立ち昇り溶け消える


 時間が流れるスピードが、信じられないくらいゆっくりと感じられた。それはまるで仕事中のように。学生のときのつまらない授業中のように。
 休みだというのに、お家にいるというのに。外は霜が降りてきそうなくらい寒い中でぬくぬくとこたつに包まれているのに、私が感じる時間のスピードはあまりにも遅すぎた。あたたかいココアを飲んで、こたつのテーブルに置いてあるみかんをおもむろにカゴから取り出す。最近はみかんばっかり食べているから、手先が少し黄色くなってきたような気もする。それを静かに剥きながら、ちらりと横目で彼を見る。同じこたつで、わたしと直角に並んで座っているつむぎくんは、しかし数時間前からずっとパソコンの画面を見続けていた。
 一応言っておくと、彼も今日は休みだ。もっと言えば、珍しく私と彼の休みが合う日が今日だった。「どこかへ出かけましょうか?」と誘ってくれた彼の言葉に本当は甘えたかったけれど、いつも忙しい彼のことを思って、まったり私の家でのおうちデートを提案した。今思えば、それが一種の間違いだったのかもしれない。
 「急な仕事が入るとまずいので、一応持ってきちゃいました」と玄関で彼が見せてくれたノートパソコンには、私の小さな頭なんかじゃ到底覚えられないような莫大な情報が入っているのだろう。つむぎくんはあのESに入っている、ニューディメンションの副所長だ。普段、アイドルとしても事務としても活躍している彼には本当は休んでもらいたかったけれど、その時の私はまさかこんなことになるとは思っていなかった。だからそうだね、としか言いようがなくて。

「ワーカホリック……」

 嫌味っぽくそう呟いたものの、その言葉はすっかり集中してしまっている彼に届くはずもなく。彼の傍に置いたみかんは未だ手を付けられずにその丸い形を維持しているというのに、私の傍には既に残骸となってしまった数個の皮しかなかった。今日みかんいくつ食べたんだっけ。もう覚えてないや。

 「すみません、ちょっと仕事が来ちゃって……」申し訳なさそうにそう言われて、どれくらいの時間が経ったのだろう。急ぎの仕事なら仕方がないし、と最初は私もあまり気にせず、スマホをいじったりしていた。まあそんなに長い間仕事はしないだろう、なんて勝手に決めつけて。
 けれど彼がどうにもならないくらいの仕事人間だということを忘れていた。一度仕事用のパソコンに触れてしまったら最後、彼がその画面から目を話すことはなくなった。何度か文句を言おうとしたけれど、彼が今抱えている仕事がどれほどの量で、いつまでの期日なのかがわからない限り、どうしたって私も口出しすることは出来なかった。

「……ねえ。ねえ、つむぎくん」

 先ほどよりはほんの少し大きな声で彼の名前を呼んでみる。やっぱり返事はない。それがなんだか段々気に食わなくなってきて、今度は呼びかける代わりに彼の服の裾を小さく掴んで引っ張った。するとつむぎくんはようやくその視線を私に向ける。眼鏡のレンズの中、その瞳が私を映す。それだけで何だか少し嬉しくなってしまって、私も相当彼氏に対するハードルが低くなってしまっているのだと思った。

「ああ、すみません放っておいてしまって……。あ、テレビとかも音出してつけて大丈夫ですからね? 俺のことは気にせずに過ごしてください」

 でも彼が優しく投げかけてくれた言葉はあまりにも見当違いで、もはや怒りを通り越して呆れの範疇まで来てしまった。

「つむぎくん、こういうとこあるのにアイドルってこと抜きにしてもモテるからムカつく」
「え、え? ちょっとよく意味が……」
「女心わからなすぎってこと」
「ええ、まあ確かにそこは自信を持てる部分ではないですけど……! というかさっきの俺の発言とどういう関係が……」
「ほんとそういうとこだよ。あーでも、女心っていうより恋人心?」
「ますますわからなくなったんですけど……」

