呆然と固まる私を、瀬名さんは時間がないんだから、と問答無用でドアの中へと押し込めた。更衣室だろうそこは他に誰もいなくて、備え付けられた洗面台のところには誰かが置き忘れたであろうヘアゴムとヘアピンが粗末に置かれていた。

「あの」
「俺が話してる間に着替えてねえ」
「はい!?」
「時間ないっていったでしょ」

 確かに、最初に日時を提示されたときに13時から15時まで、と指定されていた。つまりそれは、彼はこの後に仕事を控えているということ。そして押し込められた私はもちろん逃げることなんて出来なくて。(もちろん逃げるつもりなんてないけれど)
 うまくやられているなあと思いつつ、いまいち納得しないまま私は渋々と着替えだした。そしてそれと同時に、ドアの向こうで彼は淡々と話し出した。

「今度テレビの撮影でね、バレエ経験者の芸能人が集まって一つの作品を作り上げるっていうドキュメンタリー企画みたいなやつに参加することになったんだよねえ。撮影自体は一ヶ月後、つまり一ヶ月後にはカメラが入ったリハが始まるんだけど。俺も今がっつりバレエを踊ってるわけじゃないから、そんな状態でカメラが入るの嫌なんだよね。見せるなら少しでも綺麗なものを見せなきゃ。だからそれまでに感覚を取り戻せるように、あんたに頼んだってわけ」
「……いや、ますます意味がわからないんですけど……」
「は? もっと頭働かせてよねえ?」
「暴言だ……」

 出会って三回目で暴言とは、何かもうさすがだ。それに悪意が込められていないということはさすがにわかるけれど、もう少し言葉を優しくしてほしい。お気に入りのパープルのレオタードに袖を通し、シンプルなロゴが入ったTシャツを上から羽織る。伸縮性のいいストレッチパンツを履いて、黒い巻きスカートを巻きつつ、私は一つ一つ確認するように口を開いた。

「尚更疑問なんですよ。テレビの企画なら、れっきとした先生がいるはずでしょ? その人に頼めばいいじゃないですか」
「その人が教えてくれるのは撮影期間だけ。事前にレッスンしたいなんて完全に俺の我儘なんだし、頼めるわけないでしょ」
「なら質問を変えます。どうして私なんですか」

 私なんか、ろくに技術を持ってるわけでもなく、手足が長かったりするわけでもないのに。私より上手な人なんかたくさんいる。同期や、先輩や、後輩にだって。じわりと目頭が熱くなる。ぐっと震える唇を引き結ぶ。高い位置で纏めた髪を、引っ張るように思い切りきつくゴムで縛った。

「……確かに、他にもプロの知り合いがいる。事務所に頼めばスゴイ人を手配してくれるかもね」

 ごくりと唾を呑み込み、着替え終わった身体で鏡を見る。大丈夫、泣いてない。

「けど」

 がちゃりと、更衣室のドアを開けた。

「MV撮影のとき。俺は、みょうじを綺麗だと思ったから。みょうじの踊りが好きだと思ったから」

 静かな空間だからか、やけにその声が大きく、はっきりと聞こえた。

「それじゃダメ?」

 身体の底へとじわじわと滲んでいくその言葉に、再び目頭が熱くなる。先ほどとは、正反対の意味で。
 いつの間にか俯いていた顔を上げれば、うっすらと笑みを浮かべた瀬名さんとばしりと目が合った。何一つ、嘘なんてついていない透き通ったブルーアイ。余りにも綺麗で、眩しくて。

「ダメじゃ、ないです……」

 絞り出すようにそう言えば、瀬名さんはふ、と満足したように笑った。そうして、今までの厳しい言葉なんてまるで嘘であるかのように、ぺこりと私に向かって頭を下げた。

「よろしくお願いします」

 吐き出された言葉に、再びごくりと唾を呑み込む。こちらこそ、よろしくお願いします。震える声でそう呟けば、瀬名さんはゆっくりと顔を上げて、そして眉を下げて笑ったのだ。

「なにぶっさいくな顔してんの」
「うるさい」
「そんなこと言うクソ生意気な奴に教わるのは癪だけどねえ」
「なっ……ほんっとに瀬名さん、一言多い!」

 色んな感情が渦巻いて大きな声でそう言えば、うっさい、と文句を言われる。ブサイクだとか、クソ生意気だとか。ぶつけられた言葉は棘のあるものばかりなのに、不思議と嫌な気持ちなんて全くしなかった。滲んでいった言葉は静かに溶け、私の身体をほんのりと温かくさせた。

 それから、レッスンはすぐに始まった。私は教えの経験はあまりないが、要はいつものように友だちと注意しあっていることの延長線である。気になるところを直し、自分の知識を伝える。ただ、どうしても男女での身体の使い方、出来るパ、つまり技の違う部分があるから、私にもわからない部分はあると思うけれど。それでも、彼は私がいいと言ってくれたのだ。ならば私も全力でやるしかない。
 ストレッチをしてから、バーを使うレッスンに移っていく。見る限り、彼の動きはスムーズだった。確かに細かい部分で指摘することはあるが、確実に基礎を理解し、それを実践している、しようとしている。プロだって抜けがちなつま先の意識や、足を外側に開く意識がある。己を高める為の彼の集中力は、驚異的ともいえるくらいだった。それに、普段からダンスをしているからか身体も重くない。(これは物理的にではなく、腰が上がっているかどうかにおける動きの軽やかさのようなものだ)そして何より、雰囲気がある。オーラというか、彼の纏う空気。瀬名さんはやっぱり、美しい人だった。
 バーを使わないセンターレッスンへ移行して、最後きっちりグランワルツまで。時計を見ればきっちり一時間半。普通バレエのレッスンといえば一時間半がほとんどだから、我ながら綺麗にレッスンをまとめられたな、と思った。そうしてお疲れさまでした、と声を掛ければ、ありがとうございました、と彼が小さく頭を下げた。

