ふわふわと、現実にいないような気分だった。まさにこれを夢見心地というのだろう。『Knights』の皆がステージを縦横無尽に歌い、踊り、笑う。お客さんのペンライトや掛け声、コール&レスポンスによって会場が一体となり、最高の空間が演出される。これが、ライブというもの。これが、アイドルというもの。
 私がわかる曲なんて本当に片手で数えるくらいしかなかったが、それでも感じたものは、楽しいとかそういう次元を飛び越えていた。心がうずうずして、気持ちが溢れ出そうになって、涙すら出て来てしまいそうになる。

「あのー、おーい」

 だからアンコールも終わり、終了のアナウンスが流れたあと。隣の席の彼からずっと声を掛けられていたことなんて、全く気付かなかった。いつから声を掛けてくれていたのか、ハッとしてすぐにすみません、と謝罪をすれば、彼は「ライブすごかったですね」と察したように笑った。

「良かったら一緒に楽屋行きませんか? 俺今日他に知り合い来てないみたいだし。せっかく隣の席になったご縁ってことで! っても、まあ俺席間違えちゃったんですけど……」

 あはは、と照れくさそうに笑う彼だったが、一方で私はきょとんとして彼を見てしまった。
 楽屋、って。そんなところに私が行っていいのだろうか。確かにプレゼントボックスみたいなのがあるかも、と思いつつ差し入れを持ってきたが、あの人混みの中そんなものを探すことも出来ず、諦めて持ち帰ろうなんて思っていたが。それって親族とか、友だちとか、仕事仲間とか、そういう人たちしか行けないところでは。

「いや、でも、私瀬名さんに何も言われてないですし……」
「でも関係者としてチケットをもらったなら、バックステージに入ることは可能だと思いますよ。せっかくだし、行きませんか? まあ、無理強いは出来ないですけど……」

 困惑する私の様子が分かったのか。わざわざ後に気遣いの言葉を付けてくれる彼は、相当空気の読めるいい人なのだろう。
 それにしてもどうしたものか。確かに舞台裏には興味がある。職業柄といってはあれだが、バックステージというものが好きだ。たくさんのスタッフさんの声や、どこか忙しなく慌ただしい雰囲気。廊下のテーブルにずらりと並べられた差し入れとケータリングに、どこか緊張感のある楽屋割の紙。バックステージの雰囲気は会場、スタッフさん、キャストさんによって様々で、面白い。今は終演後ということで恐らく撤収作業を開始しているかと思われるが、それでも表舞台と葉違う雰囲気を味わえることは確かだ。それに、……彼に、瀬名さんに。

「楽屋、行きたいです」

 会いたいと、思ってしまった。
 私のその言葉を聞くと、彼はにこりと笑って立ち上がった。よしじゃあ行きましょうなんて言いながら、彼はすちゃりと帽子とマスクを装着する。やっぱり芸能人なんだなあと思いつつ、私は彼についていくように座席から離れた。
 終演してからまだ少ししか経っていないからか、ホール内から出るとそこは人でごった返していた。彼からはぐれないようにしっかりと見定めながら、一歩一歩ゆっくりと歩を進める。そうしてようやく話しかけられたスタッフさんに楽屋に行きたいことを伝えると、スタッフさんは一先ず先に、と楽屋口の入口まで案内してくれた。関係者席であるチケットと、関係者の名前と、自身の名前を伝えると、スタッフさんは少々お待ちください、と裏の方へと駆けていった。ちなみに彼に関してはある種顔パスのようなもので、(恐らくスタッフさんもテレビで見たことがあるのだろう)チケットを見せるだけでクリアとなっていた。さすが芸能人だ。
 だがしかし、私としては名前を、上の名前を聞きたかった。彼の下の名前は思い出したのだ。いや、正確に言えばライブのMCで凛月くんが「ま〜くん見てる〜?」とひらひらと手を振ったからであるが。(それだけでお客さんは大興奮だったが、横を見れば当の本人は少々呆れつつ、嬉しそうだった)それでようやく私は下の名前だけ頭に入れ込むことが出来たのだ。

「あの、……真緒、くん。ありがとうございます」

 だけど、その名前を口に出してしまったのは半無意識的だったのかもしれない。いきなり下の名前だなんて、とも思って心の中では戸惑っていたから。(以前の瀬名さんに対しての二の舞ならぬ三の舞にはなりたくなかった)それに、世間でよく呼ばれている「真緒くん」という響きが、口をついてしまったみたいで。
 一瞬でまたやらかしちゃったかなあ、と眉を下げる。が、彼は……真緒くんはほんの少しだけ呆けたような表情をして、それからすぐに小さく笑った。