 困ったように苦笑いを浮かべるつむぎくんにはあ、とため息をついて、半分より少なくなっていたココアを一気に飲み干す。意外とまだ熱くて、驚いた口内につられるように眉間に皺が寄った。もう少し熱さが残っていたら舌を火傷してしまうところだった。
 つむぎくんは私の発言が気になったのか、すっかり私に向き直りつつ、ええと、と言葉の意味を考えている。こうやって私が言えば真剣に向き合ってくれる優しさ、思いやり。そしてイケメンとなればそりゃあモテるよなあ。ああムカつく。でもそういうところが好き。

「じゃあさ、私がつむぎくんと一緒にいるとき。私がずーっと仕事で大変そうにしてたら、つむぎくんどう思う?」

 自分で言って、めんどくさい女だなと思った。つむぎくんのことだ、直接的に言わないとわからないだろう。なのにこんな遠回しに言って、まるで察せというような態度。あーめんどくさい、私めんどくさい。普段の私はこんなんじゃないのに、つむぎくんが関わるといつもこうなってしまう。それなのに毎回こうやって私に付き合って、今だって彼にとっては突拍子もないだろう質問に答えようとしてくれている。優しいなあ。……いや、彼は付き合ってという自覚すらないのかもしれないけど。

「ごめん、やっぱ聞かなかったことに」
「うーん、出来るなら俺も手伝いたいですけど、さすがにそれは出来ないので……出来る限りサポートしますかね」
「……聞かなかったことにしてくれなくてもよかったわ。聞いた私がバカだった」
「なんでですか!?」
「いや、うん。つむぎくんはそういう人だよね、わかってた」
「勝手に納得して呆れないでください〜!」

 騒ぐつむぎくんは本当に私の真意を読み取れないみたいだけど、私も遠回しに言いすぎたから仕方がないのかもしれない。あの質問で私と同じ気持ちになってくれたら、なんて思ったけれど、さすがにそれは望みすぎだ。でも、だって、……そんな直接的に言えるわけないじゃん。「つむぎくんが構ってくれなくて寂しい」だなんて、恥ずかしすぎる。
 なんだか段々自分がいたたまれなくなってきて、逃げるように空のマグカップを持ってこたつから出て立ち上がる。もうすっかり忘れていた外気の温度に身体がぶるりと震えて、やっぱりこたつから出なければよかった、と一瞬にしてすさまじい後悔に襲われた。

「つむぎくん、ココアいる?」
「え? あ、俺はまだあるので大丈夫です」
「オッケー」

 彼のコップの中を上から覗けば、そこにはまだ半分ほど残ったココアが見える。じゃあ淹れるのは私の分だけでいいのか。そそくさとキッチンへと向かい、お湯を全て使い切ってしまって空になった電気ケトルに水を入れる。電気ケトルって便利だよなあ、冬はこれがないと生きていけないよ。本当はココアとか、あったかいラテ系の飲み物は牛乳の方がおいしいけど、ぶっちゃけコスパ悪いしね。
 お湯を沸かしている間に、先ほどしまったばかりのココアの袋を再び取り出す。こんな短時間でココアを二杯も飲むの絶対に色々と良くないと思うけど、だってココアおいしいし。つむぎくんが構ってくれない寂しさのはけ口として存分にココアというものを使わせてもらいたい。
 袋の中からスプーンで粉を四杯、プラスでおまけにスプーン半分くらい。袋のチャックにこびりついた粉をトントンと袋の外から指で叩き落として、ぱちぱちとチャックを閉じていく。未だにお湯は沸かなくて、こたつに戻ろうかと思ったけれど、戻ってもすぐにお湯が沸いてしまってまたここに戻ってくるような気がする。寒さを紛らわす術もなくて、じっと電気ケトルを眺める。
 つむぎくん、私がいつもこうやって飲み物入れたりしようとするとき、俺がやりますよ、とか買って出てくれるんだけど、それがなかったということはよっぽど仕事に熱を入れたいということなんだろうな。いや、まあ例え今そう言われたとしても全力で断ってたと思うけど。
 わがまま言ってないで私も何かに集中しよう、本でも読もうかなと思ったとき、ぱちりと電気ケトルが鳴った。

