多分、私は彼のことが好きなのだと思う。一体いつからだったのかはわからない。どういう経緯でそうなったのかもわからない。けれど、彼に対する私のこの気持ちが、家族や友人に対する好きとはあからさまに違うものというのは明らかだった。そして、アイドルに対しての応援するような気持ちとも違うということも。大きく言えるようなことではないが、いい年して私はろくに恋愛経験というやつがない。だから、ここからどうしていいのか、それどころかこの気持ちをどうしたらいいのかもよくわからない。それに、私がこの気持ちに気づいたからといって、動かなければ今の関係に変わりはないのだ。私は彼に、瀬名泉にバレエを教えることを、その時間を幸せに思っている。だから、とりあえずは今のままでいいと、そう思った。
 生憎そういう気持ちが日常生活の邪魔をしたり等少女漫画的な要素は私にはなかったし、泉にバレエを教えているときだってあくまで私はバレリーナだから、どきどきして教えられない、触れない……なんてこともなかった。(むしろそれがあったら教えが成り立たないので大問題だ)だからその次のレッスンも無事に終わったし、何が起きるという訳でもなかった。
 ただやっぱり芽生えてしまった気持ちというのは、土に押し込めて元の通りに戻すことも出来ない。むしろレッスン以外の僅かな時間に見せる彼の表情や、私の名前を呼んだとき。それが水となり栄養素となり、その芽はすくすくと育っていくばかりだ。いつものような軽い言い合いですら楽しく、嬉しく思ってしまうのだから、私は間違いなく相当彼に酔いしれてしまっているのだろう。次のレッスンのスケジュールを調節するメッセージのやり取りを交わしながら、私は思わずふふ、と笑ってしまった。

「昨日のミュージックフェスタ観た!?」

 朝一。寝起き。レッスン前。目が開いているのか開いていないのかもわからない状況で、更衣室に入るなりそう声を掛けてきた友人二人の元気っぷりに尊敬の念すら覚える。私なんか未だに今日見た琵琶湖にひたすら水を入れるという意味の分からない夢の内容について考えていたというのに。
 ミュージックフェスタ……週に一回、ゴールデンタイムに放送されている音楽番組だ。そういえば、収録したってこの間泉が言っていた気がする。きらきらと目を輝かせる友人たちは恐らく昨日の『Knights』について話そうとしていると思われるが……。生憎私はその番組の存在をすっかり忘れていた。だって昨日の夜はバイトだったし、いくら今『Knights』のファン兼知り合いみたいなものだと言っても、そもそもそういうものに無関心な人間だったのだ。テレビを見たり録画する習慣だってついていない。我ながら本当に泉のことが好きなのか疑問に思ってくるレベルだな。

「忘れてた」
「ええ! 『Knights』めっちゃくちゃかっこよかったんだよ本当に! いつもかっこいいけど! いつもに増して!!」
「観てないなら聞いて! 私たちの話を! そんで消化させて!」
「いいように使われるなあ……」
「かっこいい推しの話を聞ければなまえちゃんがハッピー、話した私たちもハッピー、まさにwin-winでしょうが!」

 正にそうではあるのだが、とにかく彼女らは話して共感したいのだろう。女子というのはそんなものだ。まあそう言う私も例外ではないのだが、如何せん今は朝だ。眠い。二人のテンションについていけるか心配である。
 荷物を降ろして着替え始めれば、彼女らはすぐさま昨日の番組の彼らについて話し始めた。といっても、基本的にあれが良かっただとかあれがかっこよかっただとか、そういう感想のぶつけ合いだ。泉くんのこと聞きたいだろうけど、まずは私の推しのことから聞いて! と話す彼女らの語彙力はとてつもないものだ。たった数分の出演時間でそんなに言葉が出てくるのは純粋にすごいと思う。
 一通り司くんや凛月くんのことを話し終えれば、彼女らは改まったようにおほん、と一つ咳ばらいをした。

