不幸中の幸いだったのだと思う。小さいといえど公演が近いため、あれを最後にしばらく泉とのレッスンは公演が終わるまでお休みの予定だった。だからこそ、私は公演に向けて集中して練習した。あのことは……ううん、泉のことは忘れる。もう思い返さない。何も考えず、ただ思ったことを口にして、あんな言い方をしたんだ。呆れられたし、取り返せない。私は嫌われた。きっともう、会うこともないのだろう。そう、今までのあれは夢みたいなものなんだ。現実なんかじゃ、なかった。
自分の気持ち悪い踊りを何とかしたかった。周りに追いつきたかった。認められたかった、私自身を認めたかった。そんな思いで集中した分、公演で披露した私の踊りはいい出来になるはずだった。はずだった……のに。
(……あれ)
はっと気が付いたときには既にカーテンコールで、私は他の皆とお辞儀をしていた。それから続々とメインキャストが出てきて、最後に主役のプリマとプリンシパルが喝采を一斉に浴びる。あれ、おかしいな。この舞台、いつ始まっていつ終わったんだっけ。いやそもそも、私はいつ劇場に足を踏み入れたんだっけ。たらり、と嫌な汗が額を伝う。一切の記憶がない。まるでドラマのような典型的な記憶喪失? ううんそんな訳ない、だって私は普通に練習してきただけで、記憶喪失でよくある大きな事故や衝撃なんか何も起きてない。じゃあこれは、一体何?
いつもは跳び上がるくらい嬉しく思うお客さんの拍手が、今は痛くて堪らない。手を叩くその音が、何故か自分を責めているような気さえする。痛い、気持ち悪い。お願いだから、誰もこっちを見ないで。
*
蒸し暑い空気の中で、一瞬さらりとした風が吹いた。身体に纏わりついていた湿気がほんの少しだけ緩和される。季節は初夏、これから真夏に向かっていく七月だが、一方で私の心は未だに六月の雨降り模様だった。
あの公演は無事成功した。お客さんもそこそこの入りで、小さな公演にしては評判だったと思う。駄目だったのは、私個人の踊りだ。
正確に言えば踊りそのもの、動き自体は恐らく普通だったと思う。ううん、技術的には前より進歩したし、綺麗に出来たと思う。じゃあ何が駄目だったかといえば、……恐らく、踊る心がなかったことだ。
幼いころからバレエを続けてきていて、何回か経験がある。気が付いたときには舞台が終わっている、あの感覚。あれが起きた時は、決まって心が欠けて踊ってしまったときだった。一見すれば普通の踊り、けど中身はめちゃくちゃだ。
バレエでもなんでも、一番大事なのは心を持つことだと思っている。バレエや演劇で言えば自分の演じる役柄を愛し、解釈し、演じ切る。それで初めて本当の芸術が完成するのだ。
なのに今回の私はどうだったかといえば、全く思い返せない。つまりこれが答えだ。私は空っぽのまま舞台に立ってしまったのだ。こんなの、プロ失格でしかない。
もちろん、そのことに一緒に舞台に立った人たちや先生方は気づいていただろう。けれどそれがよっぽど酷くなければ、誰も注意なんかしない。だって見た目自体に何も問題はないのだから。そしてそれ以前に、私はプロだから。生徒じゃない、子どもじゃない。それをわざわざ指摘してくれるような優しい世界ではない。……いや、友人たちは恐らく気を遣って言ってこないのかもしれないな。私がそういう踊りをしてしまったということに理由があるということを、きっとわかっているはずだから。
――そう、そして私ももちろん、わかっている。
(……ほんと最低だ)
泉のせいじゃない、悪いのは全部私だ。勝手に傷ついて、勝手に落ち込んで、勝手に別れを告げた。それであんなことになったんのだから、自業自得としか言いようがない。もう忘れたんだ、なかったことにするんだ。そう思いつつも、未だ彼の連絡先を消せていないのは、私があまりにも弱いせいなのか。
