スマホを当てていない耳の方から、ドン、と何かが爆発したような音が聞こえた。けれど爆発音にしてはいやに小さいそれは、果たして一体何の音なのか。その答えは、つけっぱなしだったテレビ画面を見ればすぐに合点がいく。そこに映されていたのは、夜空に咲く大輪の花。お腹の底に響くような、けれど決して不快ではないその音と共に、色とりどりの花が大量に漆黒を飾っていた。
「今日、花火大会だったんだね」
画面右上に「生中継」と書かれたテロップを見てそう呟く。電話の向こうの彼も知らなかったのだろう、私のその言葉を聞いて、興味があるのかないのか、ただ一言「そうなんだ」と返してきた。
『好きなの? 花火』
「好きっていえば好きだけど、毎年花火大会行くってほど好きなわけでもないかな。……でも、うん、今年は行きたかったかも」
泉と一緒に見たかったな、なんて。そんな恥ずかしいこと絶対に言えないけど。けれどそのことを抜きにしても、今年は本当に行きたかった。というのも、毎年この時期は公演直前で、リハーサルがみっちり詰まっているからだ。夏は発表会を含め、バレエの舞台が多い。だからこそ今までろくに夏らしいことをした経験があまりなかったのだが、今年は別だった。珍しく秋まで舞台がない。ということは、練習も今までのようにぎちぎちに詰まっていることもない。だから、今年は夏らしいことをできるチャンスだったのだ。
……だったんだけれど、結局ここまで何もできずじまい。あそこへ行こう、あれを食べに行きたい、そんなことを友人同士で語り合いながらも、実現することはなかった。
『行きたかったって、まだ今年の花火大会、全部終わったわけじゃないでしょ。何勝手に過去形にしてるの』
「いや、だってもう行く機会ないかなーって。残ってるのって多分、もう日にち近いのしかないし。今更友達と予定合わせられないしね」
今は八月の後半。詳しくは知らないけれど、このテレビで生中継している大きな花火大会が終われば、残っている大会は恐らく僅かしかないだろう。忙しい泉と今から予定が合わせられるはずもないし、結局今年もお預けだ。過去形にもしたくなる。
『……ごめんねえ。スケジュール合わせられなくて』
「えっ、そんなの謝ることじゃないよ! むしろいいことじゃん、お仕事いっぱいあるのは」
『そうだけどさ。せっかく付き合い始めたのに、どこにも行けないどころか会えないのはちょっと、って思うんだよねえ』
はあ、と小さく息を吐きながら言う泉だったが、一方で私は彼の言葉――正確には「付き合い始めた」というその単語に、ちょっとだけどきどきしてしまった。確かに私たちは付き合い始めた。けど、改めてそう言われるのはやっぱり恥ずかしい。泉は泉で平常運転なのがちょっぴり憎たらしいと思ってしまうくらいだ。
『あ、でも次の金曜の夜なら大丈夫かも』
「え、ほんと?」
『本当。ご飯でも行こっか』
「行きたい!」
思わぬ提案に食い気味で言葉をかぶせてしまう。あ、と気づいたときにはもう遅い。私の顔が熱くなるのと同時に、電話口からはくすくすとした笑い声が聞こえてきた。うう、恥ずかしい。今まで泉になるべく負担を掛けないように欲は言わないようにしてきたし、色々我慢してきた。だからこそ彼に対する熱量は抑えているように見せていると思っていたけれど、これじゃあまるで泉に会いたくてたまらない、と言っているようなものだ。
『すごい勢い。そんなに俺に会いたいの?』
案の定ツッコまれてしまって、うう、と押し黙ってしまう。会いたい、会いたいけれど、そんなこと絶対に言えるわけない。それでも泉にはわかってしまったようで、……いや、もしかしたら最初からわかっていたのかもしれないけど。
相変わらず電話口からはくすくすとした笑い声が聞こえるが、絶対に今彼の表情はにやにやとしたあの意地の悪い笑みを浮かべていることだろう。付き合い始めてなんだか泉が優しくなったように思えていたが、やはり根本的なあの意地悪な部分は変わっていないようだ。まあ、それが瀬名泉という人間であり、私が好きになった人だから、そういう性格は変わってほしくないというのが本音だけど。
「あ、じゃあ、じゃあさ。ひとつ、したいことがあるんだけど」
そんな気持ちや羞恥心を誤魔化すように、私は声を上げる。それでも決して誤魔化すためだけに今思いついたことではない。先ほどからじわじわ私の頭の中を占めていた考えだ。あまりに突然な私の要望だったが、泉は何? と聞いてくれた。果たしてこれを彼がOKとするのかNGとするのかはわからないけれど、言ってみるだけ価値はあるだろう。
「あのね、」
*