「じゃあ次はお待ちかねの泉くんの話ですが」
「うん……?」

 突然姿勢を正した彼女らに、私も着替える手を止めてじっと彼女らを見る。泉に何かあったのだろうか。一呼吸おいて、その口はゆっくりと開かれた。

「あんなん推しじゃなくても落ちる」
「は?」

 はあーっと長い息を吐きながら、彼女たちは思い出すようにそう言った。一方で私は訳が分からずに困惑の言葉をそのまま口に出せば、聞いて、と真剣な目に捉えられる。怖い。

「やばかったの。昨日の泉くん。かっこよすぎて」
「カメラに向かってウインクに投げキッス……ライブ並みだったよ。テレビであそこまでファンサしてるの初めて見た」

 はあ、と再び息を吐く彼女らの言いようからすると、よっぽどすごかったのだろう。それはちょっと私も見てみたかった。結局私の中にある気持ちが育ってしまうだけだとは思うけれど、やっぱりそういうのって見てみたいものだ。
 またお姫さまとか言ってたんだろうなあ、と思いながら着替えを終わらせる。あとは適当に髪をまとめればいいや、とバッグの中に手を突っ込み、髪ゴムを手にする。ようやく目が覚めてきた気がする。ファンサする泉を頭の中で想像したからかもしれないけど。

「いやあでも、もし私が泉くん推しだったらガチ恋になってるよ。マジで」
「わかる」

 ガチ恋? 聞き慣れない言葉に動きを止めて友人を見れば、私の視線の意味を察したのか、彼女たちは少しだけ眉を下げつつ説明してくれた。

「アイドル……芸能人。つまり届かない人たちに、本気の恋をしてしまうこと」
「気持ちはわかるけどね。けど実際ありえないし、なってもしんどいだけだと思うけど」
「でも泉くん担当は同担拒否のガチ恋多いよね。怖いから気を付けたほうがいいよー」

 苦笑いを浮かべつつ、少し声のトーンを落として二人はそう言った。
 アイドルに、本気の恋をすること。つまり私は、そのガチ恋ってやつになっているのだろうか。さっき二人が泉のかっこよさについて話しているとき、胸のところがもやもやしていることには自分でも気づいていた。それが嫉妬ってやつだろうこともわかっていた。
 けど、そうか。私、ガチ恋ってやつなんだ。届かない、届くはずもない人間に、本気で恋しちゃってる痛いヤツなんだ。この二人どころじゃない、世の中には彼を推しにしている人がいっぱいいて、私と同じように恋をしている人だっていっぱいいて。普通の人に恋をするんじゃ比較にならないくらいやきもちを焼く対象がいて、かといってその恋が叶うことはない。
 ああ、なんてばからしい。

「……なまえちゃん? まさかガチ恋だったり、しない、よね?」

 動きを止め、黙り込んだ私を不思議に思ったのだろう。友人が少し焦ったような声色でそう問いかけてくる。当たり前だ、これだけガチ恋に対して色々言っておいて私がそうだったら、本人の前で悪口を言ったことと同然だ。

「……まさか」

 アイドルに、恋をするなんて。
 育った芽は切ってしまえばいい。ただ、それだけのことだ。
 髪を梳かし、纏めようと髪の束を手に取る。はらはらと手から零れ落ちるそれらは、いやにパサついていた。

*

『次のレッスン予定日、急な撮影で行けなくなった。こっちが頼んだのにごめん』

 画面に表示されたメッセージを見て、ほっと安堵する自分がいた。これ以上、自分の心に水や栄養素をやったって自分が辛くなるだけなのだから。

『あと、バレエの撮影開始日今週末だから、次のレッスンは撮影始まってからまたお願いすると思う』

 ……それなのに、そんなメッセージを見て嬉しくなってしまうなんて。彼からお願いされることが嬉しい。また会えることが嬉しい。だから。「わかった。頑張ってね。また連絡よろしくね」そんな、ありのままの気持ちを言葉に乗せて送ってしまうのだ。あまりにも馬鹿げている。いっそのこと芽生えた気持ちを摘み取ってしまえばいいものの、恋愛経験値というものがほぼないに等しい私はそんな器用なことが出来るはずもない。
 はあ、と大きくため息を吐く。まさかこんな悩みに自分が悩まされるとは。本当にばかだなあ。
 そんなとき、ぴろりとスマホの通知音。泉がまた追加の連絡事項でも送ってきたのかな、と見れば、そこに表示されていたのは思いがけない名前だった。

「嵐ちゃん……?」