「ああ! もしかしてそういうことですか!?」

 彼が叫んだのは、ちょうどそのときだった。

「なまえちゃん、俺が構ってあげられなかったから寂しかったんですか?」

 今ケトルを持っていなくてよかった。今お湯を注いでいなくてよかった。吹き出しそうになったのをぐっと堪えて、ごほん、とわざとらしく咳払いをする。落ち着け、落ち着け。動揺を隠しつつ、ケトルを手に取りお湯をマグカップに入れる。とぽとぽとお湯をそそぎ、ぐるぐるとスプーンで粉末と液体を混ぜ合わせる。

「俺、すっかり仕事に熱中しちゃって……。いけませんね、こういうの」
「べ、別に? 大丈夫だよ、私のことは気にしないでいいよ」

 嘘ばっかり。あんなに色々思っていたのに、口から出てくるのは強がりで可愛くない言葉ばかりだ。
 金属のスプーンと陶器のマグカップがかき混ぜるたびに擦れて、微妙にカンカンと耳障りな音がする。それでもぐるぐるぐるぐる混ぜ続け、ココアの表面がまるで私の頭の中みたいに回り続けている。

「わかりにくいですよ、あの質問。「大変そうにしてたら」、なんて言われたら、そりゃあ手伝うって言うに決まってるじゃないですか」
「……だから、ちがうし」

 素直に言えばいいのに。私の中の誰かが呟く。わかるよ、だってその方が可愛いもんね。でも。そう勝手に自分の中で討論していれば、背後からすっと腕が伸びてきた。それに気付くのとほぼ同時だっただろう。二本の腕は両側から私を包み込むようにして、そのまま私はぎゅ、と抱きしめられた。

「俺だって立場が逆だったら、寂しくなっちゃうかもしれません。せっかく一緒にいるのに、仕事してしまってごめんなさい」
「……それは、つむぎくんが謝ることじゃないよ」
「でも、実際なまえちゃんは嫌な思いをしたでしょう?」
「そんなこと、」
「ハイ、素直になりましょう〜」
「…………」

 とにかく認めたくなくて、わがままな女だと思われたくなくて。否定をし続けていれば、ぽんぽんと優しく頭を叩かれた。その柔らかさとあたたかな声に、とうとう何も言えずに黙り込んでしまう。遠心力での回転をやめたココアが、わたしの前でふわふわと湯気を立てていた。

「可愛くない、でしょ。私」

 ようやく喉から絞り出した言葉は、まるで自分に対する皮肉のようだった。可愛くない、可愛くない。ここで一言でもそうだと言えばちょっとは可愛げが生まれるのに。
 つむぎくんは優しい。色々とにぶちんだけど、考えて、私の気持ちを察してくれて、答えを見つけてくれて、こうやって私を安心させてしまう。まるで麻薬のような存在だ。だってきっと彼は、「そんんなことないですよ」こうやって優しく言ってくれて。

「可愛い」

 こうして、私がばかになるような甘い甘い言葉をくれるのだ。ぎゅ、とまた込められた腕の力が優しくて、私も思わず身体の力を抜いて彼に委ねる。さっきまであんなに色々考えていたのに、なんだかそれがすべてどうでもよくなってしまった。彼のたった一言で私の思考はまるごと変えられてしまう。これこそ本当に、彼の、彼らの扱う魔法なんだろうな。
 つむぎくんの大きな両手に触れる。こたつに入って温まっていたはずの彼の手は少しぬるくなってきていて、けれど私にとってはそれがなんだかすごく愛おしくて。

「……好き」
「はい」
「つむぎくんは?」
「俺も好きですよ」

 私たちは、冷めてしまったココアのようにあまく溶けるのだ。