「瀬名さんって私と同い年だったんですね」

 寝転がった瀬名さんの左脚の太ももと足首寄りのふくらはぎの部分を持ち、ゆっくりと彼の顔に近づけながら思い出したように言う。脚からひょこりと顔を覗かせてみれば、彼はあからさまに嫌そうな顔をしていた。それにアフレコするなら、「なんで今このタイミングで言ったの」だ。
 それもそのはず、今はレッスン前のストレッチ中だ。傍から見たらかなり異質な体勢だが、決して変なことをしているわけではない。仰向けになった人の片足を膝からつま先まで真っすぐ伸ばし、そしてその脚は付け根から外側に回し、そのままゆっくりとその人自身の顔に近づけていくストレッチ。これによって主に太ももの裏の筋肉、ハムストリングスが伸ばされる。一人でも出来るストレッチなのだが、「程度はともかく、痛いがつきもののそれを素人が一人でやってしまうと出来てないような感じがするから」と瀬名さんが言ってきてくれたのだ。

「へえ、てか調べればすぐわかるのに今更知ったんだ」
「聞いたんですよ。左の腰床から離れてますよ」

 脚を持ちつつ、片手で浮いていた腰を床に落とせば、ぐんと脚の重みが増す。このストレッチのとき、腰は床と並行でなくてはいけないのだ。上げていないほうのお尻や腰に重心が行きがちだが、そこをしっかりしないとやっている意味がない。

「ガキくさいから勝手に年下だと思ってた」
「無理やり足上げますよ」
「いった! ああもう悪かったって!」

 脅しのようにぐっと上げてみれば、すぐに謝罪の言葉が飛んでくる。ふふん、今優位なのは私なのだ。まあこれ以上無理やりあげるなんてことしないけど。
 珍しく慌てたような彼の様子に笑いを零せば、何笑ってんの、とすぐさまお小言が飛んできた。だってあの瀬名さんが私の言うこと聞いてるの面白すぎるし。もちろん彼はレッスンとなれば人が変わったように真面目になるけれど、今は雑談を交わしながらのストレッチ中だ。態度や言動は彼のままでも、やっていることはバレエのこと。つまり、ひねくれているのにいつもより従順な瀬名さんなのだ。

「男性は身体が固いから大変ですよね。その点筋肉にバネがあるのが羨ましいですけど」
「俺はむしろ女性のようなしなやかで柔らかい筋肉のほうが良いけどねえ。ま、ないものねだりってやつでしょ」
「確かにアイドルダンスにはそっちの要素のが必要か……それでもバレエをしているってだけで大分筋肉の質は他の人と違うと思いますけどね。一回足おろしますよ」

 ストレッチをしながらもぺらぺら喋る彼は実は全く痛みを感じていないのでは? なんて思うが、脚を持っている私の手に感じる抵抗力に間違いはない。痛がる素振りを見せないのは、彼なりのプライドか、それともそのストイックさ故か。何にせよあまり長時間やるものでもないので、ゆっくりと彼の脚を降ろして床につければ、はあ、と瀬名さんが大きくため息をついた。

「『ストレッチは少し痛いと思うくらいで止めてそれ以上無理はしない』……わかってはいるけど、ムカつくよねえ。痛くても無理してやればやるほど柔らかくなればいいのに」
「人間の身体っていうのはそんなに都合よく出来てないですよ。てか良かった、瀬名さん基本はしっかりとわきまえてるんですね」
「はぁ〜? 俺のこと馬鹿にしてんの?」

 腹筋ですんなり上半身を起き上がらせた瀬名さんが眉間に皺を寄せながら言ってくる。馬鹿になんてしていない。むしろその一番大事な部分を知っていたからこそ素晴らしいと思ったのだ。
 人間の身体の可動域というのはつまりそこが限界と言うことであって、例えば開脚だったら痛いと思うところ以上足を開くということは限界を超えるということになる。そして痛いということは筋肉を痛めつけているという証拠。適度な痛みならそれが筋肉痛という炎症になり、成長につながるというのは筋トレ界でも言われていることだろうが、過度な負荷は逆に筋肉を傷め、重度の炎症を引き起こしてしまう可能性がある。つまり、「痛すぎるストレッチ」は基本的にご法度なのだ。まあ人によってはそれでも無理やりさせるという人もいるが、少しでも怪我の危険性があるのなら、私はそれを推奨したくはない。限界の限界を超えなくても、十分効果があるのだから。
 ただまあこういうことは普通の人はなかなか知らないことが多い。けれど彼はきちんとそれを弁え、そして実践していたのだ。瀬名さんの性格上、無理やりにでも自分を追い込もうとしそうだが、限度ラインを引いてきちんと自分で管理している。どこからどこまでもプロ意識の塊みたいな人だ。

