の無いことだろう。
 時刻は既に十二時を回っていて、都心とは言えない私の家の最寄り駅はひっそりと静まり返っている。十代の社会に慣れていない子どもではないし、こういう時間に帰宅することだってもう慣れっこだけど、それでも早く帰ろうと足が早まるのはこの世が善人ばかりではないということをわかっているからだ。誰だって朝のニュースに名前は載りたくはない。
 裏道を通れば家まで近いけれど、さすがにそれをするのは憚られるので大人しく大通りを通る。街灯の数は少なくなく、車も全く通らないというわけではないので比較的安心だ。それはもう、今の家に越してくる前から知っていたことだった。
 引っ越して二年。それまではこの大通り沿いに建つマンションに住んでいた――彼と。一緒に住んでいた部屋は一人になってしまうとあまりにも広すぎて、彼が離れた後私はすぐさま引っ越しを決意した。といっても、職場への通勤や交通アクセス、その他諸々を含めてこの土地は居心地が良すぎたから、結局最寄り駅を離れることはせずにかなりの近場で引っ越しをしたのだけれど。そんなマンションがもう少しで見えてくる。無意識にマンションの方へ目を向けると、そこには変わらずぽつぽつと部屋に明かりが灯った、少しコンパクトなマンションが佇んでいた。あまりこっちの大通りは越してきてから通らなくなったから、たった数か月ぶりに見るその建物が、なんだか懐かしく思えた。
 ふと、そのマンションの真下にある街灯の元に人が立っていることに気づいた。正確には暗くてまだ遠いので、人影という範疇だが。その人影は大きくて、恐らく男性と思われる。やだな、こんな夜中に男の人とすれ違いたくない。きっと高確率で悪意のない人なんだろうけど、ごめんなさい、警戒だけはさせてください。
 段々とその場所に近づく。決して高くはない私のヒールの音が小さく静寂に響く。人影が人の形を描いていく。それは徐々に、どうしてか、私の知ってるその人に、変わってきてるような気が、して。

「……っ」

 うまく声が出せなかった。「そう」だと気づいた瞬間、ヒールの音は鳴らなくなった。街灯に照らされて、背格好が、髪が、顔が、ぼんやりと私の瞳に映っていた。

「なんで」

 ようやく絞り出せたのは、情けないくらいの蚊の鳴くような声だった。無視できれば良かったのだ。けれどそうすることが出来なかった。それは私も未だに二年前のあのことを、いや、彼を引きずっているからだと思う。私も最近気づいたことだ。というか、ずっと気づかないふりをしていた。そうしたくなるほど必死だったのだ。
 三毛縞くんはその切れ長の目を細めて、じっとりと私を見つめていた。彼の真上に佇んだ街灯は、それを照らすスポットライトのようにも思えた。

「なんでだろうなあ」

 そんなの私が聞きたい。質問を質問で返さないでほしい。そんな軽口を叩ける余裕があれば、どれほど良かっただろう。
 何度も言うがこの辺りは決して都会とは言えない。彼の事務所があるESビルが近いわけでもない。この土地は「用事がないとわざわざ来ない」ところなのだ。そんな場所に、かつて私たちの居場所だった建物の下に、彼がいた。

「酔ってしまってなあ、気が付いたらここに来ていた」
「嘘」
「……なんて言い訳は、君には通用しないよなあ」

 彼の下手すぎる言い訳に間髪入れずにそう言えば、彼ははは、と乾いた笑いを零す。昔は明らかに彼の方が口が強くて勝てる気もしなかったけれど、二年ぶりで口が回るのは私の方らしい。

「なんでここにいるの。なんでこんな夜に、まるで、私を、」

 けれど頭は全く回っていない。口が回るなんて言ったけれど、実際言葉がたくさん出てくるってことだけだと思う。多分、口にすることでしか情報を処理できないのだろう。まるで私を、その先は自分でも言いたくなかった。何よりも彼に、三毛縞くんに言ってほしくなかった。肯定してほしくなかったのに。

「君を待ってた」

 神様は残酷だ。
 そんな言葉はきっと、二年以上前、付き合っていた頃なら飛び上がるほど嬉しかった言葉だろう。付き合っているとは名ばかりで、会える時間もほとんどなかった。そんな日々の中で待ってた、なんて大好きな人から言われたら、その喜びは計り知れない。
 けれどそんな時期はあの海辺をもって終わってしまった。辛かった。痛かった。けれどこれはこれで報われると思ってた。私も前を向けると思ったし、これで彼も重荷がなくなると思ってた。あの選択が正しかったのだと、そう思って、生きてきた。それなのに今更私を求めるような言葉を吐いて、どうするつもりなんだ。これじゃあなんで私があのとき身を引いたかわからないじゃないか。

