教室に来たときから、俺を見るクラスのヤツらのにやにやとした笑いが含まれた視線には気づいていた。男子は聞きたそうにそわそわ。女子の方は俺に近づこうとした芦戸を葉隠が止めるのが見えた。轟に聞いたってどうせ何にも答えてくれないよ、なんて。聞こえてんぞ。
しばらくして、女子全員がわっとドア付近に集まる。恐らくみょうじが来たのだろう。根掘り葉掘りみょうじから昨日のことを聞き出そうとする女子たちにみょうじは気圧されたのか、何もないよ、つっかえながら話していた。何もない、か。アイツにとってあの飲み物のやり取りは何もなかったのか。あの時拒絶されなかっただけマシだが、何もないって言われちゃそれはそれで虚しいもんだな。彼女が俺を全く意識していないことを改めて痛感する。別に絶望感に打ちひしがれることでもないが、期待した分胸の奥の何かがさらりと静かに流れていった。
そんなとき、あれだけ騒がしかった女子たちの問答がぴたりと止まる。しん、と静まり返って、聞き耳を立てていた男子たちもさらに耳をそばだてているのがわかった。
「……その、私たち、付き合って、ないよ?」
何を今更当たり前のことを、とも思ったが、俺がごちゃごちゃと考えている間に何か女子たちに言われたんだろうな。俺と付き合ってると勘違いされていたとか、大方そんなところだろう。そうか、だから耳郎もわざわざみょうじと買い物に行けるように提案してくれたのか。ラッキーとしか思っていなかったが、そんな勘違いに俺は図らずも喜んじまったってわけだ。
みょうじの言葉に、女子たちの視線が一斉にこちらに向けられる。そうして彼女も釣られたようにこちらに視線を移す。必然的に、目が合う。
「お、はよ。轟くん」
やけにたどたどしい挨拶。何をそんなに緊張しているのか、みょうじは冷や汗をかきそうなくらいに動揺している風にも見えた。
瞬間、みょうじはふわりと浮き上がった。正確に言えば、麗日の個性で軽くなったみょうじを女子全員が持ち上げた。そうして全員一斉に走り出し、見えなくなる。取り残された男子だけが残る教室は、嵐のあとの静けさのようにしん、と静まり返っていた。
「……で、結局のところどうなんだ?」
しばらくして、瀬呂が俺の席に近づいてきて言う。それを封切りにしたのか、男子数人がわいのわいのと俺の席の周りに集まってきた。
「別に、どうも」
「んなこたねぇだろ轟さんよーぶっちゃけどうなん?」
今まで何も言ってこなかったくせに、ここぞとばかりに聞いてきやがる、便乗した上鳴が茶化すように小突いてきて、心の中でめんどくせえな、と呟いてやった。
「ぶっちゃけも何も、俺はアイツのこと別に嫌いじゃねえよ」
「それってつまり好きってことですかな!?」
「まあ、そういうことだ」
別に隠す必要はない。かといって言う義理もねえけど、隠して誤魔化した方がめんどくせえことになるだろう。頬杖を付きながら言ってやれば、うひょーと興奮した声があがる。動物園かここは。
「いやしかしマジか……あの轟がねえ」
「結構意外だわ。お前そんな素振り全然見せねえもん」
「でもコイツみょうじに対して優しいなって思ってたんだよ俺」
「まあでも言われてみればって感じだよな」
「待て……待てよ……ってことはアイツら! 両お」
「峰田それ以上はストップだ」
何か言いかけた峰田の口を、障子がそのデケェ手で抑える。当人の俺を置いて話し出すあいつらの話を一応は耳に入れながらも、はやくみょうじ返ってこねえかな、とまたぼんやりドアを見る。しかしそんな俺の視界は、まるで自分たちの話に集中させるようかのように現れた上鳴によって塞がれた。
「まあもうちょっと話せよ轟。みょうじと付き合いたいんだろ?」
「……別にもういいだろ」
「良くはねえな! せっかくオイラたちがアドバイスしてやろうとしてるのに!」