「まさか。むしろ見習いたいと思ってるとこです、そのストイックさ」

 私も立ち上がって、レッスンCD代わりの音を流すためにスマホをいじくりつつそう言う。当たり前のようにその言葉に対しての返事は彼自信の自己肯定力から発されるもので、予想通りの返事に何だか可笑しくなってしまった。

 そうしてその日もレッスンは無事に終わる。今日はほんの少しだけ早く終わってしまったので、二人してクールダウンのストレッチを行っていれば、瀬名さんがあのさあ、と静かに切り出した。

「今日の分のレッスン代持ってきたんだけど」
「いりません」
「……言うと思った」
「だってお金と同等の対価はこの間もらったじゃないですか! ライブという素晴らしいもので!」
「あれは前回の分でしょ。今回のは別」
「な、ならまたライブ誘ってください!」
「そんな近いうちにそう何回もあるもんじゃないの。ツアーだったらそういう方法もあったかもしれないけど。ともかく、今度こそあんたは受け取るしかないんだから黙って受け取りなよね〜?」

 言いながらストレッチを続ける瀬名さんは至極当たり前のような表情をしていて、言い返すことも出来ない私はぐっと押し黙る。
 普通、受け取るべきだろう。レッスン代というのは前回瀬名さんが言ったように、私の教えに対しての報酬だ。私だってお金があるわけではない。というかむしろ一般に社会人をしている友だちより財力はないだろう。バレエに限らず、この日本という国で表現で活動している人の収入なんてたかが知れたものだ。間違いなく、週に数回の学生のアルバイトの方がよっぽど稼げる。うちのバレエ団の真ん中で踊っている現役の人だって、収入はほぼお教室の教えだと聞いたことがある。だから本当に自分の活動……ダンサーで言えば踊り。それだけで食べていける人なんて、本当にトップのトップ、それこそ瀬名さんのような人気アイドルくらいのレベルだ。
 それでも、やっぱり私はそのお金以上の対価を教えているこの時間に逆に貰っているような、そんな気さえしているのだ。もはや意地なのかプライドなのかもわからないが、瀬名さんと一緒にいるこの時間が楽しくて、とても貴重で、大切なものだと思っているから。

「……ツケといてください」

 そうして私から出た言葉は、報酬、というそれにはなかなか不釣り合いなものだった。

「はあ?」
「だから、ツケといてください。今はいらないです。その代わり、今度何かあったら、それこそこの前みたいなライブがあったら招待してください。あ、私にご飯奢るとかでもいいですよ。ファミレスで」
「ファミレスっていっても千円超えるくらいでしょ……」

 呆れたような瀬名さんの声にストレッチをやめて見てみれば、彼もいつのまにかストレッチをやめて長座で座り込んでいた。だめだろうか、私にとって最大の譲歩なのだが。
 瀬名さんは少し考えるように視線を彷徨わせる。しばらくして、ばちりと視線が合ったかと思えば、予想外にもわかった、と素直に返事が飛んできた。

「じゃあまあ、……色々考えとくよ」
「……? うん、よろしくお願いします」

 一体何を考えとくというのか、そこのところはよくわからないが、瀬名さんがそう言っているからとりあえず私も返事をしておいた。まあ、ツケという方法が了承されたことには変わりないだろう。
 そんなことを思いながらよいしょ、と立ち上がる。そろそろ着替えて外に出なければ。瀬名さんもそう思ったのか、彼もほぼ同時に立ち上がった。そうしてお互い更衣室へ行こうと踏み出したとき、ふと思い出して私はあ、と声を上げた。

「そういえば、凛月くんと嵐ちゃんに会いましたよ」
「っはあ!?」
「うわびっくりした」

 予想以上の大きい声に思わずそう呟けば、振り返った瀬名さんが驚いたような嫌悪感のような、とにかく複雑な表情を全面に出してつかつかと私に詰め寄ってきた。

「いつ、どこで、何で!!」
「こ、この間……偶然二人がバイト先の店に来たんですよ」
「何それ……くまくん、なんか言ってた?」

 くまくん? なんて疑問は口には出せなかった。瀬名さんの機嫌が明らかに悪くなっている。これ言わなきゃよかったかな、なんて思ってももう遅い。とにかく私は瞬時に「くまくん」について考えた。今私が名前を出したのは二人。朔間凛月くんと鳴上嵐くん……あれまさか、くまくんって凛月くんのことだったりする? さくまの「くま」? そう考えたらそうとしか考えられなくなってきた。しかし、それなら瀬名さんが「くまくん」に注目したのも納得できる。あのライブのときに凛月くんと接触したのを瀬名さんは見ている。私に関わってくる可能性があるのは凛月くんしかいないのだから。

