ぼんやりしながらリュックに荷物を詰めていく。時刻は午前七時三十分。今日は九時から一時間半泉とのレッスンで、十一時半にはバレエ団のリハーサルが入っている。小さな公演が近いから、リハも詰められてきているのだ。レンタルスタジオからうちのバレエ団まではそんなに距離があるわけではないから、めちゃくちゃ急ぐ必要はない。それでも一時間以内に予定が控えていると、気持ち的にちょっと焦っちゃうよね。
 レオタード二枚いるかなあ、汗かくかなあ。教えだから微妙なところだけど、まあ持っていくに越したことはないだろう。レオタードの重量なんてそんなでもないし。
 いつも通りのセットをすべて詰め込んで、ふう、と一息つく。支度はすべて終わっているのに、ちょっと早起きをしたからまだ時間が余っている。こういうのってちょっと得した気分になるよね。あ、それこそ三文の徳ってやつか。まあだからっていつも早起きする気もないし、出来る気もしないけど。
 空いた時間はいつも通りスマホでSNS巡回かな〜なんてスマホを手に取ったとき、ふと視界にあるものが目に入った。

「あ、そういえばこれ置きっぱだった」

 カラーボックスの隅に置いていた小さなキーホルダーを手に取る。『LEO』と書かれたそれは、あの日ライブに行ったときに購入して、ランダムで当たったものだ。なんとなく買ったものだし、別に月永レオくんが推しというわけでもないからそのまま放置してたんだよなあ。でもこれデザインも可愛いし、ちょっとこのままにしとくのも勿体ないかも。
 うーん、と少し考えて、私はそれをだいたいいつも持っているバレエ用のリュックにつけてみた。うん、可愛い。そんなに名前の主張が激しいという訳でもないし、一見アイドルのライブグッズってわかんないから結構いいかも。はい採用。……そういえば、『Knights』メンバーの中で、まだレオくんにだけ会ってないなあ。MV撮影のときだけ……いや、そもそも他の四人と会っていることがおかしいのか。ここまで来たらちょっと会ってみたいなあなんて思うけれど、泉の話によれば彼はまだ海外滞在中らしい。戻ってくるのはまだ先らしいし、会いたくても当分会えないだろう。
 ま、別にいっか。それより今日のレッスン内容どんなのにしようかなあ。家を出るまでまだ時間はあるし、とりあえず皆の呟きでも見るか。そうやって今度こそスマホに目を向けると、文字を目で追いつつ、適当に画面をスワイプし始めた。

*

「ねえ、それ」

 今日は駅前で泉と会った。もはや見慣れたメガネと帽子姿だが、それでも身長が高くてオーラを隠しきれていない彼と並んで一緒に歩くのは、いささか烏滸がましいような気がする。まあそんなこと言ったら「俺の隣で並んで歩けるなんてお金払わないと出来ないんだから、そう思うのなんて当然だよねえ?」なんて言われそうだから絶対言わないけど。泉の自信ってば一体どこから来るんだ。私にもちょっとは分けてほしいところだ。
 そんなことを考えながら歩いていた時、ふと泉が声を上げた。それ? と彼の視線を辿れば、私の背後……リュックをじっと見つめている。

「それ、この間のライブの」
「え? ああ」

 ライブの、と言われてようやくぴんときた。今朝付けたばかりのあのキーホルダーのことか。そんなに目立つものでもないのに、良く気づいたなあ。いや、自分の所属するユニットのライブグッズだから当然か。
 横断歩道の信号は赤いライトが点いていて、大都市であるこの大通りではたくさんの人が信号待ちをしている。私たちもそれに紛れて立ち止まった。

「そうそう、買ったんだよ。おみくじ感覚で」

 本音を言えば買った理由は「なんとなく」だが、さすがに本人を前にしてなんとなくというのはあまりに失礼じゃないかと思い、キーホルダーがランダム仕様ということを生かして適当な理由をつけた。うん、おみくじ感覚。間違ってない。いや、大吉大凶みたいに優劣なんかない……けどね。
 そう言えば泉はふうん、とキーホルダーから視線を外すと、今度は、真っすぐ正面を向きながら問いかけた。

「れおくんのなんだね」
「うん。レオくんのが出た」
「れおくんが好きなの?」

 え、と一瞬呼吸が止まったのは、彼から「好き」という言葉が聞こえてしまったからだろうか。我ながら過敏になりすぎている。今投げられた質問はファンへ、いわゆる「推しは月永レオなの?」ということであって、恋愛的なあれこれではない。当たり前だ。そもそも私はレオくんと関わりないし。

