怒ったような車のクラクションがその場一帯に鳴り響いて、思わず眉間に皺を寄せた。何をそんなに怒っているのだろう。見たところ道路状況に異変はない。しいて言えば渋滞気味、というところか。短気な人が渋滞気味の道路に勝手に腹を立てて、八つ当たりをしているのだろう。まったく、嫌な人がいるものである。クラクションなんて音が高くてびっくりするから、私を含め苦手な人が多いだろうに。
 はあ、とため息を吐く。クラクションは鳴りやまなくて、思わず歩きつつ、足元に落ちていた小石を蹴った。別に私も腹を立てている訳ではない。今の気持ちを正しく表現するには、どちらかというと「落ち込んでいる」といったほうが正しいだろう。理由なんかわかっている。先ほどのリハーサルでのことだ。

 舞台というのは基本的に常に位置取りが決まっていて、特に群舞であるコールドバレエにおいてその位置取りはミリ単位で細かく指定される。舞台全体の美しさを追及してこその厳しさだ。本番までに自分の立つ位置を頭に叩き込み、それを踊りながら、表現しながらも気にしなくちゃいけない。けれど、私は昔からこの位置取りというものがどうも苦手だった。自分では皆と並んでいると思っているはずなのに、先生や皆からは並んでいないと指摘される。その正しい位置を、頭に覚え込ませることが出来ない。結果的に、今日。上手く立ち位置が取れなかった私は先生に何度も注意され、私が上手く位置を取れるまで全員何度もやり直しを食らってしまった。友人たちは気にしないでいいよ、むしろ何回も練習出来て良かったよ、なんてフォローしてくれたが、私に向けられた先輩からの冷たい視線に気づかないほど、私だって鈍感じゃなかった。

 相変わらずクラクションはけたたましく鳴り響いている。私も再び小石を蹴る。ただ落ち込んでいるだけなのに、あんなクラクションに影響されてしまっている自分も嫌になる。だめだ、これから泉のレッスンなんだ。こんな気持ちで彼に会えない。すう、はあ、と深呼吸。大丈夫、もう落ち込んでない、イラついてもいない。クラクションの音だって、自分の中から遮断してしまえば聞こえない。

「何なのアレ。うるっさいよねぇほんと」
「うっひゃあ!?」
「ちょっ、声デカい!」

 いつの間に隣に来ていたのだろう、顔を顰めた泉は不快そうに耳を塞ぐ。そんなこと言われたって仕方ない。ひたすらに自分を集中させていたんだから、突然の彼の登場に驚かないはずがないのだ。

「い、泉……いつからそこに……」
「今。ていうか後ろから声かけたんだけど〜? まあ、あんなうるさくクラクション鳴らされてたら気づかないか」

 ちらりとクラクションが鳴っている車の方を見ようと思ったが、先ほどの場所にその車はなく。渋滞が動き出したのだろう、車は先ほどよりも少し前の位置にいた。うるさいことに変わりはないから、音が小さくなっている気は全然していなかった。
 おはよ、といつもと変わらない挨拶をされて、おはよう、とこちらも返事を返す。しかし彼とスタジオに向かう時間が被るのは珍しい。大抵泉はいつもレンタル時間より早く来ているから、私と被ることは今までになかった。

「今日は遅いんだね」
「ちょっと前の収録が長引いちゃったの」
「そっか、大変だねえ、泉は」

 はは、と小さく笑いを零せば、まあね、なんて否定もしない言葉が返ってくる。別に否定を望んでいるわけじゃないし、謙遜もしないところが彼のいいところだと思っているけれど、その態度はあまりにもあっけらかんとしていて、少々羨ましくもなる。

「でも、なまえも大概大変でしょ」

 当然のようにそう言われて、一瞬息が止まりそうになる。泉に比べたら私なんて全然大変なんかじゃない。スケジュール的にも、きっと多分、それ以外のことも。でも。

「まあ、大変かもねえ」

 具体的に何が、だなんて言わない。そもそも、人には悩みの一つや二つあって当たり前なのだし、それぞれの人生が大変だというのも否定できない。やんわりと肯定してみたけれど、頭の中には今日の出来事がぐるぐると回っていた。

