昨晩は入浴後、いつも以上に入念にスキンケアをして、十二時前には寝た。そして今日は朝早くに起きた。朝の準備、そしてスキンケアをしてから、軽く朝ご飯を口にする。それから先日友人に選んでもらった服に着替えた。派手すぎない、それでも決して地味とはいえない、華やかなピンク色のワンピース。それをふわりと身に纏うと、なんだか舞踏会に行くシンデレラの気分で心が躍る。ああでも、シンデレラじゃ魔法は解けちゃうか。

 濃すぎないようにナチュラルメイクを心掛けて、自分にお化粧を施していく。まさか自分にこんな日が来るなんて思わなかった。こんな、まるで少女漫画のようなデート前の行動をするような日が来るなんて。
 そういえば、今日彼は何とかオフをもぎとったと言っていたが、結局夕方から仕事が入ってしまったようだった。国民的アイドルだもん、それは仕方ない。というか、いくらツケを返すためとはいえ、私にそんな彼の時間を割いてもらっているということが未だに信じられないな。
 泉との待ち合わせ時刻は午前十一時。お化粧ってしっかりちゃんとやると、優に一時間以上はかかるよね。だからこそ残された時間はそんなになくて、洗濯ものだけちゃちゃっと干すと、私はさっさと家を出た。

 結局私はどこに行きたいかなんて決められなかった。どんな場所を提案すればいいのかわからないし、どこでもいいとは言われていてもやっぱり気を遣うから。そうしたら、なんだかんだで泉が行き先を決めてくれた。
 今日どこに行くのかは聞いていない。わかっているのは駅前という待ち合わせ場所のみ。けれど、その待ち合わせ場所を聞くだけで。もしかしたらという期待が沸いていた。もしかしたら、いや、まさか、でも。

 わくわくする気持ちを胸に待ち合わせ場所へとたどり着く。気合を入れすぎたのか、電車の乗り換えが上手くいったのか。待ち合わせ時間より三十分も早く着いてしまった。けれど心の準備をするにはちょうどいいだろう。
 ぽやぽやとラインを返したりSNS巡回をしていれば、ふと泉からメッセージが届く。駅着いたよ、という簡潔な文字に、改札出て右手の大きな柱の前にいるよ、と返した。それにしてもまだ待ち合わせ時間まで十分以上あるのにもう着いたのか。そういうところに性格出てるなあ。

「早いじゃん、なまえ」

 それからすぐに、だ。聞こえた声にスマホから目を離し、顔を上げる。そこには伊達メガネにマスク、帽子といういつもの芸能人スタイルさながら、ばっちりとコーディネートを決めた泉の姿があった。うん、当たり前だけど今日もかっこいいな。
 一方で泉は私の上から下までをじっと見つめる。変だと思われてないかな、大丈夫かな。彼はふうん、と小さく呟くと、いつものようにつんけんとした態度で言った。

「ま、いいんじゃない?」

 そして、まるで私のことなんか気にしていないようにさっさと歩いていく。あれ、これは、及第点ってことでいいのかな。さすがに私もわかってきている。うんそうだ、これはたぶん、瀬名泉という男にとって高評価の反応のような気がする。
 そう思ったら嬉しい気持ちがじわじわと湧いてきて、無意識に口元がにやけちゃったりなんかして。それをなんとか抑えてにやけ面を隠しつつ、既に前を歩いている泉に追いつく。先に行ってしまったといっても、かなりのスローペースだ。なんだかんだで優しいんだよな、泉って。

「ねえ、ところで今日って」
「ああ、とりあえずお昼食べに行くよ。それで、もう今日この駅待ち合わせってことは、あんたも何するかわかってんじゃないの?」

 その言葉にやっぱり、と率直な感想が浮かぶ。この人は本当に私のことをわかっているんだなあ。そう思ったらやっぱり嬉しくなってしまって、彼に気づかれないようににやにやと笑みを浮かべた。

*

「そういえばあのクレープ食べた後、もちろん夕飯は控えめにしたんだよねえ?」
「うっ」
「なあにその声……。まさか」
「いやいや、控えめにした! これはほんと!」
「自分が見られてるって意識ちゃんと持ちなよお? ま、一応大丈夫だとは思うけどさ」
「一応って何ですか一応って」
「あ、あれ来週放映らしいよ。テレビ出演オメデトウ〜」
「あんなことで出演したくなかった。ていうかまだ出演決まったわけじゃないじゃん」
「まあカットはされないんじゃない? スタッフもあの言い方だったし」
「先生方に見られたらどうしよう……」
「痩せてあのカロリー分をチャラにするしかないねえ」
「地獄」

 お昼ご飯を食べてから目的地に向かう。(ちなみに昼食代は無理やり奢られてしまった)それがどこかなんて食事中も話題には出さなかったけれど、私だってもうわかってしまっているのだ。暗黙の了解のように二人で同じ行き先に向かうのは、暗黙の了解のようでなんだか嬉しい。