「好き……っていうか、いやまあ『Knights』として応援はしてるけど。ていうかランダムなんだから好きも何もなくない?」
「……まあ、そうなんだけど」

 相変わらず正面を見たままの泉だが、珍しく歯切れが悪い。どうしたんだろう。……まさか、自分の付けてほしかったとか? 俺とこんなに関わってるのに俺のじゃないなんてありえなくないみたいなやつ? でもあの時は今より微妙な距離感で泉が出ても勝手に気まずいって思ってたし、じゃあ今なら手放しに喜べるのかって言われたら、……そうでもないけど。バレエ団の友達に頼めば交換とかしてくれそうだけどさ、別に私がそこまでして持って感じだし、ね。

「わざわざ付けてるから」
「ああうん、せっかくあるんだから付けなきゃちょっともったいないかなって。デザインも色も可愛いし」
「そう。じゃあそれはおみくじ感覚だったアンタにとって、大吉だったんだね」

 え、と思って横を見たその時。一瞬静かになった通りで信号が青になり、人が波のように動き始める。泉もそれに逆らうことなく歩き始めた。なんか泉、機嫌悪い……? 置いてかれそうになって慌てて追いかける。すれ違うひとをうまくかわしつつ、なんとか歩き続ける彼の隣へとたどりつく。
 泉、と少し機嫌を伺いつつそう言う。が、彼は先ほど感じた機嫌の悪さが嘘であったかのように、いつも通りに私に軽口を叩いたのだ。

「ほんっとアンタ、鈍くさいねえ」

*

 レッスンが終わり、すぐさま私は更衣室へと駆けこむ。まだまだ時間に余裕はあるといえど、早めについて損はないし。泉にはこの後すぐにリハがあると伝えているから、先に私がスタジオを全速力で出ても問題ない。
 そうしてさっさか着替えて更衣室を出た瞬間だ。ストレッチでクールダウンをしていた泉が、出入口へ向かうに私にねえ、と声を掛けた。

「あのMV、公開されたみたいだよ」
「こうか……えっ、ほんと?」

 思いがけない言葉に私はくるりと向きを変えて、泉の元へと向かう。突然私が向かってきて驚いたのか、泉はえ、と少し顔を歪ませた。

「ちょっと、急いでたんじゃないの?」
「急いでた! けど、今観れるんでしょ? なら今観たい!」
「いや、リハあるんでしょ」
「あるけど、アップはもうしてるようなもんだし! 実際五分ここで使ったってそう変わらないからさ。ね、一緒に観よ!」

 珍しくぐいぐい来る私に驚いたのか、それとも諦めたのか。ストレッチしていた姿勢を戻し、床に座り込んだ彼を見て、私も安心して彼の隣に座った。だって観たいじゃん。あのときの、私が泉と初めて会って、初めて『Knights』のことを知ったとき撮影でしょ。私が映ってるとかどうとかそういうことじゃなくて、単純にあのときのみんなを見たい。あの素敵な歌とダンスがどういう風に演出されて、どういう風に私たちの踊りと組み合わさっているのか。
 スマホを操作し始めた泉の手元を覗き込めば、有名な動画サイトの画面が表示されている。

「今公開されたばっかだって」
「へえ〜てか、泉もいつ公開されるとか知らなかったの?」
「なんか聞いた覚えあるけど忘れてたんだよねえ」
「ええ、そんなことある?」
「俺は忙しいの」
「……仰る通りで」

 全く否定が出来ない。いやまあ、そうだよね。スケジュール帳だってびっしりだろうアイドルが、わざわざ自分の出た動画のアップロード日時まで覚えてるわけないよね。最もすぎて言い返せないよ。
 ……ていうか今気づいたけど、これ、距離近くない? うん、近い、近いよね。いやそもそも私が泉の隣に座って、私がスマホを覗き込んでるんだけど、うん、近い。やばいなんか緊張してきた。いや、レッスンのときなんか近いというか泉の手も足も背中も腰も全部触ってるけどさ! それは仕事だから! 必要なことだから! 仕方ないし、意識だってしない。でもこれはまたちょっと違う。ああなんか、自分で座っておきながらここに来たことを後悔してしまいそうだ。この位置に一体いくらの価値があるんだろう。私の年収で収まるのかな。

「じゃ、再生するよ」

 ぐるぐると混乱していた頭が、その一言ではっと現実に引き戻される。いかんいかん、一応自分も出演した動画なのだ。出来としてどうなのかチェックしないといけないから、ある程度、ほんの少しはちゃんとした気持ちで観ないといけない。緩んだ気持ちを一瞬で整えて、私はその言葉にうん、と発した。自分で思ったよりかなり小さかったその声だが、泉はきちんと聞き取れたらしい。泉の長い指が再生ボタンを静かにタップした。