とうとう捨てられたかな、と思った。
 時計はカチコチと時を刻み、あと一周もすれば日付が変わろうとしている。カレンダーに大きく丸をつけた今日この日は、私が生まれた特別な日だ。けれど、同じ屋根の下で暮らしている私の恋人と呼ばれる人は未だ連絡すら寄こさない。
 確かに、付き合っているといっても名目上みたいなところはあった。実際彼は仕事の関係とかなんとかで滅多にこの家には帰ってこないし、たまの休みでもアイドル活動に支障が出るといけないから二人で出かけることだってろくにしたことがない。
 それでも、付き合う前から毎年この日は必ず連絡をくれて、お祝いをして、プレゼントをくれた。「君の生まれたこの日以上にめでたい日はないなあ!」なんて嘘か本当かわからないような笑顔を見せて、ばかみたいに大きな花束を渡された。
 それが、今年はどうだ。一週間以上連絡がないなんてザラではあるけれど、このままその「めでたい日」は過ぎ去ろうとしている。

 捨てられても仕方ないと思っていた。そもそも彼にとって私の存在は大きなものではないということはとっくにわかっていたし、私がいるせいで仕事がやりにくそうだということも察していた。けど、それでも彼が私を今まで捨てなかったのは、その心の底にある慈悲深さか、それとも私が彼に依存してしまっているということをわかっていたのか。

「いやだ、なあ」
「一体何が嫌だというんだあ?」
「えっ」

 ぽつりと呟いた声は静かな部屋に呑まれて消えていく、はずだった。独り言のはずだったのにまさかの返事が来て、思わず素っ頓狂な声を上げる。一体いつ部屋に入ってきたというのか。そこにいたのは私が今の今まで思い浮かべていた最愛の人そのものだった。

「三毛縞くん」
「遅くなってすまなかったなあ。誕生日おめでとう」

 言いながら、彼はにこにこと屈託のない笑顔を浮かべる。

「もう日付変わるんだけど」
「わかっている、だからお詫びと言っては何だが、今日は君の好きなところに連れて行こう! ああもちろん、一回寝て起きたらの話だけどなあ?」
「……好きなところ?」

 聞いた言葉が信じられなくて、小さな子どものようにそのまま返すと、三毛縞くんはどこでもいいぞ! とまた楽しそうに笑う。
 ……どうしよう、聞き間違いじゃないのか。本当に、本当に? 三毛縞くんとお出掛けができる。しかもどこでもいい、だって。こんなに今までになかった。二人で出かけることなんてなかった。どうしよう、すごく嬉しい。もう誕生日は終わってしまうし、寝て起きたら明日になってしまうけれど、そんなことどうだっていいくらい嬉しい。一体どこに行こう、どうしよう。わくわくしながらその嬉しさを全面に伝えようと彼の顔を見た。
 瞬間、ひゅ、と浅く息を吸った。

「……海に、行きたいな」
「海?」
「うん。三毛縞くんも海、好きでしょ」
「ああ、俺も海は大好きだぞお! そうしたらまた明日の、」
「ううん、今。今行きたいの」
「今か? けど今は暗いし、まだ冷える。あまりお勧めはしないが……」
「どこでも連れてってくれるんでしょ?」
「……わかった。そうだよなあ、今日が君の誕生日だからなあ」

 それからは早かった。三毛縞くんが運転するバイクに飛び乗り、ふたりで海を目指す。この家から海へはそう遠くはないので、ここから一時間もかからずに着くだろう。
 決して都会とは言えない道路の車通りは少ない。おまけに街頭も多くはない分、私たちの乗っているこのバイクの灯りが妙に眩しく感じる。段々と風に運ばれてくる潮の香りが濃くなっていって、私はぎゅ、と三毛縞くんの腰を強く掴んだ。

 夜の海はひどく暗く、誰一人としてそこにはいなかった。当たり前だ、今は三月も始まったばかり。シーズンならまだしも、まだ春とも胸を張って言えないような時期に夜の海に来るバカはきっと私たちくらいしかいないのだろう。
 車の音も、人の声も、何もかもがまっさらで、透明だ。そんな中でただ波の音だけが静かに小さな音を立てている。

「綺麗だね」

 何も考えず、思った通りの言葉を口にする。

「そうだなあ」

 それに対して、彼もきっと思った通りのままの言葉を返す。
 夜の海というのは初めてだったが、予想以上に美しいものだった。余計な喧噪も、嫌な感情も、何もかもを静めてくれるような静の領域。ああやっぱり、この場所を選んで正解だと思った。

「……なあ」

 だってこの場所は、

「ねえ、三毛縞くん」

 終わらせるのに、ひどく似つかわしい。

「ごめんね」

 彼の言葉を遮って、そう口にする。言いたくない、言いたくなかった。けれど言わなければいけない。私はあの時彼の顔を見て、すべてわかってしまったのだ。私どころか、何もかも映していないその目。すべてを諦めたような、そんな目。どうして彼が今日こんなことを言い出したのか。まるで、最後の思い出作りとでも言うように。

「終わりにしよっか」

 でも、たぶん、それは私にとって幸せに思うべきことなんだと思う。彼は私を守ってくれようとしているんだと思う。だから、「そういう」選択をしようとした。でも、ねえ。知ってるんでしょ? 私が三毛縞くんを好きで好きで仕方ないってこと、知ってるんでしょ? わかるよ、私を傷つけたくないんだよね。そう、思ってくれてたんだよね。だからずっとずっと、そんなに辛い顔をしてるんだよね。優しいなあ三毛縞くんは。私みたいな好きでもない女に、そんなに心を寄せてくれるんだね。なら、私も覚悟を決めなきゃ。せめて、私から切り出す形にして。そうすれば、今後彼は「私のことを傷つけた」という傷を背負わないで済むと思うから。

「……君に、そんなことを言わせたくはなかったなあ」

 けれど、そう言う三毛縞くんはもしかしたら私の考えていることなんて全部ぜんぶお見通しだったのかもしれない。泣きそうなくらいの悲痛な笑顔は、今まで見てきた彼の笑顔の中で一番美しいものだった。
 それでも、わたしのこの行動が無駄だったとは思いたくない。ううん、そうじゃないと、わたしはきっとこの先生きてはいけないから。

 三毛縞くん、と小さく名前を呼んでみる。返事は返ってこない。きっともう、日付は変わってしまったんだろうと思った。