シートベルトを外し、早急にドアを開ける。そうして車を降りれば、瞬間に独特な潮の香りが鼻を掠めた。久々だ、この感じ。昼間なら海水浴を楽しむ客でいっぱいになっているであろう浜辺も、今はひとっこひとりいない。こんな光景もなかなかレアなことだろう。泉が降りてくるのも待ちきれなくて、一人で道路から浜辺へ続く階段を駆け下り、走りだす。サンダルに砂が入りまくっても気にしない。砂浜に足を取られる感覚も、何年ぶりだろう。昔はこの感覚がひどく煩わしくて嫌いだったのに、今ではそれすらもこの高揚感のひとつの理由になっている。
波打ち際まで走ってきてみれば、耳に残る心地いい波の音。肌にまとわりつく、べたついた潮を含んだ海の風。それらをめいっぱい堪能するように、私は思いっきり息を吸い込んだ。
「おこちゃまだねえ」
そんな声が後ろから聞こえてきても、別に何とも思わない。くるりと振り返ってみれば、泉は喜怒哀楽も何もないようなノーマルの表情で、ゆっくりとこちらへ歩いてきている。手に持ったそれはがさがさと、波の音に混ざって軽快な音を鳴らしていた。
「だってさ、海、久々なんだよ。テンションあがっちゃうじゃん」
「それでも食べた後でよくそんなに走れるねえ」
「泉はテンションあがらないの?」
「別に。ここの浜辺は何度も来てるしねえ。今日来たのは久々だけど」
言いつつも、それでも彼はどこか懐かしそうで。私はその原因であろう、泉の背後にある、ここから薄っすらと見える大きな建物を見つめた。
私立夢ノ咲学院。彼の、泉の母校。ここはそんな夢ノ咲学院のすぐ近くにある浜辺である。先日電話で言った私のわがままの為に、食事の後、泉が車でここまで連れて来てくれた。無理を言ったつもりはあるし、そもそも泉がOKしてくれるとは思わなかったから、快諾して、この場所まで提案してくれた時は本当に驚いた。そういうの、泉は嫌いだと思っていたから。
「そんなのはいいからさ。ほら、さっさと始めようよ」
そんな言葉と共に浜辺に置かれたのは、既に水の入ったバケツ。車を降りてすぐに水を汲んできてくれたのだろうか。あまりの用意周到っぷりに拍手を贈りたくなる。そんなことしたら絶対に「誰のためだと思ってるのお?」なんてお小言を言われそうだから、思うだけに留めておくけれど。
そして彼は、先ほどからがさがさと音をさせていたビニール袋の中から私が待ち望んでいたそれを取り出す。上品さの欠片もないような子どもっぽいパッケージには、「みんなの花火セット」とポップな字体ででかでかと書かれていた。
「えっへへ、わがまま聞いてくれてありがとうね、泉」
「むしろこんなんでいいのって俺は思うけど」
「十分! 大満足できる! だってこういう手持ち花火もさ、もう何年もやってないよ。楽しみだなあ。ね、ね、どれからやる?」
花火を袋から取り出しながらそんなことを聞いてみるが、返ってきたのは予想通り「なんでもいいよ」という答え。始めから答えがわかっているのに聞いてしまう私も、やっぱりそうとう興奮しているのかもしれない。
ポップな柄の手持ち花火はびっくりするほど数があって、二人じゃきっと消化しきれないほどだ。先ほど二人で花火を買った際、私がごねてたくさん入っているものを選んだ。どうせそんなに出来ないよ、と呆れて言った彼の言葉ももちろん理解している。でもだって、余れば。たくさん余れば、また来年、ふたりで花火が出来るかもしれない、なんて。やけに乙女チックな思考を持つようになったものだ、私も。
「じゃあ私これにする! 泉もはい、これ持って! 火ぃつけよ!」
「はいはい。たっく、本当子どもみたいにはしゃぐねえ、あんた」
子どもっぽくて悪かったですねー! なんて言いながらわざとらしく舌を出してみたが、実際私も何とも思っていない。悪意のない悪口というか、なんというか。泉のそういうところが嬉しくなってしまうというのは、私も相当絆されてしまっているのだろう。彼と付き合い始めて、私自身もどんどん変わっていっている。今述べたものが果たしていい方向へなのかはわからないが、少なくとも、「認めてくれる相手が身近にいる」ことによって自分を卑下することが少なくなったのは、間違いなくいい方向への転換だと思う。
着火ライターを使って火を付ければ、すぐさま手に持っていた花火からぱちぱちと火花が上がる。暗闇の海辺で突如あがったその光は眩しくて、きらきらとしていて、既にテンションが上がっているのに、もっと気持ちが高ぶってしまいそうだ。そこから泉の持っている花火に火を分け与えれば、そこからも同じようなぱちぱちとした花火が燃え上がる。よくある普通の、一般的な手持ち花火。それなのに飽きなんかこなくて、いつだって新鮮な気持ちで火をつける。
