「そういえば、撮影は順調?」

 キャミソールを着つつ、壁に向かって言葉を放つ。何の、だなんて言わなくてもわかるだろう。私が気にする「撮影」なんて、一つしかないのだから。

「順調に進んでるよ。他の人たちも上手いけどね、俺もあんたのお陰で動けるようにはなってるから」
「え、泉にしては素直な言い方だ……」
「素直も何も、本当のことだから言ってるだけだし。てか何その言い方、チョ〜失礼」
「あは、ごめんごめん」

 壁を挟んでお互いの更衣室から声を出す。二つの更衣室の間にある壁は案外薄く、大して大声を出していなくても向こうに聞こえてしまうと発覚したのはつい最近だった。(私が着替えながら歌っていたら、随分ご機嫌だねぇとにやにやされながら言われたという恥ずかしい思い出である)
 泉の例のバレエの撮影も始まってからしばらく経った。長期の撮影だと最初に言っていたが、未だに終わりは見えないらしい。しかしこの瀬名泉を長期間拘束ってどれだけのギャラを積んだんだろう。そんな裏の事情をぼんやりと考えながら、カットソーを上から被れば、そうだ、と今度は泉が思い出したように言った。

「制作サイドには番組の方で用意してくれた先生の他にレッスンを付けてくれている人がいるって伝えてあるんだけどさ。あんたの名前出す?」
「え、それってテレビにってこと?」
「そう。あっちからは名前出しても良いんじゃないかって言われてるんだけど……」
「や、無理、ダメ。絶対出さないで!」
「だと思った」

 とんでもない提案に思わず大声で叫べば、あちら側からは全く変わらないテンションでそう返ってきた。
 テレビに泉のバレエの指導者として名前を出されるだなんてとんでもない。もし私が世界的なバレリーナなんかだったら話は別だが、実際の私はろくな経歴もない、下っ端のバレエ団員だ。そもそもそこまで行くと上の先生方への報告義務が生まれてくるし、何より周りにどんな風に言われ、どんな風に見られるかわからない。
 私の返事を予想していたようなことを言った泉も、私の意図を理解しているのだろう。誰だって面倒ごとからは背を向けたいものなのだから。

「名前を売るチャンスではあると思うんだけどね。けどまあ、悪いけど俺もその方が有難い」

聞こえなくなるほど、ではない。それでも確かに、壁の向こうから聞こえる彼の声が、ほんの少し小さくなった。

「あんまりこういうこと言いたかないけどさ。ちょっと過激なファンがいるみたいだから。名前を出すとすれば所属のバレエ団名も出すことだし、変な風に言われて、なまえに迷惑がかかる可能性もなくはないからねぇ」

その言葉を聞いて、怖いから気をつけた方がいいよ、という、以前友人が言っていた言葉を思い出す。それを聞いた時はネチネチとした女のいじめのようなものを想像していたが、どうやら彼のこの言い草だともっと過激で悪質なもののようだ。というか、ファンの行為がアイドル本人に伝わってる時点で相当なものだろう。
ここまで思えば、変な風、というのは恐らく恋愛関係のそれだろうと鈍い私でもわかった。彼に恋心を抱いてしまっている私からしたら悲しいことだが、事実関係としては本当に何もないのだ。だから仕方のないこと――って、あれ。

「泉」

 ふと抱いた疑問に、私は何も考えることなく、そのまま口を滑らせた。

「『私に迷惑がかかる』、『俺も有難い』……それって、私を心配してくれてるってこと?」

 だってそういう場合は一瞬にして世間にあることないこと伝わるパパラッチという訳でもないから、泉に直接迷惑がかかるなんてことはありえないし。それなのに彼にとって有難い、だなんて。それってつまり、そういうこと?
 泉から返事は来ない。どんなに小さな声でも聞き逃さないというように、私の着替える手はいつの間にかぴたりと止まっていた。
 しばらくして聞こえたのは、少し小さな声で放たれた、彼の捻くれた言葉だった。

「……ばっかじゃないの」

 否定も肯定もしていない返事。けど、彼が中途半端な言動をしないことはわかっている。つまり、それっぽい言葉の裏には必ず意味がある。だからこそ、それが私が期待した返事と同意味だということはすぐにわかってしまった。

「……へへ、ありがと」
「はぁ〜? 俺そうだなんて言ってないけど」
「うん、そうだね」

 やばい、やばい、にやけが止まらない。今顔が見られる状況じゃなくて良かったと心から思った。心の底からあったかいものがじわじわこみあげてきて、どんどん熱くなって、嬉しさと恥ずかしさと混ざり合って。私今、全力で恋してるって感じ。すごい、恋ってすごい。
 壁の向こうで、泉はどんな顔をしているのだろう。いつも通りのかっこいい顔をしているかな、呆れた顔をしているかな、それとも、照れちゃったりなんかしているかな。それはない? でも期待くらいはしたい。ああ私、いつからこんなに恋する乙女みたいになってしまったのだろう。両手で自分のほっぺたを触ってみればびっくりするくらい熱くて、泉もこんなに熱かったらいいな、なんてありえないような、馬鹿みたいなことを考えてしまったりなんかして。

「ほんっとに、チョ〜うざぁい」

 聞こえた彼の口癖にすらにやけてしまうのだから、今の私は相当頭がおかしいのだろう。へへ、ともう一度笑ってから、ようやく着替える手を動かし始めた時、がちゃりとドアの開く音が聞こえた。恐らく泉が更衣室から出たのだろう。

「じゃあ、俺先帰るから。ありがとねぇ」

 私は着替えるのが遅いし、泉は着替えるのが早い。それに加えて彼は大体レッスンの後も仕事のスケジュールが詰まっているから、ほぼ毎回私より先に帰る。いつも通りな彼の言動に私も平静を装って(多分顔はまだ赤いだろうけど見えていないからノーカン)お疲れ様、と声を掛けた。私も早く着替えてここから出なきゃ。

「なまえ」

 そう思ったのもつかの間、再び聞こえた彼の声に思わずぴたりと動きが止まる。一体どうしたんだろう、いつもならすたすたとそのまま帰るはずなのに。何か言い忘れたことでもあるのだろうか。

「ど、どしたの泉。何か」
「あとで丸一日空いてる日連絡して。俺もオフもぎ取るから」
「え?」
「行きたいとこ、考えといて。……言っとくけど、これは俺なりに考えたツケの返し方だから」

 それじゃ、という声と共に、遠のいていく足音。一方で私は、その場から一歩も動くことが出来なかった。
 なに、丸一日って。空けといてって。オフ取るって。それってつまり、デート、ってこと? いや、でも泉と付き合っているわけじゃないし、それに彼はツケの返し方と言っていたし、デートじゃない。……でも、二人で出掛けるということには、恐らくきっと、間違いは、ない。私が少女漫画みたいな恋愛脳をしていてもしていなくても、受け取る意味は変わらない。

「っ〜〜……!!」

 声にならないような声を出し、思わずその場にしゃがみ込む。ああ本当に、泉と顔を合わせていなくてよかった。こんな真っ赤なにやけ面なんか、ぜったいぜったいに見られたくないもん。