*

「この後空いてる?」
「へ?」

 レッスンが終わった直後。かけられたその言葉に、思わず素っ頓狂な声が出た。何アホみたいな声出してんの、とすかさずツッコまれるが、だってそんなの仕方ない。泉からそんなことを聞かれるなんて思っていないからだ。それはどういう意図なのかはわからないが、まあ、……早く返事をしなければまたぶつくさ文句を言われるのは目に見えている。空いてるよ、と短く返事をすれば、そ、と彼は更衣室に向かいつつ言った。

「なら、ご飯食べに行くよ。どうせあんたいつもの如くお昼もまだでしょ」
「は」

 ばたん。閉まったドアをしばらく見つめて、は、ともう一度呟いた。今のは、どういうことだろう。ご飯食べに行くって誰が? 私が? 泉と? ちょっと理解できない。だって泉はいつもレッスンが終わればすぐさま仕事に向かってしまって、そんな暇もないはずだし。いや、何、ていうか私が泉とご飯食べに行ってもいいの? いや確かに二回目の接触のときにファミレスに行ったけれど、あれは不可抗力というが、何が何だかわからない状況だったし。そもそも、あのときの私とは心持ちが違うというかなんというか。

「さっさと着替えてよねえ!」

 ドア越しから聞こえた声にびくりと身体を揺らす。なんだ、彼は更衣室の奥からこっちが見えているのだろうか。とんだ千里眼だ。ともかく、早く着替えないと怒られるのは間違いないようだ。考えるのはあとにして、ひとまず私も女子更衣室に入ることにした。

 で、それから数十分後だ。テーブルを挟んで向かい側には泉。横を向けば窓の外に広がる庭園。綺麗でおしゃれな店内だが、席についている人はちらほらしかいない。いつものレンタルスタジオから電車で僅か数駅。所謂ここはホテルの中のレストランというところだった。
 どうやら彼は本当に私をご飯に行くつもりだったらしい。今日はレッスンの後の仕事まで時間があるらしく、時間を潰さなきゃいけなかっただとか。国民的アイドルにもそんな日があるんだなあ。
 どこに行きたいの、なんて尋ねられたから、何て言えばいいかわからなくて「泉のおすすめのところ」と答えたら、ここに連れてこられたわけだ。

「泉のことだから、マクロビのなんとかとか国産の健康なんとかとかオサレな意識高い系のとこ行くと思ってた」
「そういうとこも一人なら行くけどね。ここは美味しいのに、会社のビルの中にぽつんとあるホテルだから、平日の昼間なんか特に人が少なくて良いんだよねえ。しかも人がいてもああいうサラリーマンの人たちだし。落ち着いてランチ出来るからお気に入りなんだよねえ」

 彼が視線を寄越した方を見れば、確かに離れたテーブルに数人の男性が静かにご飯を食べている。なるほど、確かにこれなら身バレして騒がれる危険性も低いというわけだ。泉も眼鏡だけという簡単な変装だけで、前にファミレスに来た時よりもリラックスしているように見えた。
 しかしホテルの中のレストランとなると、そこそこお高いんじゃないのか……そんな不安と共にメニューを広げたが、そこに記されていたのは普通のランチより少しお高め、という程度。決して高すぎるという訳でもなく、こっそりとほっと胸を撫で下ろした。

「私この看板メニューっぽいやつにしようかな」
「俺もそれにする」
「あれ、泉今日はご飯食べるんだ」
「こんなとこまで来て食べないわけないでしょ〜? そもそも、俺もお昼食べてないしねえ」

 やってきた店員さんに注文を伝えれば、店員さんは愛想よくにこりと笑った。差し出されたお茶(ここではお冷ではなくお茶が出るようだ)を一口飲めば、ようやく心が落ち着いてくる。と同時に、ふつふつと色んな感情が湧き上がってくる。
 どうして泉はわざわざ私を誘ってくれたのだろう。彼の性格からして、時間を潰すにも一人がいいとか言いそうなのに。ていうか、よくよく考えてみなくても、この状況って私的にかなりおいしい状況なのでは……?