それから火をつけて、それが燃え尽きてなくなればバケツに入れて、また新しい花火を手に持って。時には二個持ち三個持ちなんかして、危ないでしょお!? なんて泉に怒られたり。そのひとつひとつが楽しくて、それこそ子どもみたいにはしゃぎまわった。時間のことなんて忘れて、めいっぱい。だから気が付いたときには浜辺に来た時からかなり時間が経っていて、そろそろ帰らなければいけないなあ、ときっとお互いに思っていた。
「ねえ、じゃあ最後にこれやろうよ」
そんな私が最後に取り出したのは、小さな小さな打ち上げ花火。お祭りなんかとは比べ物にならない、良く言えばかわいらしい、悪く言えばおもちゃのようなちゃちなそれ。最近はこういうのを出来る場所が限られているらしいが、この浜辺は周りに住宅もないし、打ち上げても大丈夫だということを下調べ済みだ。これがしたくて、最後の最後までとっておいたんだ。そもそも花火大会の話題からこういう発想になったんだ、泉も否定なんかもちろんするはずもなく、はいはい、なんて言いつつもどこか楽しそうに同意した。
バケツには二人で消費したたくさんの花火が突っ込まれていて、それだけで夏を感じさせられる。それじゃあこの花火があがったら、夏を感じすぎて泣いてしまうのかな、なんて我ながら年老いた考えに少し笑ってしまう。こんなの楽しいのに、楽しくて仕方ないのに、夏ってどうしてこんなに物悲しくなるのだろう。昔の思い出がそうさせているとはよく言うが、そんなに昔を懐かしむほど、今が充実していないというわけではないのに。
「じゃ、火ぃつけるよ」
そんなことを考えている間に泉は花火を準備し終えたらしくて、何も手伝ていないことに申し訳なさを感じつつもうん! と返事をする。きっと一瞬で、あっという間に終わるであろうそれに想いを馳せて、少しどきどきしながら私は少し離れた場所に行く。彼が着火ライターをつければ、ちりちりと、耳をすませていなければ聞こえないくらいの小さな音が聞こえてきた。同時に泉がこちらへ走ってくる。そうして私の隣に辿り着いた泉だったが、長い導火線をもった花火は未だ打ちあがらず。私たちは何も言わず、二人してそのときを待つ。この海をバッグに花火が打ちあがったら、どんなに綺麗だろうか。
その時に聞こえた、火薬が打ちあがる音。立派なものじゃないから、決して高くはあがらない。だから、きっとすぐにそれが見られる。
「なまえ」
そんな私を呼ぶ声が聞こえたのは、花が開くより前のことで。なに、と言うより先に隣にいる彼を見ようとした。
瞬間、一瞬だけ彼の綺麗な瞳と目が合う。間近に来て瞑られた目を見て、あ、まつ毛長い、なんて。目の前で起きたことについて何かを思う暇もない。むしろただそんな感想が浮かんでくるくらい、理解が及んでいなかったのかもしれない。
ドン、という、花が咲いた音が聞こえた。同時に唇に触れた柔らかい感触。何が、だなんて考えなくてもわかる。温かくて、優しい。あれだけ楽しみにしていた打ち上げ花火は二人とも見ていなくて、それでも私は、その一瞬で幸福感に包まれる。
「……ドラマ、みたい」
やがて彼の唇が離れて、顔を見合わせて。いっぱいいっぱいの私が吐いたのは、どこか他所事のようなそんな言葉だった。
「なあに、一番最初に言う言葉がそれ?」
泉もどきどきしているのだろうか。わからない。こんなに近くても、顔色まではうかがえない。だって花火はもう散ってしまった。満月でもない浜辺は、びっくりするほど薄暗い。それでもなぜか、どうしてか。お互いの多幸感だけ伝わってくる。
「だって海辺で、花火の瞬間、なんて」
「あのねえなまえ。相手はこの俺なんだよ?」
え? と出そうになった声も、喉のあたりでとどまる。わたしを見つめる泉の瞳が、あまりにも綺麗で、かっこよくて。けれど口角は余裕綽々というようにほんのり上がっていた。
「フィクションなんかより、もっとドキドキさせてあげる」
きっと、泉じゃなかったらクサいセリフだと笑い飛ばしていただろう。けれど泉だから様になる。本当に私は、彼の言う通りどきどきさせられてしまうのだろう。……そんなことを考えなくても、既にこの心臓はばくばくと大きく打っている。有言実行、いや、言葉よりも前に既にこうなっていたのだから、その四字熟語も当てはまらないか。
こんなことを考えてしまうわたし、すごく空気が読めないと思う。だってそうやって色んなことを考えないと、目の前の泉の顔で、声で、言葉で、体温で、匂いで。全部がいっぱいになって、それこそ花火のように爆発してしまいそうだから。
何も言えず、何も言わず。ただ、お互いがお互いだけを見て。やがてまた近づいてきた泉の顔を一瞬見て、私は今度こそ静かに目を瞑った。
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お題箱より、「泉との初デート」
ありがとうございました。