急勾配の坂道を駆け上がり、その橋を目指す。舗装されていない河川敷の芝生はとても走りにくい。滑り落ちそうになるのをぐっと踏ん張って、ひたすら足を前へと踏み出していく。
 あんなに泉に会いたくなかったのに。そもそも会わないつもりだったのに、忘れようとしてたはずなのに。今私の目指しているところはただ一つで、余計なことだって何一つ考えられない。頭の中でぐるぐると回っているのは先ほどのレオくんの言葉。やけに詩的で、抽象的で、言葉の意味はほとんどわからなかったし、さらにはそれを言った彼の本意もわからない。けれど私はただ伝えなきゃ、とそう思った。誰に? 泉に。――何を?

 平地に辿り着けば、今度は先ほどとは正反対のコンクリートを踏みしめる固い感触が足の裏から靴を通して伝わってくる。走りやすい一方で、膝を痛めそうなその感覚は、職業柄いつもなら避けるようなものだ。けれど、今はそんなことなんて気にしていられなかった。ううん、それさえも忘れてしまっていた。
 ぼんやりと見えた人影が、徐々にはっきりとしていってその姿を現す。橋の上にきてからは彼のいる真ん中を目指してただ足を進める。近づいて近づいて、やがて人一人分くらい空けた距離まで来てようやく私は立ち止まった。

「泉」

 実際連絡を絶っていた日数はそれほどでもない。久しぶり、というほどでもないが、それでも私にとってなんだ彼をこうして見るのはひどく懐かしいように感じた。
 彼は相変わらず変装用として帽子を被っていたが、珍しく眼鏡はかけていない。ほぼ無意識のうちに彼の名前を呼べば、泉はスマホに落としていた目線をゆっくりと上げてこちらを見た。

「……皮肉だよねぇ。れおくんのお陰――いや、あれのお陰でまた会えただなんて」
「……あれのお陰?」
「ていうかさ、一方的にあんな一生の別れみたいなの告げられるし、メッセージ送ってもブロックされてるし何なの?」
「え、ち、違うもん。ブロックはしてないよ。……既読付けてないだけで」
「連絡とれないなら似たようなもんでしょ。……まあでもそっか、ブロックしてなかったんだ」

 泉はそう、少し安心したように呟く。そこでようやく私はあれがあまりにも一方的に自己完結させた別れだったと気づいた。確かにメッセージが来ていたことに気づいてはいたけれど、私は忘れるつもりで、終わらせたつもりだったから。……ううん、単純にその内容を勝手に想像して、彼から本当に否定されてしまうことが怖かっただけなのかもしれないけれど。
 それにしても、と改めて泉を見る。彼の態度はあんなことがあったというのにあまりにも普通だった。いや、そう見せているだけかもしれない。実際私だってあの河川敷からここに来るまでの間は色んな気持ちがはち切れそうでいっぱいいっぱいだったのに、いざここに来てしまえば先ほどのあれは何だったのかと思うくらい落ち着いてしまっている。それは気持ちのメーターが振り切ってしまったか――はたまた一周まわってしまったか。どちらにしても、ここにきていやにすっきりしてしまった頭で私が今思ったのはただ、どうしよう、という気持ちの迷いだった。

「え、えと。その、」

 しばらくの沈黙の後ようやく口を開けたのは私のほうだった。そもそも私はなんでこんなに必死になってここまで来たんだっけ、と振り返らなくても、冷静に思い返してみればただ、彼に伝えたい言葉があるからだ。あまりにも自分勝手だった私の行動を、言葉を、謝らなくては。
 ちらりと横目で先ほど自分がいた場所の河川敷を見下ろしてみたが、さすが神出鬼没と言われる人だ。寝転がって作曲していた彼の姿は、もうどこにも見当たらなかった。

「泉、あの」
「うっさい」
「何で!?」

 そうして口を開いたが、すぐに言葉を遮られる。しかも突然のうるさい発言だ。先ほどまであんなにお互いシリアスな空気を醸し出していたのに、何だか一気に緩んだ空気になってしまった。私が思わずツッコんでしまったのも多いにあるだろうけど。
 しかし泉はそんな私のツッコミに何かいう訳でもなく。というか、むしろ自分の口から出た先ほどの言葉を少し後悔しているように、あー……と声を漏らす。一体何なんだ、泉の言いたいことがよくわからない。でもそもそもメッセージが来て、私は呼び出された側だ。ということは、泉は私に用があるはずなのだ。いっぱいいっぱいで忘れていたが、私が話をするのは彼の話が終わった後の方がいいだろう。
 しかし、いくら待てども彼の口から続きの言葉が出てこない。何か言いにくいことだというのは鈍い私でもわかるが、色々な思いを募らせてきた私にとって、この沈黙は心臓が痛い。ああ、こんなことなら来ていた彼のメッセージをちゃんと読んでいればよかった。