「ええと、瀬名さんとどういう関係か尋ねられたから、色々あってバレエ教えてるって言いました」
「それだけ?」
「……? うん、あとは特に……」

 眉間に皺をいっぱい寄せた彼に少しびびりつつそう言えば、瀬名さんは安心したのかはあ、と息を吐いた。それにしてもくまくん=凛月くんはビンゴだったのか。瀬名さんのネーミングセンスすごいな。
 脱力したように下を向く彼に瀬名さん? と声をかけようとする。が、それより先に彼は素早く顔をあげた。先ほどまであった眉間の皺なんかすっかり消え、いつも通りの表情になった彼は、ていうか、と突然話題を切り替えた。

「あんたいい加減その呼び方と口調やめない?」
「はい?」

 あまりの話題の転換っぷりとその言葉の意味をよく理解できなくて、思わず間抜けな調子で尋ね返せば、彼はちっ、とひとつ小さく舌打ちをして、だから! と声を上げた。

「同い年なんでしょ。だったら敬語も必要ないし、呼び方も畏まらなくていいって言ってんの! さっさと理解しなよねえ!? それとも何、あんた同い年や年下にも敬語使ってるわけ?」
「ええ、っと……いや、そんなことないですけど……え、本当にいいんですか? 私瀬名さんにタメ口なんか使ったら失礼やら何考えてるのやらディスられると思ってたんですけど……」
「あんた俺のことなんだと思ってんの? ていうかそもそも、あんたちょこちょこ敬語抜けてたし」
「え、ほんとに?」

 思いがけない言葉に今までの自分の発言を思い返してみれば、……うん、確かにちょこちょこ抜けてたかもしれない。その場のノリでぬけちゃうことがあるから敬語って難しいよね。まあ彼がくだけた口調を許してくれるなら、有り難いことこの上ない。

「じゃあ、お言葉に甘えて……泉くん?」

 視線を彷徨わせながら、彼の下の名前を口にする。舌に慣れないその響きは、なんだかからころと口の中を駆けずり回って不思議な感じがする。瀬名さんで慣れちゃったからかな。ほんのすこしどぎまぎする。しかしそっと瀬名さんの顔を覗き見れば、そこにはいまいち納得していないような彼の顔が。

「キモイんだけど」
「暴言だ」
「俺の中であんたは"くん"とか付けるキャラじゃない。いいよ、そんなの付けなくて。呼び捨てでいい」

 彼の中で私のキャラは一体どういうものなのだろう。けどまあそんな理不尽さに別に文句を言う必要もない。私としてはどっちでもいいし。

「じゃあ、泉」

 どき、どき。まるで緊張しているときのように、やけに鼓動の音が響いていた。何故だか彼の顔が見れなくて、ふっと俯く。なんだかめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。思えば、男の人の下の名前を呼び捨てで呼ぶのは初めてかもしれない。なんでだろう、喉がからからに乾いて、呼吸をするのさえつらくなる。なんで彼は何も言わないのだろう。そう思って思い切って顔をあげようとしたとき、ぽん、と頭の上に優しい感触。

「いい出来じゃん、なまえ」

 瞬間、身体中の体温が急激に上昇する。頭の上に置かれた手のひらはすぐに離れ、顔を上げれば彼は既に更衣室へと歩き出していた。
 一方で私はというとその場から一歩も動くことが出来なくて、ただただ必死に酸素を取り入れるばかり。ばたん、と彼が更衣室のドアを閉めた途端、まるで糸が切れたかのように私はその場にへたり込んだ。一瞬置かれた頭の上のところに自分の手をやってみれば、心なしか熱をもっている気がする。全部の熱がそこに集まったような、そういう熱さ。
 笑いたいような、泣きたいような、色々な波に口角は上がり下がりを繰り返し、何故だか涙腺まで弱くなる。アイドルの破壊力ってすごい。さすがアイドル瀬名泉……なんて。誤魔化さなくても、私はとっくに気づいてしまっていた。

「そんなの、ずるいじゃん……」

消えるように呟いた言葉は、世界中でたった一人。私自身にしか聞こえなかったことだろう。