「瀬名さん、全然動けてたじゃないですか」
「それは身体の動きの話でしょ。バレエに関しては全っ然ダメ」
「厳しいですね……」
「自分に厳しくしなかったら、這い上がることもできないでしょ」

 そう言って彼はごくごくと水を飲み干す。瀬名さんって、本当にストイックな人なんだなあ。確かに、自分自身に厳しくしているからこそ他人に物を言うことが出来る。何においてもプロ意識が高い人だなあ。

「あんたのレッスン、良かったよ。身体使えてる感じがした」
「あ、ありがとうございます」

 良かった、私のレッスンどうだったか、結構心配だったから。他人にも厳しい瀬名さんからもらえた言葉に、ちょっぴり安心する。
 さて、このスタジオを借りていられるのはあと十五分だ。早く着替えて、さっさとここから出なくては。
 ……そういえば、このレンタルスタジオって確か前払いのはずだけれど、要はつまり、今現在瀬名さんがスタジオ代を負担してくれているってことになるよね。どうしたらいいのだろう。瀬名さんの頼みなんだし、彼の性格上「俺の都合だから俺が払うのは当たり前でしょ〜?」とか言いそうなんだけど。けれど、このレッスンが、教えることが私にとっても有意義だったのは事実だ。なんだか一人に負担させるのは気分的に申し訳ない。
 そう思って瀬名さん、と声を掛けようとしたその時。彼は突然ずずいと私の前に茶封筒を差し出してきた。

「え、なんですかこれ」
「今日のレッスン代」
「レッスン代!? も、貰えませんよこんなの!」

 慌てて封筒を押し返せば、彼は怪訝そうな顔をしながらも再びその封筒を私の方へと押し込めてきた。

「何言ってんの。人が培った技術を教わってるんだから、それに対して対価を払うのは当然のこと。そもそもあんたが先生、俺が生徒になった時点で、教えは発生してるんだから。ていうか、普通お金貰うのが当たり前って考えでしょ……無駄に謙虚だねえ、あんた」
「いや、バレエ教えるなんて聞かされたの今日ですし……そんなこと考えてる余裕もなかったっていうか。ていうか今更ですけど教えるなら教えるで早めにメッセージで伝えてくださいよ! やり口汚いですよ!」
「だって事前に教えたらどうせ謙遜しまくって断られるでしょ〜? 汚いんじゃなくて、頭を使った作戦なんだけど〜?」
「その作戦が汚いって言ってるんです! いや確かに事前に言われたら間違いなく断ってたと思いますけど!」

 お互い言いながらぽんぽんと封筒を相手に押し返し、押し返されてを繰り返す。どうやら瀬名さんには私の自信の無さが完全に伝わってしまっているらしい。やがてそれを何回か繰り返したころ、彼はため息交じりに、そして多少のイラつきを交えながら口を開いた。

「どうせこのスタジオ代も折半しなきゃとか考えてるんだろうけどね、絶対にみょうじに払わせないから」
「なっ……!」
「ハイじゃあもう時間になるからさっさと着替えて〜。俺はこの後も仕事なんだから」

 図星すぎることを言われて、思わず力が抜けた瞬間に強く封筒を押し付けられ、そして瞬時にその手を離された。強制的に私の手の中に渡った封筒は、激しい攻防のせいですっかりよれよれになっている。
 ……確かに、教えでお金をもらうのは普通だ。だからこそバレエ教室だって成り立っている。けど、だけど。いくら瀬名さんの頼みであっても、私は彼の言葉が嬉しかったから。私も彼に未熟ながらも教えてみたいと思ったから、彼の誘いに乗ったのだ。お金をもらえるような立派な先生でもないし、とにかく私は今の時間が楽しかったから。
 すたすたと自らの荷物の元へ歩いていく瀬名さんに向かって、気づけば足を踏み出していた。そうして、彼の腕を思い切り掴んだ。

「やっぱり、もらえません!」
「はあ? しつこいよいい加減」
「だって私も楽しかったから! 瀬名さんに教えるの、すっごく! それに、……嬉しかったから! それだけでもういっぱいなんです!」

 そう言って、振り返った瀬名さんに先ほどと同じように封筒を押し付けれる。一気に本音を絞り出してしまって、恥ずかしさのあまりぎゅっと固く目を瞑った。また意地悪で、それでも優しさの見える言葉と共に押し返されるのかな。
 しかし、しばらくしても彼の身体が動く気配がない。不思議に思い、恐る恐る目を開けてみる。視界に映ったのは、先ほどとは違いイラつきが抜けたような彼の表情だった。呆れたようにため息をつき、わかった、と一言呟いてから封筒を取る。受け取る気になってくれたんだ――そう思った私だが、次に聞いた瀬名さんの言葉に、本日何度目かもわからない「え」という感嘆符を述べた。

「なら、代わりに次の『Knights』のライブに招待する。それで今日のレッスン代はチャラってことでいい?」