「俺のこと知ってたんですね。なんか嬉しいっす。俺やっぱあんま知名度ないのかなーなんて思っちゃってたから」
「そ、そんなことないですよ! まあその、私もちょっと疎いとこあるので……」

 最初は誰だったか思い出せなくて、上の名前わからなくて……なんて言えない。けれど、真緒くんはそれでも嬉しそうに笑ってくれた。『Trickstar』、きっといいユニットなんだろうなあ。今度もっとしっかり見てみよう。
 そんな時、先ほどのスタッフさんが再び出てきて確認が取れましたのでお入りください、と楽屋口のドアを開けてくれた。本当にいいのだろうか、なんて今更思ってしまったが、ここまできたら引き返すことも出来ない。たぶん、きっと、怒られはしないだろう。一歩踏み出し、ポジティブな思考を途切れさせないようにして、長い廊下を真緒くんと共に歩く。お客さんのざわめきなんかとっくに消え去った中、聞こえる音が再び騒がしくなってきたのは、それからすぐのことだった。

「おっ、多分あの辺に皆いるんじゃな」
「ま〜くん……♪」

 途中で不自然の言葉が途切れる。いや、被せられたというのか。とにかく驚きつつ隣を見れば、真緒くんが衣装のままの凛月くんにぎゅうっと抱きしめられていた。

「ま〜くんちゃんと俺見てくれた? 俺ちゃんとやってたでしょ〜頑張ったんだから」
「凛月! 見てた見てた! かっこよかったぞ!」
「ええ〜何その雑な感想。もっと俺を褒めて〜……ま〜くんの言葉で俺をでろでろに甘やかして……♪」

 凛月くんがさらに真緒くんを強く抱きしめたようで、真緒くんはいやマジでかっこよかったから! と必死に叫んでいる。……何だこの状況。幼馴染ってこういうものだっけ? 私には幼馴染なんていないからよくわからないえけれど、こういうもの、なのかもしれない。比較対象がないから何とも言えない。
 それにしても、私はどうしよう……もう少し先まで一人で進んじゃっていいかな。そう思ったとき、先ほどの甘ったるい猫撫で声とは打って変わって冷たい声色が私の動きを止めさせた。

「てか、誰なのこいつ」

 こ、こっわ〜……。そう言う凛月くんは、まるでそう、例えるなら浮気相手を見るような鋭い視線を痛いくらいに私に向けていた。え、もしかして私が悪いのこの状況? いちゃダメだった? 何が正しいのかもはや判断することも出来ない。そんな凛月くんの疑うような声を振り払うかのように、真緒くんは慌てたように弁明(この表現が正しいかどうかはわからない)した。

「この人は俺の隣に座ってた人! せっかくだから一緒に楽屋行かないかって俺が誘ったんだよ!」

 そう言えば、凛月くんはふうん、と再び私をぎろりと睨みつける。しかししばらく私の顔をまじまじと見ると、彼はあれ、と何かに気が付いたように呟いた。

「あんた、確かセッちゃんが……」

セッちゃん? と思うより先にだ。

「みょうじ?」

 聞き慣れたその声に視線を向ければ、凛月くんより少し向こうの方で、瀬名さんが驚いたようにこちらを見ていた。瀬名さん、と私が言うより先に、彼は目の前の真緒くんと凛月くんの横をすり抜けて私の前へ歩いてきた。

「あんたなんでここに」

 そんな当たり前の問いに、私もまずは成り行きを伝えよう、と思ったのに。

「あの瀬名さん! ライブ、すっごくすっごく楽しかったです! 私ライブなんて初めてだったんですけど、心が震えて……! それであの、すっごく、」

 そこまで言ってハッとする。私、瀬名さんの質問に答えていないばかりか、興奮して本音をダダ洩れにしてしまいそうになった。だって今の瀬名さんは凛月くんと同じで衣装を着たままで、未だに少しかいている汗がうっすらと額に滲んでいる。先ほどのステージが蘇ってきて、キラキラとして見える。だから、要はつまり。彼が、とてもかっこよく思えてしまったのだ。
 また質問に答えてないって怒られるかな、と改めて瀬名さんを見る。が、視界に映ったのは怒るどころか、むしろ少し嬉しそうにした彼の表情だった。