また少し涼しい風が吹いた。初夏の夜のレッスン帰りで制汗剤を使った身体に、ひんやりと染み渡る。ああだめだな、もう全部終わったことなんだ、後悔しても戻らない、戻れない。
気分をあげるためにアイスでも買って帰ろうかな、公演も終わったんだし。嫌な考えを無理やり振り払うようにそう思って、私はいつもの帰り道から少し逸れる。確かちょっと外れたところにあるコンビニが、アイスの品揃えが良かったはずだ。
「……あれ、人?」
思わず口に出してしまったのは、視界に珍しい光景が広がっていたからだった。コンビニは小さな橋を渡った向こう岸にあるのだが、その橋が掛けられている川の河川敷に、何やら人影が見える。その人影は寝転がっているようだが、ここから見る限り全く動いていないように見える。え、あれ、大丈夫かな。行き倒れ? ホームレス? ここからだと遠くてよくわからないが、もしかして救急車が必要なやつだろうか。見過ごすわけ……にはいかない。多分ここで見て見ぬふりしたら、一生私の中の良心が痛む気がする。
意を決して走り出す。すぐ救急車を呼べるように、念のためスマホを握りしめて。
「あの! 大丈夫ですか!?」
河川敷に到着し、背中で弾むうっとおしいリュックを投げ捨てて近寄りながら声を掛ける。が、その人はうつ伏せになったまま動かない。体格を見る限り、身長はそんなに高くないが男の人だろう。それにしては少し長い、眩しいくらいのオレンジ色の髪の毛を一つに結んでいて、ってあれ? なんかこの条件知ってる。まさか。こんな特徴的な人、だって他にはなかなかいないよね?
突っ伏した顔の部分に、よく見れば一枚の紙と、それからその紙の上に置かれた右手にはペンが握られている。少なくとも、いや、確実にホームレスではない。
「あの、」
「あああ浮かんできた! 霊感が湧いてきた……♪ そうだこの感じだ、芝生に埋まれば湧いてくると思ったんだ! やっぱりおれは天才だなっ! これは名曲になる予感! ああでもおれが書く曲は全部名曲か! わはは!」
……ああ、これは間違いなく行き倒れでもなんでもない。相変わらず顔は見えないが、彼は『Knights』の月永レオくんそのものだ。彼は超人気アイドルであると同時に有名な作曲家で、曲を思いついたら場所がどこだろうと書き散らかしてしまうらしい。確かそう、前に友人が言っていた。
何故彼がこんなところにいるのかは全くわからないが、正直ちょっとタイミングが悪い。今、『Knights』のことはあまり考えたくない。幸いにも声を掛けたのにも関わらず彼は私に気づいていないようだったので、気づかれないように、私はゆっくりと後ずさりをしようとした。
「ああそこのおまえ踏むな! これから世に轟いていく名もなき名曲を踏みつけるな!」
「へ!? あ、ご、ごめんなさい!」
突然振り向かれて怒鳴られて、思わず反射的に謝りつつ足元を見る。確かにそこには紙が数枚散らばっていて、私はその中の一枚の端っこを踏んでしまっていたようだった。譜面に問題がないことが幸いか。危ない、本当に印税何億レベルになるかもしれない曲を台無しにするところだった。ていうかこの人私のこと気づいてなかったよね? 後ろに目でもついているのか彼は。
「ええと、大事なものならちゃんとまとめて保管していたほうが良いと思います」
「そんなことしている間に霊感が降りてきたらどうする? 今その瞬間に書き留めなくちゃ意味がない! そんな時間が勿体ないだろ!」
「ええ……」
なんかすごい、この人。噂で聞くよりも変な人かもしれない。ライブで見た時は泉みたいにファンのことお姫様扱いしててめちゃくちゃかっこよかったのに……。でもやっぱり、その顔は正真正銘、あの月永レオだった。なんで有名人がこんなところに、という思いと、早くこの場から離れたい思いと、でも少し彼が心配な思いとで頭の中が葛藤し始める。そんな私をよそに、彼はまるで私の存在にたった今気づいたように再び喋り出した。