 やがてたどり着いたのは大きな建物にたくさんの人が集まる場所。案内板の中にあるポスターには、美しいという一言で形容するには勿体ないくらいの優雅なポーズの男女が写っている。そう、今日はこれからここでバレエの舞台公演が行われるのだ。

「それにしてもよくチケット取れたね」
「まあね。さすがにS席は無理だったけど」

 ホールに入るなり、彼にはい、とチケットを一枚渡される。これは単なるバレエ公演ではないのだ。日本を含めた、世界中から国際的なバレエダンサーが集まる来日公演。しかも今回は出演者が超超豪華だ。つまり、バレエファン、関係者にとってはかなりのプレミアチケットなのだ。それをなんとかでも取れたということは、やはり芸能人のツテか何かなのだろうか。ギリギリで日付を決めてからチケットを取ったはずだし、やっぱそういうやつなんだろうな。
 それにしても、私が全面任せてしまったにしろバレエ公演を選ぶなんて、やっぱり泉はわかっている。私のことをわかられてしまっている。それって負けず嫌いの私にとって悔しい一方で、反面、……ちょっと、嬉しかったりして。

 係員さんにチケットを渡し、ロビーへと踏み込む。ロビーにはバレエ公演でありがちな関係者同士の挨拶がそこらかしこで交わされていた。うーん、今更だけど、知り合いがいたらやだなあ。見つからないようにしよう。
 ホールの入り口の近くには様々なお祝い花が飾られていて、色とりどりの花がこの公演の豪華さを物語っていた。
 さすがにプログラムは自分で購入してから、劇場内へと足を踏み入れた。席は二階席の前の方、真ん中から少々外れたところ。一番ランクの高い席じゃないにしろ、これでもかなりいい席だ。確か結構な値段の席だったはず。今まで奢ってもらったご飯代など含めて、とりあえずこれでツケの分になる…のかな、どうなのかな。
 そこまで考えて、ふと私は思い出した。

「ねえ、泉の撮影ってもう始まってるんだよね? 私が泉につけるレッスンって、そもそも撮影が始まる前までの身体慣らしのためじゃなかったっけ?」

 席に座り、隣を見る。とても今更だが、……本当に今更だが、そんなことを思い出してしまった。どうして彼は未だ私にレッスンをつけさせてくれているのだろう。撮影が始まれば番組が用意した先生に教わることが出来る。私とのレッスンに割く時間だってもっと別のことにも使えるはずだ。バレエの動きをする時間は増えるにしろ、彼だって他の仕事が山のようにあるのだから、未だに私のレッスンを受けるメリットは泉にとってほとんどないはずだ。なのに、どうしてそれを言い出さずにいたのだろう。
 ごくりと唾を飲み込む。身体がぶるりと震えて、少し呼吸がしにくくて、小さく息を吐いた。
 がやがやとしている客席内で、私たちが発する言葉なんてものは本当に小さなボリュームにしかならない。純粋な疑問を投げかければ、彼は呆れつつ、そして何故か少し言いづらそうに口を開いた。

「今更そんなことに気づいたの? ほんっと、あんたってアホだよねえ〜? まあ、俺も言わなかったけどさ。……元々はそういう話だったけど、俺が、なまえのレッスンをもっと受けたいって思ったから。延長戦ってやつ。なまえも、俺に教えてると自分の為にもなるでしょ〜?」
「うわ傲慢」
「はあ?」
「うそうそ、本当にその通り。私も、もっと教えたいって思ってたから」

 言いながら少し恥ずかしくなって目を逸らす。ふっと力が抜け、身体が少し温かくなった気がした。
 私の言葉は半分本当で、半分嘘。泉とこのまま一緒にいる時間が欲しいという、単なる私のわがままだ。だからこそ、先程泉に疑問を投げた時、少し怖かった。もうこの関係を終わらせてしまうのかと思った。
 けれど、返ってきた言葉は私にとってあまりにも嬉しすぎるもの。彼が言ったそれは、私のレッスンを評価してくれているということだ。一見自分勝手に思えるような台詞だけど、泉は人の迷惑になることはしない。私にとっても良い影響になっているとわかっているからこそ、そう言ってくれるんだ。
 ああ、そういうところか本当に、

「ありがとね、泉。私今、すっごく嬉しい」

 この公演が観れることも、貴方が今言ってくれた言葉も。
 ブーッと開演を告げるブザーが鳴る。徐々に暗くなっていく照明に合わせて、あんなにがやついていた客席も段々と静かになっていく。始まるぞ、世界最高峰の舞台が。
 視線を前へ向ける。ちょうどオーケストラの指揮者が出てきて、ピンスポットで当てられたところだった。

「……俺も嬉しいよ」

 その時聞こえた微かな声。え、と思うよりも早く、会場いっぱいから指揮者に向けての拍手が捧げられた。隣を見るも、暗くて表情が見えない。今のは私の気のせいか、聞き間違いか、それとも。
 やがてオーケストラの演奏が始まり、幕が上がる。それから私は、自然と舞台に惹き込まれていくのだった。