アドバイス。正直コイツらの話を信用していいかというと迷いどころだ。けれど俺はこういったことに慣れてるわけでもねえし、(むしろ初めてだし)それに関してはやっぱり俺よりクラスメイトの方が詳しいかもしれない。何だ、と短く返事をすると、彼らは嬉しそうにふふん、と鼻を鳴らした。
「いいか轟。オイラの話をよく聞け。どうすればみょうじと付き合えるか……それはな、アイツを問答無用で押し倒せ」
「破廉恥だぞ峰田くん!」
得意気に言った峰田は、あっという間に他のヤツらによって端の方に追いやられる。……さすがの俺でも、それは飯田の言った通りあんま良くねえってことはさすがにわかる。気を取り直すように切島がうーん、と少し唸ってから言った。
「峰田のことは置いておいて、なんだろうな。距離を縮めてみればいいんじゃねえか?」
「距離を?」
「例えば名字じゃなくて名前で呼んでみるとかね☆」
どこからともなく現れた青山が誰に向けてかもわからないウインクをしながら言う。なるほど、それはアリかもしれない。試しに呼んでみろよ、と切島に言われて、俺は小さく彼女の名を呼んだ。
「……なまえ」
初めて呼んだ彼女の下の名前は、なんだかむず痒かった。けれどとてもしっくりきて、優しかった。しかしあんなに騒がしかったクラスメイトのヤツらがしんと静まり返っていることに気づく。何故だか目の前の上鳴は顔が真っ赤だし、切島も、峰田でさえも気まずそうに視線を逸らしている。
「どうした」
「いや轟……お前、その……」
「熱、篭りすぎ……」
「こっちまで恥ずかしくなるだろバカ!」
んなこと言われても。熱が篭ってるかどうか自分じゃわかんねえし、俺にとっては普通に名前を呼んだだけだ。感覚としてはいつもの名字呼びとそんなに変わらない。その時、顔を真っ赤にした緑谷に轟くん、とおずおずと話しかけられた。
「その……なんていうかな、みょうじさんの反応をちゃんと見ることも大事だと思うよ」
「見る……つっても、結構俺見てるぞ」
「そ、そうなんだろうけど! えーっとそうだな、見て、反応の意味を考えるとか……」
「つーか話聞いてりゃあったま悪すぎだろテメェ! 考えなくてもわかんだろうが!」
いつから話を聞いていたのか、一人教室の反対側にいる爆豪にデケェこえで叫ばれた。……反応の、意味?
「緑谷、それは、」
問おうとしたとき、ガラリとドアの開く音がする。視線を移せば、先程出ていった女子たちが帰ってきていた。それを見た男子たちは自然と出来ていた輪を崩し、各々の席へ帰っていく。ほぼ同時に前のドアから相澤先生が入ってきて、教室内はすっかりHRの雰囲気になった。席に座ったみょうじを見つめて、おはよう、と挨拶をする。これはさっきアイツがしてくれた挨拶の返事だ。
「さっき、挨拶してくれただろ。返事出来なかったから」
頬杖をついて、前で喋る相澤先生を見ながら呟く。そうすれば、しばらくして彼女から律儀だねえ、と間の抜けたような声が聞こえた。
……コイツの、反応。そう言われてみても、今のところいつもと全く変化がない。前を向くみょうじの横顔がなんだかぼんやりしているようにも見えたが、それも別段変わっているという訳ではない。どうしたもんかな、と思ったとき、先ほどの青山の声がフラッシュバックした。そうだ、名前。
「なまえ」
「っ……!?」
呼んでみれば、彼女は恐る恐るとでもいうようにゆっくりと俺の方を向いた。驚いている。それはそうだろう、いつも名字で呼んでいる人間が突然名前で呼び出したら誰だって一瞬は驚く。……それでもこんなに顔が赤くなるものだろうか。
「なまえ」
もう一度呼んでみれば、みょうじは耳までりんごのように顔をさらに真っ赤にさせ、何か言いたげに口をぱくぱくとさせている。これが、俺が彼女の名前を呼んだ、たったそれだけのコイツの反応。……まさか、と思う。思えば以前からそんな節はあった。買い物の飲み物のときだって、そういえば俯く彼女の耳が妙に赤かったのを覚えている。あのあとしばらく顔を合わせてくれなかったのも、そういうことなら。
思わず笑みが零れる。出来ればこの予感が、勘違いでなければいい。