「……ありがとお。そこまで言われると、こっちも誘って良かったよ」

 にこりとした微笑みに、何故だが心がきゅう、っと苦しくなる。なんだ、なんだこれ。それをどう対処していいかわからなくて、思わずごくりと唾を呑み込んだ。そしてそれを忘れさせるかのように、私は慌てて先ほどの瀬名さんの問いの答えを口に出す。

「それで、隣の席に真緒くんが座ってて! 私が瀬名さんの知り合いだって言ったら、ここまで連れてきてくれたんです」

ね、と隣を見れば、ようやく凛月くんを引きはがした真緒くんはああ、とまた人の良い笑顔で返事をしてくれた。

「真緒くん……ああ、『Trick star』の」
「あ、ええと、真のやつは今日仕事で来れないみたいで」
「知ってる。そんなこと、本人からとっくに聞いてるに決まってるでしょ」

 言いながら、瀬名さんはふいと真緒くんから顔を背けた。
 ……気のせいだろうか。突然瀬名さんの機嫌が悪くなった気がする。真くんは確か真緒くんと同じ『Trickstar』のメンバーだ。瀬名さんは真くんと仲が良くて、相当彼に来てほしかったのか。それにしても、私が真緒くんのことを口に出した途端に少し表情が変わったような気がしたが。

「そ、れで。あの、瀬名さんに差し入れ持ってきたんですけど。でも色んなものたくさんもらってるだろうし、消費物がいいかなって思って。だから大したものじゃないんですけど」

 持っていた紙袋を瀬名さんに渡す。中身は数種のサプリメントだ。楽屋見舞いとしてそのチョイスはどうかと自分でも思ったが、泉くんてお菓子とか食べないんだって! という情報を偶然友人から聞いたものだから、悩んだ末にこのチョイスとなったのだ。実用的であることは間違いないからアリっちゃアリだろう。私だったら嬉しいし。
 瀬名さんは袋の中身をちらりと見て、それからふうん、と言葉を漏らす。やっぱりなんか、最初の感じと違う気がする。

「ま、不必要なもの押し付けられるよりはいいかもねえ〜?」
「なっ……そこは素直にお礼言ってくださいよ!」
「だっていらないもの押し付けられても困るのは事実でしょ〜?」
「それファンが知ったら泣きますよ」
「ファンの子たちがくれるものは、どんなものでも心が篭ってるからいいの。それだけで俺にとっては宝物だからねえ」
「私だって心篭ってますよ」
「あんたはファンじゃないでしょ。そもそも俺とプライベートで関わった時点で、あんたは絶対にファンにはなれないんだから」
「言ってる意味はなんとなくわかるけど言い方がムカつく」

 さっきの私の何とも言えない気持ちはどこへ行ったのか。瀬名さんが口を開くたびに、お互いポンポンと言葉が出てくる。やっぱムカつくなこの人! 多分何もかも悪気があって言ってることではないと思うけれど、言葉を選ぶということをしてほしい。

「はーあ。せっかく瀬名さんかっこいいと思ったのに! 真緒くん、私もう帰るね!」
「え、あ、じゃあ俺も帰りますよ! またな凛月!」

 くるりと踵を返し、歩き出した私を真緒くんが追ってくる。意外にも凛月くんはそんな彼の様子に拗ねなかったようで、ぐずるような声も聞こえなかった。

「……何にやにやしてんのくまくん、気持ち悪い」
「いや? ……ふふ、俺が知らない間に、面白いことになってるなあって思って……♪」

 代わりにそんな瀬名さんの凛月くんの会話が聞こえたが、気にせずに歩き続ける。

「瀬名先輩、ただの照れ隠しだと思いますよ〜?」

 私が瀬名さんを誤解したと思ったのだろう。フォローに入ろうとしたのか、歩きつつ、真緒くんが苦笑いをしながら言う。まあそれはなんとなくわかっているし、私だって本気で怒っている訳ではないけれど、まあもちろんちょっとイラッとはくるよねって話だ。けれど真緒くんに気を遣わせてしまったことは申し訳ない。大人げなくてごめんね、と謝りつつ、私は今聞いた単語に疑問を示してしまった。

「ねえ真緒くん。「先輩」って?」

 思えば私は、瀬名さんのことを何も知らなかった。