『そういやあんたの名前、なんていうの』
検索してすぐに出てきた「瀬名泉」という名前と、綺麗なお花の写真のアイコン。挨拶もそこそこに、不本意にも奢ってもらってしまったお礼を率直に伝えれば、移動中なのか、意外にも返事はすぐに返ってきた。良いよ別に、と簡潔にきた返事に続いて、感覚を空けずに飛んできたその質問。
そういえば、私一度も名乗ってなかったなと今更気づく。瀬名さんよく名前も知らない私を友達追加してくれたな。まあアプリのアイコンを友達と写ってる写真にしているから、そこで判断したのかもしれないけど。
『名乗ってなくてすみません。みょうじなまえといいます』
ようやくといっていいほどの自己紹介だ。瀬名さん、私の所属するバレエ団くらいしか私の情報知らなかったから、だからこそあそこで待っていてくれたのだろうけれど……なんか本当にすごい人だなあの人。
それからしばらく返事はなくて、というか既読はつかなくて。仕事なんだろうなあとぼんやり思いながら、「特に用事もない」私は帰宅した。テレビを見て、趣味の音楽を聴いて。日が落ちてからだいぶ経ってお風呂からあがったときだ。ぴかぴかと光るスマホの通知ランプ。見てみれば、未だ見慣れない彼のアイコンからまた簡潔に、昼間の返事がきていた。
『そ。よろしく、みょうじ』
……はたして、この人と今後よろしくする未来があるのだろうか。お世話になるかもしれないって言ってたけど、それってどういうことだ。考えても全然わからない。だからこそ気軽によろしくなんて言葉に出せなくて、というか芸能人とラインしている複雑な感情が強すぎて、どう返事をするか無駄に悩んでしまって。結局私は就寝前、お気に入りのうさぎがお辞儀をしているスタンプをひとつ送って、布団に潜り込んだのだった。……また会うときがもしあるのならば、意味もなく奢られた分のお金は返したいなあと思いながら。
*
『この中で空いてる日ある?』
「は?」
思わずそんな言葉が口から出てしまって、周りにいた人たちから不思議そうに見られる。いや、だってこんなの声に出ちゃうでしょ。
あれから僅か一週間とちょっとだ。お花のアイコンは突拍子もなくそう問いかけてきていた。続けざまに送られてきていたのは、一ヶ月以内の時間指定付きの日付が少し。正直かなり絞られている。……これはもしや、例の「お世話になるかもしれない」ことに関係しているのだろうか。というかそうとしか思えない。じゃなければ瀬名さんから予定を聞かれる意味が、いやむしろ連絡がくる意味がわからない。
「何なに? デートのお誘い?」
「うあっ!?」
ひょい、と横からスマホの画面を覗きこまれて、思わず画面を手で隠す。まさか瀬名泉なんて名前見られちゃいないよな、と内心だらだらだったが、面白そうに笑う社員さんは恐らくメッセージの内容しか目に入っていなかったらしい。間一髪というやつだ。
「違いますよ。と、友だちからの連絡です」
「それって女? 男?」
「お、女です!」
「なーんだつまんない! せっかくなまえちゃんに春が来たと思ったのに」
「やめてくださいマジで……」
けたけたと笑う社員さんは悪気はないのだろうけれど、色んな意味で緊張しまくっていたこっちの身としてはそういう冗談もやめてほしい。この社員さんも、私と仲が良いからこそぐいぐい聞いてくるのだろうけども。
「バレエばっかしてるのもいいけどさ、早く彼氏もできるといいねー! じゃ、私先戻るね! 休憩ありがとうございました!」
「余計なお世話です!」
ぴしゃりとそう言えば、社員さんはあははと軽く笑って、その言葉のテンションとは真逆に静かに休憩室のドアを閉めていった。