「だれだおまえ! いや言わなくていい! ううん誰でもいい! 夜の河川敷に突然現れたおまえの存在が、新しい霊感を湧き起こす!」
「……ほんとに、はちゃめちゃで、破天荒な王さまだ」
少し前に聞いたことがある。今の『Knights』は司くんが王さま……リーダーを務めているが、かつてはレオくんが務めていたと。彼も昔よりはマシになったらしいが、今でもそうとうめちゃくちゃらしくて、たまに泉がぼやいているのをそういえば聞いていた。
「レオくん、なんでこんなところにいるの?」
そう聞いたのは興味本位か、それとも私自身が彼に歩み寄りたかったのか。『Knights』から離れたい、離れなきゃと思っているのに、相変わらず頭と感情があべこべだ。
しかし彼は私の言葉が聞こえていないのか、それとも聞いていないのか。再び視線を紙に向けて、すらすらと音を紡ぎ出した。
逆に、そういうところが居心地悪くなかったんだと思う。だからこそ敬語が抜けてしまったというか。私もなんだか気が抜けて芝生に座り込んでから、足元に転がっていた紙面を拾い上げた。そこに描かれていた音の数々に何故かとても興味をそそられてしまって、私は思わずたどたどしくも頭の中で歌いだす。正直楽譜なんかギリギリ音符が読める程度だし、音感だって人並み程度だが、それでもドという文字を見ればちゃんとその音がでるくらいにはわかる。そうしてゆっくりゆっくり、一音一音、そのメロディーが響き出す。
「……レオくんの作り出す音は、すごく綺麗だね」
気が付いたら、そう口に出していた。
「伝わってくる、っていうのかな。何て言えばいいのかよくわからないけれど、直感的にというか。受け入れやすい、ううん、受け入れたいと思っちゃう。不思議だね、私はこの譜面に描かれてる全部の音を理解したわけじゃないのに」
彼はきっと反応しない。だから、独り言のはず、だった。
「作曲っていうのは、内側から溢れる想いを、すべてをぶつけて、それが耳に、心に届く音になるんだ。おまえも表現者ならわかるだろ? それを表現するのにどれだけの努力をしてきたか、どれだけの想いをしたか。そういうのってさ、全部伝わるもんなんだよ」
思わず、目を見開いた。レオくんはいつの間にかまた振り返って、私の瞳をじっと見つめていた。
「それでも、言わなきゃ伝わらないものもある。心の奥に鍵をかけて閉じ込めた想いは、自らが錠前を外して取り出さなくちゃいけない。自分の意思がなくちゃだめなんだ。鍵につけた余計な装飾ばかりに目がいって、肝心なものが見えてないんじゃ、誰も幸せになんてなれないよ」
「レオ、く」
「物事はいつだってシンプルに! ただその鍵を開ければいいだけだ! 表現ができたおまえには、その資格がある! ――なあ、なまえ?」
「……え、なんで、私の名前……」
瞬間、まるでタイミングでも計ったかのように近くに置いていたスマホのバイブが鳴る。驚いて反射的に画面を見ればそこにはあれからお互い一切の連絡をしていなかった彼の名前と、それからたった一言。
「橋の、上……?」
ただ、それだけのメッセージ。まさか、と先ほど自分が渡ってきた橋を見上げれば、その真ん中あたりに、うっすらと人影がひとつ。どくり、と心臓が鼓動を打ち、一瞬だけ息が止まる。視線を下ろしてレオくんを見れば、彼は再び作曲へと没頭していた。
どうしてレオくんが私のことを表現者だと、ううん、それどころか私の名前を知っていたかなんてわからない。どうしてあんな言葉を投げてきたのかなんてもっとわからない。けれど今は。
「…………ありがとう、レオくん」
今、橋の上で待つ彼の元に行かなきゃいけない気がする。私はスマホを固く握りしめ、それから投げ出したリュックをひっつかんで、全速力で駆け出した。