「あのさ」

 そう思った次の瞬間。それまで固く閉ざされていた泉の口が、ゆっくりと言葉を吐き出した。

「最初に会ったときに俺が言った言葉、覚えてる?」
「……え?」

 しかしそれは予想の斜め上をいくような、というか全く予想もしていなかったような問いだった。思わず素っ頓狂な声が出るが、恐らく疑問符がありながらも最初から私の返事を求めてはいなかったんだろう。今さっきの私の声なんか全く気にせずに、泉は淡々と喋り出した。

「『努力したからここにいる。それだけですごいことだ』って」

 聞き覚えのあるセリフに、ああ、と感嘆符を発する。そうだ、それで確か私が言ったんだ、泉のことを嘘つきだって。思えばあれが始まりだった。
 今聞くとなんだかちりちりと胸が痛くなるようなセリフだが、あのときの私もそれを本気で言ってるとは受け取らなかった。お世辞だろうと。そしてそれを直接泉に伝えて、そうしたら……そうだ、「そういうこと」にしといてあげる、と彼は言った。

「俺はさ、確かにあんたの言う通り嘘をついてたよ。けど、あれのすべてが嘘なわけじゃない」
「……それ、どういう」
「嘘なのはあの言葉の後半だけ。だって世の中結果がすべてだからねえ。努力だけが、それだけがすごいとは今だってちっとも思わない。……けど、なまえは努力したからこそ、才能だけじゃ到底なることのできないプロの『バレリーナ』って職業に就けた。それは本当のことでしょ」
「え、え、何……」

 突然の話に、正直まったくついていけてない。とりあえず彼の言いたいこととしては、あの言葉は半分嘘で、半分本当で。そして私の努力を、言わずとも感じていた、わかっていたということ。

「……俺はさあ、最初からあんたの自己評価の低さが気に食わなかったんだよね。だから俺の半分の嘘を指摘されたとき、全部嘘ってことにしといた。バレエが本職なんかじゃない、ただのアイドルの俺なんかに言われて悔しいって思わせて、自分に自信を持ってほしかった。……まあ、あんなこと言われちゃったんだし、今となっては遠回しすぎたなって思うけど」

 そう言って、泉は小さくため息を吐く。一方で私の頭の中といえばぐるぐると目まぐるしく回っていて、思考回路もショート寸前だった。
 何、それはつまり、初対面のあのときから、泉は私に気を遣ってくれていたってこと? ――そうだ、泉は私の踊りを綺麗だと、好きだと前に言ってくれたじゃないか。だから私をプラスの方向に導いてくれようとしたの? いやそれよりも、あのとき泣きたくなるほど嬉しかったのに、どうして今の今まであの言葉を忘れてしまっていたんだろう。
 言葉に出来ないような、どうにもならないような感情が湧いてきて、身体の奥の方をぎゅっと掴まれたような気分になる。ここまでの泉の発言を顧みると、私はあの口論のときに思った以上にひどいことを言ってしまったのかもしれない。あの時叫びながらも自分の言ってることはよくないことだってわかってた。けれどそれでも自分を否定して、否定して、……私のことを認めて、綺麗な踊りだと言ってくれている泉を傷つけて。ああもう、本当、最低じゃん、わたし。

「いずみ、ごめ、ごめんなさい、ごめんね……!」
「ちょっ、泣かないでよ! 別にあんたを泣かせたいわけじゃないだし!」

 考えたら、泣き虫な私がこうなってしまうのは当たり前のようなことだった。いい大人が情けない。けど、目に溜まってきてしまった雫をうまくごまかしてなかったことにする術を、私は全く知らない。ぐずぐずと泣き出す私を見て、泉は慌てたように一瞬辺りを見回す。そうだよね、こんな夜にこんな光景見られたら、最悪警察呼ばれちゃうかもしれないし。いや、それよりも彼が瀬名泉とバレてスキャンダル起こされる方がやばいか。

「ごめ、いずみ、泣いちゃってごめん泣き止むから……!」
「泣き止むからって……そもそもなんでそんな泣くの!」
「だって、泉にひどいことたくさん言っちゃって、そりゃあ泉も怒るよね、そうだよね」
「いや、ていうか俺もあの時ちょっと八つ当たりみたいになって、だから、……ああもう!」

 泣き止むと言いつつ止まらない涙にいい加減嫌気が差しただろう。泉がまるで自暴自棄になったかのように大声を上げる。本当にごめんなさい、私のせいで、ああでも泉からしたらこうして私が私がって思うのが良くないのかな。でもどうしよう、どうしたら、

「……いず、み?」

 そうやって頭の中をぐるぐるとさせていた私にとって、それはあまりに突然のことだった。ぐい、と腕が引かれて、気づいたときには私はひどく温かい場所にいた。彼の両腕が私の背中に回っていて、一方で私は丁度彼の胸のあたりに顔を埋めている。甘すぎない爽やかな香りの香水と、それから時折感じる泉の匂いが、ふわりと鼻を掠めた。