一気に静かになった部屋で、私は思わずはあ、と小さくため息を吐く。何だか今の一瞬で無駄に疲れた気がする……が、もう一回改めて画面を見て、さらに訳の分からなさで疲れたような気がした。いや、彼に会いたくないわけではないのだ。むしろ会いたい。イケメンは目の保養になるし。でも今のところ彼が何を考えているのかわからなさすぎて、そして芸能人にこっそり会っているという謎の背徳感に駆られて、会いたいという気持ち以上に恐ろしくなってしまうのだ。
そうは思いつつも、私の指はゆっくりと返事を打ち出す。一日だけ都合のつく日があった。私のスケジュールはほとんどレッスンとリハ、バイトで埋まっているが、その日は丸々のオフだったのだ。
その旨を打ち出して、送信。既読はすぐにつくはずもなく――と思ったのだが。画面から目を離した途端に、ぴこん、と軽快な通知音。
『じゃあ13時にここに来て。動きやすい服装持ってきてね』
ここ? と思う間もなく、送られてきたのは地図のスクリーンショット。場所は都心、建物の名前を見る限り、レンタルスタジオだろうか。俺の名前とあんたの名前を受付に言ってくれれば大丈夫だから。なんて、聞きたいことはそんなことじゃないのに、瀬名さんは付け足してそう送ってきた。
相手の都合を先に聞いてから誘うというのはよく聞く嫌われるやり口だけど、今回のこの件は詳細も、それどころか具体的な用件すらなし。もはや嫌われるとかそういうレベルの話じゃないよ瀬名さん。
……けれど、そんな彼にわかりました、と了承の返事だけをしてしまったのは、聞いても答えてくれないからとなんとなくわかっているからなのか。(まあ意味わからないですけど、という枕詞は付けたが)もしくは、色んな小さな考えをすべて吹っ飛ばして、ただイケメンに、芸能人にまた会いたいというただの欲望が優ってしまったのか。
時計を見れば、休憩が始まってもうそろそろ一時間が経とうとしていた。私ももう仕事に戻らなきゃ。既読のついていないメッセージアプリを閉じて、私はスマホをポケットの中にしまい込んだ。
*
「……なんとなく想像はついてたけど……」
指定された日付、場所、時間。言われたとおりに受付で彼の名前と私の名前を言えば、受付のお姉さんはにこやかに私をスタジオのあるところまで案内してくれた。
恐る恐る扉を開けてみれば、そこそこの長方形の広さの部屋一面に敷かれたリノリウムに、大きな鏡。それから、見慣れた木のバー。そしてその足元には、ぴっちりとした身体のラインが見えるトップスに、長めでも動きやすい素材のパンツを履いてストレッチをしている瀬名さん。間違いなく、彼はここでバレエを踊るつもりのようだと確信した。
「ああみょうじ、ようやく来たねえ。そっちに着替えるとこあるから、さっさと着替えてきなよ」
「あの瀬名さん、そろそろ詳細をお伺いしてもよろしいでしょうか……」
通常運転(なんて言えるほど関わっていないけど)の瀬名さんに無駄に丁寧な口調でそう言えば、彼は隠す気もないようで、そうだねえ、と一言呟いてから言った。
「バレエを教えてほしいんだよ」
筋のある、凛とした声だった。
「……………へ?」
それなのに私は、その言葉の意味が理解できなかったのだ。
「誰が、誰に」
「あんたが、俺に」
「バレエを? 教える?」
「そ。よろしく頼むよお」
瀬名さんは言いながらぽん、と私の肩に手を置いて、にこりと、腹が立つくらいに綺麗な顔で笑った。
スタジオで、動きやすい恰好という時点で、バレエに関連することだと予想はついていた。けれど私が、あの瀬名さんにバレエを教えてほしいと言われるなんて。そんなこと、本当に一ミリも想像なんかできなかった。
夢にも思わなかった――小説なんかでよく使う表現だ。今まで現実にそんなこと思ったためしがない。けれど私は今この瞬間。生まれて初めて、その言葉がぴったりと当てはまるような気がした。