「……何百面相してるの」

 そんな私の表情をすかさずにツッコまれる。呆れたような泉の表情に、私は誤魔化すように苦笑いを浮かべた。
 そんなとき、店員さんが食事を運んでくる。かなり来るのが早いが、他にお客さんがあまりいないことも理由だろう。色んな料理が少量ずつ小鉢に並べられた和食は、それこそ玉手箱のようだ。テーブルに並べられた色とりどりの美しい食事に、私はどきどきとお箸を構える。一先ず目についたお刺身をわくわくと口に運べば、思わず笑顔が綻んだ。

「おいしい……! 何これ! おいしい!」
「そ。良かった」

 言いながら、泉も食事を口に運ぶ。本当においしい。色んなものを食べてみるが、どれもこれもおいしい。女子力というものをどこかに落っことしてしまっている私は好きな人の前ということも気にせずに、ぱくぱくと食べ続ける。そうしてしばらくしたとき、泉がふっと小さく、笑い交じりに呟いた。

「そんなに元気そうなら、心配する必要なかったかもねえ」
「心配?」
「あんた今日、元気なかったでしょ」

 突然の発言にえ、と手を止めて彼の方を見れば、泉は頬杖をついて、じっとこちらを見ていた。

「今日俺がなまえも大変でしょって言ったとき、あんた肯定したよねえ。自分に目を向けて肯定するのはいいことだけど、いつものなまえなら『泉ほどじゃないよ』って謙遜してるとこでしょ。つまり、あんたは今何かしら悩んでるってこと。……美味しいものを食べれば元気が出る……バレリーナらしからぬいつかの発言、俺はしっかり覚えてるからねぇ」

 ぺらぺらと喋る泉の言葉が、いちいち心に染み渡る。泉は私自身ですら気づいていない無意識な発言に、いつもとは違う様子に気づいたということだ。彼の前では今日の嫌なことを、自己嫌悪の部分を隠そうとしていたはずなのに。察しのいい彼にはすべてお見通しだったということだ。そして泉が私を食事に誘ってくれた理由、それはきっと、私を心配してくれていて、元気づけるためで。
 ……ああもう、こういうところだ。こういうところが、女子力を落っことしたはずの私を、まるで恋する乙女のように蘇らせてしまう。

「ま、食べ物で解決するようなやっすい悩みで良かったよ」
「……うん、泉のお陰でやっすい悩みになった」
「何それ。まあいいけど」

 ふっと笑う泉があまりにも美しくて、私はうん、と小さく頷いてから俯く。ああもう、かっこいいなあ。腹が立つくらいにかっこいい。恋心ってすごい。あんなにもやもやしてたのに、あんなに頭の中を冷たい視線が行き来していたのに。こんなことで、また次頑張ればいいや、なんて期待に繋げてしまう。それは相手が努力人の泉だからということもあるだろう。けれど、彼の言葉が、彼の行動が、彼自身が、私の憂鬱な気持ちを吹き飛ばしてくれたのは、紛れもない事実で。

「ありがとね、泉」

 顔を上げそう言って笑えば、彼は別に、といつもの如く愛想もなしに呟いた。それが照れ隠しだなんてことは考えなくても明らかで、嬉しくて嬉しくて、私はまた笑った。

*

「すみません、遅くなりました」

 扉を開けた瞬間、複数人の視線が一気に集まる。時計は集合時間の十分前を示していた。

「瀬名さん! いやいいんですよ謝らなくて! まだ時間前だし! けど、瀬名さんは忙しくても集合時間より早く来るって有名ですからねー珍しいねって皆で話してたんですよ」
「瀬名くん、遅れますと先に現場行っててくださいとしか連絡くれなかったからねー」

 笑うスタッフさんと、何故かにやにやした様子のマネージャーを横目に、準備します、と俺は急いで楽屋へ行く。いくら時間前と言っても、やはりギリギリというのは落ち着かないし、業界人としてあまり良くないだろう。今日は俺個人の雑誌の撮影だから、他の共演者に迷惑を掛けたり、何か思われることもないということだけが救いか。
 用意された衣装を着つつ、今日のなまえのことを思い出す。あいつが悩んでたことって結局何だったんだろう。まあその悩みが解消されたということは、あの笑顔を見れば簡単に証明されるけど。でも、元気になったならギリギリの合間時間をあいつの為に使って良かった。――いや、あいつの為、なんて。実際俺の為でしかないんだろうけれど。次の仕事までかなり時間があるなんてただの嘘だが、そんな嘘をつかないとなまえは絶対遠慮するし、俺に気を遣うし。

(ツケの分、どうするか考えないとねぇ)

 シャツに腕を通しつつ、そんなことを考える。今日はあいつがどうしても払うって聞かなくて、結局割り勘になったし。俺にツケを払わせる気がないんじゃないの、あいつ。
 身だしなみを整えて、急いで撮影スタジオへと戻る。どうせならツケってやつをいいように使いたいよねえ、とひとつ考えて、俺は頭のスイッチを仕事モードに切り替えた。