「……何言ってるの。私たちはとっくに別れていて、もう会う理由もないでしょ」
「ああ」
「終わりにしよう、って私から言ったよね?」
「ああ」

 ぴくりとも表情を動かさない三毛縞くんは、さすが芝居もやっているアイドルだと思う。いや、彼は元々ポーカーフェイスが得意な人間なんだろうけど。反対に私ときたら手も声も唇も震え、声を出さなくても誰だって私の気持ちがわかるような有様だ。ぐちゃぐちゃになった感情の中で、不公平だ、なんてどうしようもないことが私の頭の片隅で静かに佇んでいた。訳の分からないことが頭に留まってしまうくらい、気持ちの取捨選択が出来なくなっていた。

「私の覚悟を、行動を、無駄にしないでよ……っ」

 だからそんな言葉を吐いてしまったことを、自分でも信じたくなかった。三毛縞くんはぜんぶわかっていた。当時からそれを理解していた。それでも私は本音を口にしなかったのだ。それがどれだけ彼の負担になることかわかっていたから。けれど「自分以外の」信頼した人を想う気持ちが強すぎるのは、ここまでくるともう罪に近いようなものだろう。

「三毛縞くんはあの時も全部知ってたでしょ。今もわかってるでしょ。私はまだあなたが好きだよ。あなたといるときが私の幸せだよ。だけどそれは優先すべきことじゃない。ねえ、あなたの気持ちを尊重する私の気持ちを尊重してよ。」

 しかしがむしゃらに口を動かしながら、私も三毛縞くんも同じだということにようやく気が付いた。お互い、相手を想いすぎてしまった罪人。……いや、先回りして逃げ切って、彼に罪を被せようとしている私の方があくどいか。けれど悪役になったお陰で、彼の心労はほんの少しだけマシになったと思う。だって好きでもない私を背負う心労より、私に気を遣わせたという心労のほうが遥かに軽い。

「中途半端な気持ちで会いに来ないでよ。三毛縞くんってそういう人じゃないじゃん。情があったとしても、いらない縁はスパッと切るようなタイプでしょ」

 私も彼も悪いのだ。相手のことしか考えなかった。せめて三毛縞くんがあの頃から何のしがらみにも囚われずに、本気で私を好いてくれていたのなら話は違っただろうけれど、そんなのたらればの空想論だ。
 私たちは、あまりにも、わかり合えすぎてしまった。

「……すまない」
「謝るくらいなら、……最初から私に告白なんかしないで」

 震えた声は、痛くて、怖くて、あの時嗅いだ海の匂いに似ていた。
 三毛縞くんがどうして私に告白をしてきたのかはわからない。私を傍に置いていれば何かと都合がいい理由があったのか。何にせよ、ずっと前から彼に惹かれていた私は、彼と付き合えるのなら何でもいいと思っていた。許したのは私のくせに、この期に及んで彼だけを責め立てるなんて我ながら酷い態度だと思った。もう気遣ってるのか、責めているのか、私が何をしたいのかもよくわからなかった。それほどまでに、疲弊していた。

「……せめてお祝いくらいは言ってよ」

 顔を見たくなかった。涙が出てしまいそうだったから。
 語気が強くなった。声が震えてしまいそうだったから。

 声に出た言葉は、もう辛いことを終わらせて、それでもせめて自分を救ってあげたかったのかもしれない。けれど自分で自分のことを理解するには、私にはまだ早かったようだ。彼の言葉を待たずに、足は勝手に自宅の方向へと動いていった。
 背後からついてくるような足音は聞こえなかった。多分これで、今度こそ、もう終わりだ。誕生日を祝う言葉なんて聞こえてくるはずがない。こんな身勝手な女に、三毛縞くんが心を寄せる必要はない。彼の気配が遠くなっていくのを、後ろめたい背中でじわじわと感じていた。
 ああでも、やっぱり私は今の時間が幸せだと思ってしまうのだ。彼と一緒にいるときが私の一番の幸せ。それはきっと、この先も永遠に変わることはない。三毛縞くんとの距離が開くにつれて、その感情が大きくなっていく。彼の前では無意識に隠そうとしていたのだろう。幸せで、辛くて、気が緩んだら泣いてしまいそうだった。

「……俺は、」

 夜に溶けてしまうくらいの小さな声色だった。物理的な距離さえも遠くなれば、声が小さくなるのは当たり前だった。
 誕生日おめでとう、と最後の最後まで優しい三毛縞くんはそう言ってくれるのだと思った。そう思い込んでいて、言葉のはじまりが既に「おめでとう」には続かないだろうということに気づけなかった。

‘あなたといるときが私の幸せだよ’

「君を、」

 気づくことができなかった。

「俺は、今までも、これからも、君を幸せにしたかった」

 気づいたら、振り返っていた。