「……話聞いてた? 確かにあんたにはムカついたけど、俺も八つ当たりしたんだってば」
「や、やつあたり」
「そう。なまえが、……その、れおくんのキーホルダーつけてたから。それでちょっと勝手にイライラした」

 彼がそう、 言いにくそうに呟く。けれど私は今のこの状態と、それから今の言葉と。前の会話だって完全に整理したわけじゃないのに、もう考えることが多すぎて訳が分からない。レオくんのキーホルダーつけてたからイライラしたって、それ、どういうこと? そういえばあの時一瞬、見間違いかと思うくらいに少しだけ、泉が不機嫌に見えた。思えば違和感を感じる会話だった。まさか、まさか? 泉は最初謝罪を目的にわざわざ来てくれた。レッスンを受けてくれた。ライブに誘ってくれた。落ち込んだとき、励ましてくれた。デートに誘ってくれた。私の踊りを、好きだと言ってくれた。どうして泉は八つ当たりをしたの? どうして私は抱きしめられているの? すべてを繋ぎ合わせて、それでもまさかという言葉しか出てこなくて。どきんどきん。心臓の音が破裂してしまうんじゃないかと思うくらいうるさくて、ごくりと唾を飲み込む。息をたくさん吸って落ち着きたいのに、こんな状態じゃ、か細く呼吸することだけで精いっぱいだ。

「……今思えば、だけどさ。俺、あんたの踊りに、……あんたに、一目惚れだったんだよ」

 まさか、そんなの、期待してしまう。ほんとに心臓、爆発しちゃうんじゃないかな。身体に直接伝わるこの鼓動はわたしものか、それとも彼のものか。
 夏ってここまで暑かったっけ。比較的高所の橋の上だというのに、風だってちっとも吹いていない。周りはびっくりするほど静かで、耳に入ってくるのは私と泉が発する音だけだ。
 聴覚がひどく冴え渡っている気がするのは気のせいではないのかもしれない。だって私は、こんなにも彼の次の言葉を待ちわびている。
 彼の顔は見えない。私を抱き締める彼は今、どんな顔をしているのだろうか。いずみ、と小さく発すれば、彼は少し間をおいて、それからゆっくり丁寧に、言葉を紡いだ。

「好きだよ、なまえ」

 それは、私が絶対に聞けないと思っていた、聞きたいと思っていた言葉で。好きって、だから、私が泉に思う好きっていうのと、同じってこと。どうしよう、言葉が何も出てこなくて、気持ちもぐしゃぐしゃだ。私、さっきまで何を色々考えてたんだっけ。冷静に思考を巡らせようとしても、今この瞬間に伝わる彼の温もりに頭も身体もすべてが支配されてしまう。私は、なんて言えばいいんだろう。何を言えば正解なのだろう。そんなものはないとわかっているのに、それでも最善を求めてしまう。だって私は、……私はずっと、泉が好きだった。
 恐る恐る、自然のままになっていた両腕を動かす。もぞもぞとしてみれば、彼の腕もびくりと震えた気がした。
 泉も、怖いのだろうか。私の答えが返ってくるのが、怖いのだろうか。あんなにいつも完璧で余裕のある泉が? 遠い芸能人だと思っていた存在が、今はひどくちっぽけで、確かな存在に思える。私は、彼と同じ地に立って、同じ気持ちを共有している。
 彼の背中に腕を回した。私も同じように。いつの間にか、涙は止まっていた。

「すき、わたしも、泉が好き」

 掠れた声は届いただろうか。ぎゅ、と彼の服を握りしめる。皺になるって怒られるかな。でももう、私はこれ以上伝えることが出来ない。いっぱいいっぱいで、もう言葉が全部消えてしまったみたいだった。
 けれどそれはきっと泉も同じなのだろう。ぎゅ、と彼の腕に力がこもって、より身体が密着する。温かい、恥ずかしい、うれしい。けど同時にちょっぴり苦しくて、とんとん、と小さく彼の背中を叩いてみれば、ごめん、とすぐに返ってきて、その腕が離される。離れていく温もりがほんの少し寂しくて、追いかけそうになってしまうのをぐっと堪える。けれど、ようやくこれで彼の表情を見ることが出来る。

「泉」

 名前を呼んで、その表情を伺おうとする。が、それはすぐさま顔を片手で隠した彼自身によって阻まれてしまった。

「……見ないで。今、多分あんたと同じ顔してるから」

 どんな顔、だなんて言わなくてもわかる。だって私だって自分の顔から感じる熱を無視することだなんて出来ない。それは全部が本当という証明であって、……いや、ここで真偽を疑うのはあまりにも野暮だろう。だって私はいま、こんなにも幸せなのだから。

「……うん、きっとおんなじだね」

 ようやく小さな風が吹いた。ぬるいその風でも、ほんの少しだけ涼しさを感じた。そこで先ほど風を感じなかったのは吹いていなかったからではなく、彼の腕の中にいて私が感じなかっただけなのだと、ようやく気が付いた。